なぜ、一流の人はご先祖さまを大切にするのか?(一条真也著、すばる舎)は、一流の人は先人への感謝の儀式にも意識を払うという話です。日本人の宗教意識や倫理観についての言論活動を続けてきた著者は、一流の人は先人への感謝にも意識を払うと述べています。
『なぜ、一流の人はご先祖さまを大切にするのか?』は、葬儀会社社長であり、作家であり、大学の客員教授もつとめる一条真也さんが、すばる舎から上梓した書籍のKindle版です。
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本書は、成功している企業経営者は、会社の中に神社や仏壇をつくって、社員にもそれをしっかりお奉りするよう指導している人が少なくないのはなぜか、について解説しています。
先人への感謝の儀式にも一流の人は意識を払う
なぜ、一流の人はご先祖さまを大切にするのか?
一流の人は、宇宙のすべてを味方につけている。
一流の人は、「現在・自分」ではなく、伝統や周囲に向けている。
その拠り所となるのが先祖である。
一流の人は、会社には神棚を作り、自宅には仏壇を置き、神仏や先祖に感謝の気持ちを持っている。
自分と血のつながっている直接のご先祖さまに限らず、日本人全体のご先祖さまという意味で、さまざまな先人への感謝の儀式にも一流の人は意識を払う、という内容です。
書いてあることの限りにおいて違和感はないし、葬儀会社社長として、作家として積み上げた実績は、その裏付けになっていると思います。
ただ、やはり本書は、いうなれば「先祖性善説」なんですね。
つまり、先祖を無条件に崇める立場です。
でも、世の中には、子孫に大きな負の遺産を遺している先祖もいれば、子供を虐待する親もいます。
「生んでくれたことに感謝」といいますが、根源的には「それ、逆でしょ?」と思います。
だって、別に子供は、その親から生まれたいと懇願したわけではありません。
その一方で、親が子を生むのは、好き好んで生んだわけです。子供がほしいと言ってね。
無理にナニされて、「望まない妊娠」でもすれば別ですが……。
親や先祖への感謝は不要だ、といっているのではありません。
子が、親や先祖に感謝するのは、個々の「内心の自由」だと私は思うのです。
ですから、ナニも引っかかりがなく感謝できるなら、本書はなんの留保もなく、心の教科書になると思います。
ただ、世の中には、感謝したくてもできない、疑念や怨みを抱かざるをえない「ほしのもと」に生きる人もいます。
その場合、どうしたらいいのかな、「引っかかり」をどうやって払拭したらいいのかな、という点で、残念ながら納得行く答えは一切書かれていませんでした。
それと、「一流の人」というのがね。
別に、そうでなくてもいいという人もいますよね。
人間、立派であれというのはどうでしょうか。
いい加減にだらしなく生きる自由もありますよね。
先祖はあなたの考え方に沿って宿るのかもしれない
以下は、本書にそう書いてあるのではなく、私が考える亡親や先祖に対する考え方です。
私の結論は、
- 神も先祖も個々の心の中に宿る
- (親を含む)先祖を心からありがたく感謝できる人には、守ってくれる先祖が宿る。
- (親を含む)先祖に怨みや憎しみを感じている人は、その側面を持った先祖が宿り、人生の足を引っ張る
仏教界の、たとえば亡くなった人はみな浄土し子孫を暖かく見守っているという浄土真宗からすると、「3」は違うだろうと思うかもしれませんが、まあ宗論は措いてもう少し詳しく書きます。
私は特定の信仰はありませんが、亡くなった人のことを便宜上「霊魂」と書きます。
まず、霊魂は客観的に実在しないと思います。
「しない」ことの証明は不在証明と言って論理的に不可能ですが、少なくともその存在を客観的に立証した話は聞いたことありません。
要するに、私達が暮らす空間に先祖の霊魂がほわほわ存在して私たちを監視し、私たちが人の道を外れることをしたら、制裁としてバチを当てる……、なんてことはないと思います。
ただし、主観的には存在し得るように思います。
つまり、あなた自身の心の中に、あなた自身が霊魂を宿すのです。
たとえば、自分の親に対して、いつも見栄っ張りで実の子である自分に過干渉だったいやーな親、という思いが強ければ、そのような霊魂が宿ります。
そして、実際に、その親がそうしているように、あなたは何かをしても何らかの妨害が入ってうまくいきません。
一方、自分のことをいつも考えてくれて自分を守ってくれる優しい親、という思いが強ければ、やはりそのような霊魂が宿ります。
そして、何かをしようとすると、見えざる力であなたを良い方向に導いてくれます。
私は、毒親に育てられた人は、大きくなって、たとえその親が亡くなっても、その親と離れて暮らしても、小さいときに刷り込まれた「毒の教え」が呪縛となって、なかなか自分の人生を全面開花できない、と思っていました。
合理的に見れば、それは今も間違っていない見方だと思っています。
ただ、もし、もしですよ、本書に書かれているような「先祖の力」があるとすれば、私の仮説はあながち的外れでもないでしょう、ということです。
つまり、親や先祖を憎んでいる限り、そういう親や先祖があなたの心の中に宿って、あなたの人生を邪魔し続ける。
一方、優しい先祖を心に宿せば、自分の努力をきちんと見てくれ、味方になってくれて人生を助けてくれる。
それが、現象的には親や先祖の呪縛から逃れられないように見える、と。
そんなふうに考えました。
感謝できない「ほしのもと」はどうすればいいのか
だったら、とにかく先祖を悪く思うことが「悪」であり、どんなタチが悪かった親でも先祖でも、それには一切目をつぶって、ありがたやありがたや、と言っていればいいのか。
本書によれば、そういうことなんだと思います。
ただ、私は少し意見が違います。
タチが悪いなら、どう悪いのか棚卸しをすればいい。
自分の精神衛生上もいいし、悪いところがわかれば、自分の代で食い止め、子孫にその旧弊なものを継がせないように心がけることもできます。
そういう行為で先祖が腹を立てるようなら、それこそタチの悪い先祖とみなしていいでしょう。
浄土真宗では、そういう子孫ほど先祖は愛おしいと思うらしいですけどね。
ただ、そんな棚卸しをするようでは、やはり先祖に対して、本書が推奨する無条件感謝の心はいだきにくいと思います。
だとすれば、たとえば墓じまいをしたり、位牌をお焚き上げするなどして供養を打ち切ったりするのも、ひとつの方策です。
そのような気持ちで供養をしても先祖も喜ばないし、何よりそれによって自分の心に「タチのわるい先祖」が宿したらいけません。
つまり、先祖に対しては、本書のように「感謝」するか、もしくは距離を置かせてもらうか、どちらかしかないと思います。
「あんな先祖だが、どうやったら感謝の気持を抱けるのか」などと、悩み続けるのは不毛です。
著者は、早稲田大学の政経学部を卒業し、親の会社を継いでいます。
そんなアッパークラスの「ほしのもと」なら、親に感謝するよね。
でも、世の中、学校もいかせてもらえない、それどころか子供が自覚的主体的に考えた進路に反対して好きな道に進ませない、ひどい親だってごマンといるのです。
そういう親をどうやって許したらいいのか。
繰り返しになりますが、誰もが無条件に感謝できる先祖とは限らないわけで、そこをどうするかは、「めぐまれなにいほしのもと」にある人にとっては、悩ましいところだと思います。
以上、なぜ、一流の人はご先祖さまを大切にするのか?(一条真也著、すばる舎)は、一流の人は先人への感謝の儀式にも意識を払うという話、でした。