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NHK「100分de名著」ブックスブッダ真理のことば(佐々木閑著)は、「お釈迦様の仏教」をその第一人者が『ダンマパダ』から解説

NHK「100分de名著」ブックスブッダ真理のことば(佐々木閑著)は、「お釈迦様の仏教」をその第一人者が『ダンマパダ』から解説

NHK「100分de名著」ブックスブッダ真理のことば(佐々木閑著)は、「お釈迦様の仏教」をその第一人者が『ダンマパダ』から解説します。仏教は「心の病院」であると説く著者。苦悩の現代にこそ「お釈迦様の仏教」の経典を読みたいものです。

『NHK「100分de名著」ブックスブッダ真理のことば』は、佐々木閑さんが上梓した書籍です。

この記事では、Kindle版をご紹介します。

佐々木閑さんの書籍については、『別冊NHK100分de名著集中講義 大乗仏教こうしてブッダの教えは変容した』をご紹介したことがあります。

別冊NHK100分de名著集中講義大乗仏教こうしてブッダの教えは変容した(佐々木閑著、NHK出版)は原始仏教と大乗仏教の違いを解説
別冊NHK100分de名著集中講義大乗仏教こうしてブッダの教えは変容した(佐々木閑著、NHK出版)は原始仏教と大乗仏教の違いを解説しています。どうして日本の住職は、結婚もするし金儲けもするしお酒も飲むのだろう、という疑問も解決します。

同書は、原始仏教(お釈迦様の仏教)と大乗仏教の違いを、「どう違うか」について解説しています。

仏教というのは、インドで起こった、つまりお釈迦様の悟り(釈迦仏教、お釈迦様の仏教)と、中国から日本に伝わった大乗仏教と、大きく2つの潮流があります。

この2つは、同じ「仏教」を名乗っていても、実は全くといってもいいほど違うものです。

簡単に述べれば、お釈迦様の仏教というのは、出家して自らが悟る仏教です。

大乗仏教とは、在家者(つまり私たち普通の人々)をも救う仏教です。

狙っているところが全く違うので、内容は違って当然です。

その違いを解説したのが、上掲の『別冊NHK100分de名著集中講義 大乗仏教こうしてブッダの教えは変容した』です。

本書は、「お釈迦様の仏教」について、『ダンマパダ』(法句経)という韻文のみからなる経典から読み解いて解説しています。

本書によれば、『ダンマパダ』(法句経)は、仏教を拠り所として生きようとする人が、どのような心構えでものを見、ものを考え、悟りへの道を進んだら良いかという基本的な指針を示しています。

そして、後半1/3は、著者と藤田一郎さん(脳科学者・神経科学者)の対談も掲載されています。

本書は2022年12月10日現在、AmazonUnlimitedの読み放題リストに含まれています。

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物理現象は「科学」そのとらえる心のありようは「仏教」

お釈迦様の仏教というのは、宗教というくくりの中でも他に類を見ないものです。

キリスト教やヒンドゥー教など他の宗教は、この世を創った絶対主の神がいて、すべてはその神の愛に感謝していればよい、とするものです。

その点、お釈迦様の仏教というのは、神様のような絶対的存在を前提とした世界観ではなく、もちろん神にお願いしたり、念仏を唱えたりすれば救われる、という立場もとっていません。

「お釈迦様の仏教」の最大の特徴は、外の力に頼らず、あくまでも自分の力で道を切り開くというものです。

つまり、なにかの神頼みの宗教ではないのです。

本書によると、イエスは、最初から「救世主」として登場したが、お釈迦様はもともと自分の苦しみを解決するために修行を始めたのであり、人助けが目的ではなかった。その違いがあるとしています。

