『ためいき坂くちぶえ坂ー松鶴と弟子たちのドガチャガ改訂版』(笑福亭松枝、浪速社)は、七代目松鶴襲名騒動を笑いと涙で描いたものです。松鶴襲名問題を通して、著者の人生における師の存在を再確認します。名跡とはなにかを考えさせてくれる力作です。
六代目笑福亭松鶴師匠の思い出話を綴ったというので読んでみました。
著者の笑福亭松枝さんは、もちろん落語家。
ところが、本書はプロの作家でも書けないような、リズムと表現力で一気に読ませます。
笑福亭松枝さん、文章うますぎ!
私が、小説やノンフィクションを書くときはこんなテイストに仕上げてみたいと思いました。
面白困った師匠に対する愛情とノスタルジー
私は生まれも育ちも東京のため、大阪の演芸界についてはそれほど馴染みがあるわけでもなく、詳しくもありません。
ただ、少年の頃、土曜日のNHK大阪制作の番組で、大喜利のようなコーナーがあり、進行役の笑福亭松鶴さんが、いきなり「おもろい!」と怒鳴るNHKの昼の番組を見て、剛気と狂気と、その一方で繊細さを感じさせる人間性に興味を持ちました。
六代目笑福亭松鶴が、上方落語の四天王の一人というのは、ずっとあとになってわかったことです。
六代目笑福亭松鶴、桂米朝、五代目桂文枝、三代目桂春団治をして、四天王とされています。
ちなみに、その番組の出演者は、テレビで売れっ子だった笑福亭仁鶴さん以外はわからず、知らない人=売れてない人と単純に考えた子供の私は、仁鶴さんはよく出演したなあ、などと勝手に考えていました。
それはともかくとして、本書『ためいき坂くちぶえ坂ー松鶴と弟子たちのドガチャガ改訂版』は、笑福亭松枝さんが、浪速社から上梓しました。
タイトルは、「坂」の上に六代目笑福亭松鶴師匠の邸宅があり、そこに向かうのは「ためいき」が出るが、帰りは「くちぶえ」が出るという意味です。
ただし、わざわざ本にしているのは、それが心から嫌なのではなく、むしろ楽しかった思い出になっているのです。
六代目松鶴とその弟子たちのおかしくも哀しいお話をユーモアたっぷりに松枝タッチで描いた笑撃の青春記、と宣伝惹句では綴られています。
笑福亭松枝さんが、六代目松鶴師匠の思い出を、おもしろ困った筆致で綴っているのですが、愛情とノスタルジーが大いに感じられて、面白く読むことができました。
サブタイトルに「松鶴と弟子たちのドガチャガ」とつけられているように、おかしく理不尽で、でもしみじみと感動できる場面も描かれています。
そして、その綴りの背景にあるのが、笑福亭松鶴という名跡の七代目襲名をめぐるあれこれです。
師匠の名跡へのこだわり。
七代目襲名が決まった弟弟子に対する著者の揺らぐ気持ちが切なくリアルに描かれています。
初版は1994年、現在お目にかかれるのは2011年に出た改訂版です。
私は初版から読んでいますが、どうして大阪演芸界に詳しくない私が手に取ったかというと、当時深夜に放送していたテレビ番組『鶴瓶上岡パペポTV』で話題にしており、あの手厳しい上岡龍太郎さんがベタ褒めだったので、では読んでみようと思ったのです。
いや、たしかに笑福亭松枝さん、文章巧すぎです。
一応、書き屋の端くれの私も、何ら留保をつけずシャッポを脱ぎます!
こればかりは、実際に読んでいただかないと伝わらないのですが、状況描写も、笑いと涙のバランスも絶妙です。
七代目松鶴襲名の心理模様
落語や歌舞伎、相撲など伝統を売り物にしている世界では、当代が亡くなると、その名跡について跡継ぎが取り沙汰されます。
といっても、必ずそうだというわけではなく、その代限りの「止め名」になる場合もあります。
どちらになるかは、やはり弟子や家族や関係者がどう考えるか、によるのでしょう。
さて、笑福亭松鶴は、上方噺家に続く大名跡です。
六代目が亡くなり、七代目という話が出てきました。
そんな、笑福亭松鶴と弟子との生活や、七代目襲名騒動を描いたのが、弟子の笑福亭松枝が描いた『ためいき坂くちぶえ坂』(浪速社)でした。
最初に話を持ち込んだのは、一番弟子の笑福亭仁鶴さんでした。
仁鶴が声を潜めて言った。三人とは松喬・松枝・呂鶴である。その気配にただならぬ物を感じ、松枝は不安を覚えた。
『ある事』とは何なのか、何に賛成せよというのか……。
平成五年十二月二十八日、笑福亭一門の忘年会、今まさに乾杯を前にしての事であった。(中略)
「先日、松竹芸能・勝社長よりお話があり、早く『笑福亭松鶴』の名前を復活させるべきではないか・・・・・・私も、尤もと思い・・・・・・そこで、その候補を六代目松鶴の直弟子であり、松竹芸能所属である者に絞り考えました・・・・・・。本日、その名前をここに発表します」
凍結では無く、さらに仁鶴(吉本所属)本人で無いと言う。ならば……。
(中 略)
「私は熟考しました。そして苦しいながらも、結論を出しました……」
鍋が煮えたぎりグツグツ音を立てた。自分の心臓の鼓動に似ていると松枝は思った。
