カルト宗教信じてました。(たもさん、彩図社)は、制限だらけの生活のエホバ2世が、息子の病気治療をきっかけに宗教をやめた話です。カルト宗教とは、日常生活における非科学的な考えや行いを売り物にした宗教の看板を掲げるところを言います。
著者のたもさんは、教材のセールスなどに騙されやすいという母親が入信。
たもさん自身は、10歳のときに、4人いる子供の中で、いちばん口答えせず言うことを聞きそうだからと入信させられます。
たもさんには悪いですが、そういうのを毒親といいます。
親が信じるものであろうが、信じるか信じないかは子供の自由でしょう。
たもさんは、小学校5年から35歳までの25年間、どっぷりつかり、かつ信者と結婚したにも関わらず、今は教団を離脱しているそうです。
どうやって教団から離脱できてたのか。
そもそも、エホバの証人の信者生活とはいかなるものなのか。
自らの体験を漫画で描いています。
もちろん、本書はたもさん個人の体験談で、「特定の団体や個人、信仰の自由を否定する意図は全くありません」とのことわりを入れています。
私も、それに倣った前提で、本書のレビューと自分の経験を書きます。
「べからず教」は我が子の大病がきっかけで決別した
『カルト宗教信じてました。』(たもさん、彩図社)によると、エホバの証人は、「1870年代のアメリカで、「チャールズ・テイズ・ラッセル」というフリーメイソンのおじさんが始めた宗教」だそうです。
「証人」というのは、裁判で証人が証言するように、エホバ神こそが正しいということを証しする人という意味だとか。
この世は悪魔サタンが支配しているため、近い将来、エホバはハルマゲドンでこの世を滅ぼして、エホバを信じない人は抹殺され、エホバを信じる人だけが生き残って、それまでに死んだ多くの死者も復活し、地上の楽園で年老いることなく、永遠に生き続けられる、ということを信じているそうです。
「死んでも復活」というのはよく聞きますが、かねてから疑問がありました。
たとえば認知症になってから死んだ人は、認知症の状態で復活するのでしょうか。
事故や事件で、たとえば体がバラバラにされた人は、その状態で復活するのですか。
いや、そうではなく、なんでもない元気なときに復活するというのなら、それはどの時で、誰が決めるのでしょうか。
「オマエは50歳の状態で復活だ」とか決めるのかな。
整形手術した人が、整形前のときに復活させられたら、ありがた迷惑かもね。
「年老いることなく」といいますが、それは加齢がないということでしょうか。
さすれば、子供のときに不慮の事故や親の虐待で亡くなった人は、永遠に子供なのでしょうか。
揚げ足取っているのではありません。
復活するのならそれは大変結構なことですが、曖昧ではなく、そのへん真面目にやってほしいと思うのです。
信じる人は必死なのです。真面目なのです。切実なのです。
エホバの証人は「べからず教」と言われ、「楽園」にいくために戒律が厳しい。
- 偶像ダメ
- 輸血ダメ
- 性の不品行ダメ
- 戦いダメ
- タバコダメ
- 非信者と仲良くしてはダメ
国旗、十字架、校歌、推しアイドルなど
柔道やボクシングなどスポーツもダメ
と、世俗的なことを一切禁じているそうです。
以来、部活も自由にできず、進路は進学も就職もままならず、彼氏も作れない。
この間の生活と教団の関わり方は、本書で詳細をご覧ください。
とにかく、自己肯定感が弱いたもさんは、そんな制限だらけの日々に耐えてきた、というより逆らってまで進める人生の道筋がありませんでした。
それが脱会するきっかけになったのは、まず阪神淡路大震災。
信者が亡くなっているのに、信者ではない自分の姉妹は助かっている。
たもさんは疑問に思うのですが、たもさんの母親は疑問を抱くことを責めます。
「疑念を抱くのは良くないことだわ!!あなたサタンにつけ狙われるわよ」と。
亡くなった信者は楽園で復活する。
それこそが真の命なんだと。
ここでも一言しておきますが、宗教には輪廻転生とか、現世の死が終わりではないことを説くものはエホバに限らずあるのですが、でも、今の「ほしのもと」による仕事や友人などの環境にある現世は1度きりでしょ。
「真の命」がどういう状態かわかりませんが、まず現実に今生きている日々を後悔しないように過ごすことが大切だと私は思います。
そして、たもさんは、いささか緩い信者と結婚し子宝に恵まれますが、難病で輸血が必要になります。
血液製剤で回復した息子とたもさんたちに、母親は「輸血に同意した先例を作る」と批判。
輸血で助かっても数十年の命。