伝説では、そのとき梵天があらわれ、体験を皆に説けば多くの人が救われると言われて布教を決意したとされる。

著者は、それをもって、仏教を「後ろ姿の教育」と名付けています。

正面から自説を説いて賛同者を集めるのではなく、懸命に精進している自分の姿を見せることで、人は後からついてくる、というものです。

ですから、仏教は、他の宗教のように信者獲得がミッションとして存在しません。

仏教を心の病院だと考えると、その存在意義もよく見えてきます。 仏教は病院ですから、病気で苦しんでいる人を治すのが仕事です。病気でない人には全く必要ありません。ですから、病院がわざわざ外へ出かけていって健康な人を引っ張り込んで入院させるようなことをしないのと同じく、仏教も、苦しみを感じていない人まで無理矢理信者に引っ張りこもうとはしません。病院の目的は、患者を増やして勢力を拡大することではなく、困ってやって来た人をしっかり受け入れ、その病気を治療することにあります。実はこれが、仏教という宗教が無理な布教をしない一つの理由でもあるのです。

誘われてするものではないのです。

自分の救済者は自分自身である。他の誰が救ってくれようか。自分を正しく制御してはじめて、人は得難い救済社を手に入れるのだ。

では、「お釈迦様の仏教」が「自分の力で道を切り開く」のは、何を前提として何を切り開くのかといえば、少なくとも客観的現象については、ありのままに見ることを前提としています。

「え、『ありのままに見る』のだったら、科学と変わらないんじゃないの?」

科学は、物理的な現象の法則性を明らかにします。

お釈迦様の仏教は、自分の心のあり方にもっていきます。

本書にも、こう書かれています。

多種多様な仏教の中でも「釈迦の仏教」は神秘主義がほとんど入らないので、科学の世界の人たちもあまり抵抗なくロジックを共有することができるようです。
また、超越存在を認めず、世界を原因と結果の機械論的因果則でとらえようとする視点も、「釈迦の仏教」と科学で共通しています。仏教はその因果則を精神内部の向上に利用、科学は外界の法則を探求するのに使うという違いはありますが、論理性のレベルにおいて両者に大きな相違はありません。

たとえば、病人に対して、病気を治すことや、病気にならないことを解決とするのが医学・医療です。

生きていく上で、病院や医師が存在しなかったら困りますよね。

ただし、私たちが生き物である以上、医学や栄養学やその他政治など総動員して、寿命を伸ばしたり、病気になっても過ごしやすい病院やケア施設や介護福祉体制を作ったりしても、永遠の健康が得られるわけではなく、病気や死をなくすことはできません。

生老病死が人間の宿命であるなら、それに対する人の悩みや苦悩は消えることはありません。

人間誰もが老い衰え、病気にもなるし、いずれは死ぬ。

さすれば、その事実を、正しく受け入れることができるように自分の心を変えていことで、悩みや苦悩を解決する「道を切り開く」事が必要です。

これが仏教です。

科学と「お釈迦様の仏教」というのは、対立するものではなく、狙っているところが違うのです。

本書には、ほかにも仏教と他の宗教の大きな違いが書かれています。

キリスト教は、神を信じさえすればいいので、わざわざ「出家」するという概念はありませんが、「お釈迦様の仏教」は、どこにも拠り所を求めず自分で苦しみを解決するものなので、悟るまでの修行は困難を極めるため、本気で悟りを志すには出家するしかないと書かれています。

戒や誓いだけでは手に入らず、あるいは博学であることや、瞑想の体得や、人気のない場所での寝起きによっても手に入らない、凡夫では味わうことのできない出離の安楽を、私は得た。修行者たちよ。煩悩が消滅するまでは、気を許すな。

なぜ「本気で悟りを志すには出家するしかない」のか、つまり具体的な出家修行のメリットは本書に書かれていますが、その際、持っている資産は家族においていくことになっており、お釈迦様に寄進しろなどということにはなっていません。

ナントカ真理教のように、教祖に貢ぐためではなく、あくまで修行のために出家するからです。

無明が輪廻転生を繰り返す

『ダンマパダ』(法句経)など、お釈迦様の時代に近い、古い段階のお経をまとめて『ニカーヤ』と言います(中国では阿含といいます)。

本書で解説している『ダンマパダ』(法句経)は、次の26章で構成されています。

第1章 – 双
第2章 – 不放逸
第3章 – 心
第4章 – 花
第5章 – 愚者
第6章 – 賢者
第7章 – 尊者
第8章 – 千
第9章 – 悪
第10章 – 罰
第11章 – 老い
第12章 – 自己
第13章 – 世界
第14章 – ブッダ
第15章 – 楽
第16章 – 愛
第17章 – 怒り
第18章 – 汚れ
第19章 – 法行者
第20章 – 道
第21章 – 雑多
第22章 – 地獄
第23章 – 象
第24章 – 渇愛
第25章 – 比丘
第26章 – バラモン