音にせきたてられたかのように、仁鶴は一息に言った。
「熟考を重ねた結果、『七代目・松鶴』は・・・・・・七番弟子の『松葉君』に」
空気が氷った。時間が凍てついた。
六代目笑福亭松鶴門下は、二番弟子の笑福亭鶴光さんが東京の落語芸術協会に転出しており、三番弟子の笑福亭福笑さんも、上方落語協会にこそ加盟しているものの、松竹芸能や吉本興業と言った芸能プロダクションには所属しない独自の活動をしており、どちにも欠席。
そこで、四・五・六番弟子である「三人」に、笑福亭仁鶴さんは因果を含めたわけです。
……という解説はともかくとして、要するにこの書き方は、「余計なことをしてくれるな」という思いがこもっているわけです。
以後、同書は、弟子としては留め置いてほしい名跡を襲名させることに対する苦悩が描かれています。
ただし、笑福亭仁鶴さんに対する批判や、襲名がなぜイヤなのかということを理路整然と語ったりする重さや堅苦しさではなく、六代目笑福亭松鶴師匠との面白困った師弟生活を描くことで自分の気持ちを表現している“師弟愛による反論”になっています。
つまり、一騎当千の個性をもった六代目笑福亭松鶴師匠の名前は、松鶴師匠自身以外にありえない。
少なくともそれを知っている自分たち弟子が現役の間は「欠番」にしておいてほしい、という思いです。
しかし、結局七代目は七番弟子の松葉さんに継がせることになりました。
ところが、なんと襲名披露当日に右頸部鰓性がんのため松葉さんは急逝。
そのため、「襲名」ではなく「追贈」になってしまいました。
なくなった人につけたわけですから、もうそれは自動的に止め名です。
師匠との面白困った生活は、理不尽なこともありますが、思わずほろりとする場面もあり、等身大の人間とその心が描かれています。
笑福亭松枝さんは五番弟子と書きましたが、章末に掲載されている『松鶴一門の推移・一門系図』によると、なんと弟子は22名(物故者1名、廃業者2名)もいるんですね。
細かいプロフィールまで書かれていますが、知らない方もいるのに全部目を通してしまいました。
- 仁鶴
- 鶴光
- 福笑
- 松喬
- 松枝
- 呂鶴
- 松葉(七代目松鶴、故人)
- 鶴瓶
- 鶴志
- 小つる(六代目枝鶴)
- 伯鶴
- 和鶴
- 竹林
- 円笑
- 鶴松
- 岐代松
- 伯枝
- 忍笑
- 福輔(廃業)
- 鶴笑
- 鶴二
- 小松(廃業)
むしろ、22名中19名も落語家として残っているというのは素晴らしいですね。
“暴露本”も様々
弟子が師匠との生活を暴露する。
そんな書籍は、落語界だけでも、私が知る限り3冊か上梓されています。
そのうちの一つは、すでにご紹介したことがあります。
金田一だん平(元三遊亭窓太)さんが、師匠を間違えたと悔やむ『落語家見習い残酷物語』(晩聲社)です。
落語家に弟子入りしましたが、結局残れなかった者の「私怨と私憤満載の不思議本」(版元宣伝コピー)です。
本当は、立川談志師匠に弟子入りしたかったのに、三遊亭圓窓師匠に弟子入りしたから失敗した、との独善的な内容で、Web掲示板でも叩かれまくりました。
もう一冊は、先ごろ訃報が話題になった、三遊亭円丈さんの『御乱心ー落語協会分裂と、円生とその弟子たち』(主婦の友社)です。
1978年に日本落語協会という落語家の組織が分裂しました。
職人気質で好き嫌いが極端にはっきりしていた六代目三遊亭円生さんが、協会(五代目柳家小さん会長)大量の真打ち昇進に反発して一門で脱退。
しかし、一部「造反者」が出た上に円生師匠が亡くなり、結局は五代目三遊亭圓楽一門だけが新しい協会を作ったという顛末です。
三遊亭円丈さんは落語協会に戻りましたが、分裂騒動における兄弟子・圓楽さんや師匠・円生さんを批判。
圓楽さんについては、無節操かつ傲慢で責任転嫁ばかりしている人物として具体的にそのふるまいを暴露して批判。
円生師匠については、自分の師匠ですが、圓楽のえこひいきなどで結局三遊亭の本流である一門をぶち壊してしまったことを「許さない」と厳しく糾弾しています。
たまたまかもしれませんが、東京の落語家は師匠を断罪し、大阪の落語家は「面白困った」愛情たっぷりの描写です。
師匠や兄弟子の実態を暴露し批判する。建前やキレイ事が好きな日本人には評価がわかれる行為かもしれません。
私は、公益性ある真実であるならその著作物は尊重したいと思います。
どちらがいいか悪いかはともかくとして、好き嫌いは、読む人によるでしょう。
余談ですが、私は圓丈師匠のお宅にお邪魔したことがありますが、ご本人は普段は物静かで紳士的な方でした。
いずれにしても、落語に詳しかったり特別な関心のない方にもお勧めの一冊です。
以上、『ためいき坂くちぶえ坂ー松鶴と弟子たちのドガチャガ改訂版』(笑福亭松枝、浪速社)は、七代目松鶴襲名騒動を笑いと涙で描いた、でした。