輸血を拒否すれば、エホバから永遠の命をもらえる、というロジックを展開します。
えーっ、自分の孫がせっかく助かったのに……
しかも、エホバの証人は、子を虐待する教団だったと、たもさんは描いています。
そこで、夫婦はエホバから離れることを決意します。
まあ、論より証拠で、実際に読まれると、ぐんぐん引き込まれます。
私の体験
私も、エホバの証人ではないのですが、新興宗教には嫌な目に遭ったことがあります。
郵便ポストにしょっちゅうビラが入っている手かざしの某団体にハマッた親類がいるのです。
具体的には、私の父の姉の息子夫婦です。
つまり従兄弟です。
といっても、私と血縁関係のある夫の方ではなく、ハマったのは妻と娘らしいんですけどね。
その親類とは、冠婚葬祭で顔を合わせる以外、特別親しくしているわけではありません。
だから、いつどのような経緯で入ったかはわからないのですが、毎日のように地元の手かざし道場に通っているようです。
いずれにしても、親類であろうがなかろうが、それは「信教の自由」だから私がとやかく言うものではありません。
ところが、従兄弟夫妻は、それだけではおさまりませんでした。
勧誘してはならないときに勧誘したのです。
私の妹の夫、つまり私にとっては義弟が、若くして白血病で亡くなりました。
40代半ばでしたから、そりゃ、残された人の悲しみや無念さは察するにあまりあります。
義弟の姉の夫が、なるべくたくさん呼んでほしいと言うので、私はいとこたちに連絡を取りました。
すると、私の亡父の姉の息子、つまり従兄弟が、妻と一緒に行くと頑張っている。
とくに妻が張り切っていて、1度も見たことのない人なのに、「お別れをしたい」と言っている。
何も知らない人は「義理堅いなあ」と思いますよね。
私も最初はそう思った。
従兄弟の妻は、事前に私に電話までよこし、場所と時間を確認する念の入れよう。
あまりに熱心なので、「それはもう従兄弟に言ってあるはずだけど」とまではいえませんでした。
当日、従兄弟の妻は一番乗りで会場に駆けつけ、妹を見つけるやいなや、医療や介護従事者でもマッサージ師でも整体師でもないくせに、妹の腕や腹をなでて、何かぶつぶつ言っている。
このへんから怪しいと思ったのですが、さすがに手かざしはしなかったので、その時点では気づきませんでした。
そして、お経が終わって、参列者が精進落しの料理を口にしている時、従兄弟の妻らはなんと、列席した人で知り合った人の住所を聞き出して、後日その地区の信者を勧誘によこしたり、ひどいときには、よりによって告別式の日に遺族に対して勧誘のチラシを配ったりしたのです。
まあ、他人を入れる前にまず親類から、というのは彼らにとって当然のことなのでしょう。
私は席が離れていたし、まさかそんなことをしているなんて知らなかったから気が付かなかったのですが、亡くなった妹の夫の姉の連れ合いがカンカンに怒りまして。
というのも、姉の夫の父親が、元カルト教団担当の警察官だったそうです。
それだけではないのですが、それがきっかけで、私は妹と現在没交渉です。
悲しい行事のはずなのに、まるで待ち望んでいたように妻を連れてやってくる。
いちばん人間が弱っているときにそこにつけこむやり方が、私には許せません。
勧誘すること自体は犯罪ではないでしょうが、場をわきまえない非常識さは非難されるべきでしょう。
ましてや、兄妹の仲まで割いたのだから。
妹の夫の姉の連れ合いが言うには、彼らはマインドコントロールされて、いいことをしているつもりでいるから、正面切って物申してもケンカになるだけだ、とたしなめられたのですが、私はただちに手紙(特定記録郵便)で絶縁を申し渡しました。
すると、先方は、差出人(自分)の名前を書かずに、でも居住地の消印で、やたら分厚い封書を送ってきました、
反論なのかなにか別の意図か知りませんが、自分の仕業と知られたくなかったら、居住地から離れたところで投函しろよ(笑)
私は、「差出人の名前を書かないものなんか読まないから2度と出すな。用事があるなら正々堂々と名乗れ」と返事(これも特定記録郵便)したのですが、またしても同じことをしてきたので、「今度やったら、手紙は直接警察に渡す」と2度目の返事(これも特定記録郵便)を出して、やっと沙汰止みになりました。
ま、警察には見られたくない内容だったんでしょうね。
これは、教団の問題ではなく、従兄弟夫妻がそもそも人格的に問題があるのだと思います。
ただ、教団の布教活動を行っている以上、やられた方は、「そういうことを厭わない教えなのか」と思わざるをえないですよね。
カルト教団批判は「宗教弾圧」なのか?