著者は、その中の悟りを解説しています。

仏教の基本は、「人の苦しみにはすべて原因がある」といいます。

これを「一切皆苦」といいます。

物事には、すべて因果かあり、不可思議なパワーでこの世を動かす絶対者の存在を認めません。

では、その原因はなにか。

お釈迦様は、煩悩であると考えました。

『ダンマパダ』には、「汚れた心」「愛慕」「快楽」などと表現されています。

恥じなくてもよいことを恥じ、恥じなければならないことを恥じない。そういう者たちは、誤った見解を抱いたまま、悪い場所へと生まれ変わっていく。
恐れなくてもよいことに恐れを感じ、恐れなければならないことに恐れを感じない。そういう者たちは、誤った見解を抱いたまま、悪い場所へと生まれ変わっていく。
餌で太った大豚のように、惰眠をむさぼり、がつがつ食べて、ごろごろ転げて眠りこける大馬鹿者は、何度も何度も母胎に入って(輪廻を繰り返す)

要するに、煩悩が人間に間違った見解をもたせ、その結果、悪い場所(輪廻)にとらわれ続けると説いているのです。

ですから、お釈迦様はやはり、輪廻を前提とした世界観を持っていたことがここで示唆されています。

当時のインドの人にとって、輪廻転生が決していいことでないと考えられていたのは、『輪廻転生の秘密: 魂は永遠か否か』(カルナ編集部、光祥社)という書籍でご紹介したとおりです。

輪廻転生の秘密: 魂は永遠か否か(カルナ編集部、光祥社)は、人は死んだらどうなるのか、輪廻転生の秘密に迫っています。
輪廻転生の秘密: 魂は永遠か否か(カルナ編集部、光祥社)は、人は死んだらどうなるのか、輪廻転生の秘密に迫っています。仏教が出来た頃のインドでは「生まれ変わり」は「苦」のひとつでしたが、私たちはまた別の考えもあるかもしれません。

当時のインド人は、五道輪廻、もしくは六道輪廻といって、複数のステージがあり、人として生まれ変わるとは限らないと考えたのです。

「五」もしくは「六」の中には、「天」という神々の住むステージも含まれています。

「おっ、そりゃいい」と思うかもしれませんが、永遠に続くようなユートピアではなく、神様にも寿命があるんです。

そして死んだ後は、また人間に生まれたり、地獄に落ちたりする可能性だってあるわけです。

煩悩の最大の原因は無明

煩悩の原因には、無明(むみょう)という表現を用いています。

「明」というのは「智慧」という意味だそうです。

ですから、無明というのは「智慧がない」、すなわち愚かさをあらわします。

無明を原因とした苦しみのメカニズムを説明した、仏教特有の理法『十二縁起』も紹介されています。

無明⇒行⇒識⇒名色⇒六処⇒触⇒受⇒取⇒有⇒生⇒老死の順番で展開します。

無明のせいで、物事の本質を理解できず、老いや死への恐れ、苦しみが生じる、というプロセスです。

これを流転門といいます。

このプロセスを理解した上で心の修練を繰り返し、最初の無明を滅することができれば、あとはドミノ倒しに各段階が消えていき、最終的に老死の苦しみも消える。

これを還滅門(げんめつもん)といいます。

無明の子分には、「恨み」もあるそうです。

この世では、恨みが恨みによって鎮まるということは絶対にあり得ない。恨みは、恨みを捨てることにょって鎮まる。これは永遠の真理である。

興味深いのは、「愛」も無明の子分だそうです。

愛というと、美しいものをイメージしますが、しょせんこれは色欲であり、所有欲です。

渇愛でがんじがらめになった人々は、罠にかかったウサギのように這いずり回る。束縛と執著(しゅうじゃく)に捕らえられて、永いあいだ、繰り返し何度も何度も苦しみを受けることになる。

