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〈業〉とは何かーー行為と道徳の仏教思想史 (平岡聡著、筑摩選書)は「因果応報」「自業自得」など仏教の業思想とは何かを探求

〈業〉とは何かーー行為と道徳の仏教思想史 (平岡聡著、筑摩選書)は「因果応報」「自業自得」など仏教の業思想とは何かを探求

〈業〉とは何かーー行為と道徳の仏教思想史 (平岡聡著、筑摩選書)は、仏教における業思想とは何かを探求しています。仏教では「自業自得」といい、自分の行為(業)が自分の人生に返ってくるといいますが、果たして本当でしょうか。

みなさんは、「ご利益がある」とか「罰があたる」とか、いいませんか。

誰かにひどいことをされて、「あいつに報いが来ればいい」と、怨みの感情を抱いたことはありませんか。

本書は、そうした考え方がどこから来ているのか、について書かれている本です。

善い行いは、果報がある。

悪い行いは、苦しい報いが来る。

そういった道徳観念は、多くの人が知らず知らずのうちに刷り込まれているのではないでしょうか。

仏教は、すべての人生経験は、原因があって結果がある「因果応報」であるとします。

ゆえに、自分の行為が自分の人生に跳ね返ってくるという「自業自得」「悪因苦果」「善因楽果」の教えを標榜しています。

つまり、「いいことも悪いことも、すべては自分の思考や言動のせいなんだよ」という考え方です。

人間が自ら発する思想や行為のことを、「業」といいます。

「自業自得」「業が深い」「非業の死」…すでに日常になじみ深い“業”という言葉は、仏教思想に由来します。

仏教の教えは、「だから悪いことをしてはいけないんだよ」と、善をすすめ、悪を避けるように促す道徳思想としては有用で、先日ご紹介したように、聖徳太子が発布した十七条憲法は、それが大いに反映されました。

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しかし、ですよ。

実際の世の中は、必ずしも善人が幸福に、悪人が不幸になるわけではありません。

では、「業の思想」はいかにして多くの人を納得させつつ、仏教の教えであり続けたのか。

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業(ごう)とは?

古代インドでは、現世の「業」によって、来世は六通りの生まれ変わりがあり得るとしました。

いい「業」によって天に生まれ変わるとか、悪い「業」で地獄に落ちると言った教えです。

初期の釈迦仏教は、出家者はその「業」を滅することによって、迷いや悩みなく人生を終わらせよう(成仏しよう)、在家者はよい「業」を行なうことによって、現世利益としての果報(出世とか商売繁盛とか)を得られるだろう、とする教えです。

現在、日本に普及している大乗仏教は、在家信者でも、よい「業」を行なうことによって、果報だけでなく成仏もできるという教えが加わります。

しかし、世の中「自業自得」の論理だけでは、説明のつかないことがあります。

たとえば、毒親に生まれた子供はどうでしょう。

子は親を選べませんから、「毒親育ち」の原因を子自身が作ったわけではないので、決して子の「自業自得」ではありません。

では、「因果応報」はどうか。

プロレスを日本で繁栄させた力道山は、酒癖が悪く、すぐ人と喧嘩をして周囲の人を困らせていましたが、結局ある時、酒を飲んだ時にヤクザと喧嘩になり、刺されたのがもとでなくなりました。

これなどは、一見「自業自得」「因果応報」のように見えますが、もし、刺したヤクザとその時に出会ってなければ、力道山は刺されず、まだ現役で活躍したかもしれません。

ジャニー喜多川の、いわゆる「性加害」問題は、ジャニー喜多川没後に海外のメディアがとりあげたことで本格的に問題になりましたが、もっとはやく生前にとりあげられていたら、逆にずっと取り上げられていなかったら、いずれにしても違う展開になっていたでしょう。

つまり、「因果応報」とはいいますが、「因果」は、たしかに抽象的には間違いとはいえないけれども、必ず的確に「応報」があるかどうかは一概に言えないわけです。

物事は「必然」と「偶然」、仏教では「因」と「縁」で起こるといいますが、ではその「偶然(縁)」を知るコツは、いくら仏教の経典を読んでも出てきません。

つまり、「因果応報」や「自業自得」だけでは、起こった出来事の説明はできないし、未来の具体的な幸不幸もわからない、ということです。

された方は忘れ、シた方は覚えておくこと

ただ、人間は、不幸なことが起こると、その理由づけや意味付けをしたがります。

事件や事故、裏切ったり裏切られたりといった出来事があったとき、ひどい目に合わされた者が、ひどい目に合わせたものに対して、「なんで俺だけ。あいつにも報いが来るべきである」と思うのは人情ですよね。

そのときに、ただ感情的に、恨んだり呪ったりするのでは、理性的でなく見られて、常識ある大人として沽券に関わる。

といっても、神様の差配を願うというと、科学万能の現代社会においてはあまりに情緒的すぎるので、少しでも理性的に理解しようとする時、仏教が長い時間かけて構築してきた「業の思想」はもっともらしく有効に機能すると。

「神話の領域には安易に踏み込まず、ギリギリのところで知性・理性の領域に踏みとどまりながら、この非合理で不合理な現実を可能なかぎり合理的に理解しようとするための知的営み」として、仏教の「業の思想」があると著者はまとめます。

いろいろ長く書きましたが、私は本書の意図をこう理解しました。

要するに、ならず者にひどいことをされても、「こんなひどいことをしておいて、あいつにはきっと報いが来る」などと怨むことは、そうなる保証などないのに負の感情で自分の心が疲弊するばかりなので、やめた方が良いと。されたことは忘れて、今後は関わらないようにするしかないと。

一方、ならず者自身は、いつか時期はわからないけれど、行為の報いが来るかもしれない覚悟はしておいたほうがいい、ということだと。

人からされたことを許すのが苦手な私としては、なかなか教訓めいた結論でした。

以上、〈業〉とは何かーー行為と道徳の仏教思想史 (平岡聡著、筑摩選書)は「因果応報」「自業自得」など仏教の業思想とは何かを探求、でした。


<業>とは何か: 行為と道徳の仏教思想史 (筑摩選書 137) – 平岡 聡

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