カルト教団のニュースでは、必ずと言っていいほど、当事者にその意識がないという報道がなされます。
その「食い違い」を以て、カルト側やそのシンパは、「カルトなんてもともと曖昧な定義である」とし、そんなレッテルを貼って攻撃するのは名誉毀損、もしくは宗教弾圧だといいます。
しかし、本当にそうなのでしょうか。
消費者問題とカルト教団被害に詳しい紀藤正樹弁護士は、以前私が話を伺ったときに、こうコメントしてくれました。
例えば、H2Oは水というふうに定義するのかもしれませんけど、元々H2Oが水だと分らない時代だったら、水というものは、触れてみてさらさらして流れるものが水というふうに漠然と決めた訳です。そこでは、定義がはっきりしていなくても、『水』がないということではない。
カルトもそれと同じで、カルトの定義が明かでないから、カルトは存在しない、ということにはならない。定義が無いことを批判する意味は殆ど無いのです」(JAPANSKEPTICS第9回シンポジウムで)
何をカルトというか概念論争以前に、子どもたちが意思に反して学校にも行っていないとか、歴然とした事実から、そこにカルト性を蓋然的に推理しなければならないのです
ただ、カルトの問題が、伝道の違法性を問うことが難しいことは確かなようです。
たとえば、壺を売った(売らせた)というような経済行為は、比較的違法性を指摘しやすい。
しかし、その団体に入ったという選択自体は、その人の自由意思であって、「入れた」ということが果たして罪に問えるのか、という議論は当然でてきます。
紀藤正樹弁護士はこう続けます。
勧誘自体を問うというのなら、政治団体が学生を勧誘するのも問題になる可能性があるし、会社に入らないかというリクルーティングもあります。だから、本当にギリギリなんですよ。しかし、通常の消費者問題は明らかに「これは問題だ」という方が多いと思うんです。多くの人にとってインモラルであることはわかりやすいですね。そういう意味では、理論面においても裁判的な意味においてもカルト問題ほど難しくはないんです。
ぼく自身は統一協会の問題に1990年から関わってきました。信者を勧誘するために、不実表示等何をしても許されるという統一協会の伝道の在り方は違法であることを裁判官に理解してもらう戦いでした。
当時、マインドコントロールといっても世間では知られていなかったんですよ。1991年4月14日、「青春を返せ訴訟」の弁護団を結成して、提訴の記者会見を開いたときに、マインドコントロールの話をしても、ほとんどの人が「SFの話」という感じでとらえていました。日本語の文献もなく、英語の文献を読んだり翻訳したりしていた時代だったのです。
それが、92年に山崎浩子さんの入信・脱会騒動がありまして、そのへんからマインドコントロールという言葉が社会的には認知されるようになってきました。94年には、2人の女性に対する統一協会の信者らによる献金勧誘行為が違法であるとして、統一協会に使用者責任を認めた判決が出ます(福岡地裁平成6年5月27日判決「統一協会献金違法判決」)。そして、95年にオウム真理教事件が起きて、たんなる流行語ではなく社会的キーワードになっていったのです。この頃には、検察官が記者会見で「マインドコントロールされた信者から自供を得るのは難しかった」とまで言うようになりました。
ぼくが勉強をはじめた頃は、マインドコントロールという言葉や、正体を隠した伝道が問題とされた判決はアメリカにしかなかったのです。それが今や、日本の裁判水準は世界の中で日本が一番進んでいるんじゃないでしょうか。
伝統的な宗教の檀家と、新興宗教の信者のいちばんの違いは、前者が個人的価値観における信仰であるのに対し、彼らは信仰以上に、他者をその教団に入信させることに熱中する点にあると思いました。
まあ、絶縁は生涯解くつもりはありませんが、たもさんのように、従兄弟の妻と娘も、目が冷めてほしいなと思います。
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以上、『カルト宗教信じてました。』(たもさん、彩図社)は、制限だらけのエホバ2世が、息子の病気治療をきっかけに宗教をやめた話、でした。