相手をこちらに振り向かせたいとか、嫉妬とかいうのはまさにそうですね。

諸行無常と諸法無我と執著

では、無明でなくなることとはどういうことか。

すなわち、この世で起こっていることをありのままに見ることです。

それが、諸行無常と諸法無我です。

『まんが根本仏教』(古谷三敏/ファミリー企画著、地人館編集)をご紹介したときに、それらには言及しました。

まんが根本仏教(古谷三敏/ファミリー企画著、地人館編集)は、三法印、縁起観、四諦、八正道、六波羅蜜などの教えを解説
まんが根本仏教(古谷三敏/ファミリー企画著、地人館編集)は、三法印、縁起観、四諦、八正道、六波羅蜜などの教えを解説しています。専門の仏教書では敷居が高いと思う人でも、マンガで親しみやすくストーリーとして理解を助けてもらいます。

諸行無常というと、私たちは、栄えているものが没落したときに使いますが、決してそれだけではなく、この世のものはどんなものでもたえまなく変化し続けているという事実を、ありのままに述べたもので、仏教の真理の一つなのです。

西洋では、ヘラクレイトスが「万物は流転する」と言っていますね。

諸法無我は、世の中のすべてのものごとは、つながりあっていて、個として独立しているものは一つもない、という意味です。

つまり、周囲の人とつながって自分が存在するという意味です。

これもヘーゲルが、「諸事物が相互連関の内にありお互いに繋がりあって生成し消滅する」と言っていますね。

最近では、毒親という概念が注目を集めていますが、「お釈迦様の仏教」では、それは「執著」の愚かさにあるとしています。

愚かな人は、「私には息子がいる」「私には財産がある」などといってそれで思い悩むが、自分自身がそもそも自分のものではない。ましてやどうして、息子が自分のものであろうか。財産が自分のものであったりしようか。

「この子は私という存在の一部を受け継いで生まれてきた。だからこの子は私の一部なのだ」という気持ちがあると、自分の子にだけ特別な思いが湧く。

親の愛情はもちろんあって当然ですが、「私」の「所有物」となってしまい、その生き方や将来の職業まで干渉しようとするなら、それは執著であり無明です。まさに毒親です。

実は「私」ですら自分の所有物ではない

それとともに、実は「私」ですら、自分の所有物ではない、と『ダンマパダ』では説かれています。

頭の中で、いくら理想の「自分像」を作ってみても、現実はそこからそれてしまう。

この世に「これだけは私のものだ。これだけは、私の思い通りになるのだ」という、そんなものはどこにもないということなのです。

本書によると、私たちは、自我というものを世界の中心に想定し、そのまわりに自分の所有する縄張りのようなものを同心円状に作ります。

そして、外側に世間と呼ばれる一般社会を配置します。

そして、欲しいものを手に入れることで、その縄張りを広げます。

それが執著です。

「自我というものを世界の中心に想定」する限り、この執著は解決しません。

しかし、その「自我」を「実在しない仮想の存在」として、その絶対存在生を否定することで、まわりの所有世界も消えます。

さすれば、執著も消える。

それが諸法無我だといいます。

ここはちょっとむずかしい話ですね。

「実在しない仮想の存在」、つまり究極の自己などない、とはいうものの、現実に自分は存在しているわけですからね。

『ダンマパダ』(法句経)は、それに対してこう説いています。

見よ、飾り立てられた形体を。傷だらけの身体であり、要素が集まっただけのものである。病にかかり、勝手な思惑ばかり多くて、そこには堅実さも安定もない。

人間は「要素が集まっただけ」と言っているわけです。

肉体を作る物質的な要素と、精神を形作る様々な心的要素が集まって、「私」という仮の存在を生み出しているだけで、それが分解されたら「私」の存在も消滅する。だから絶対的な「私」なんてないんだ、ということです。

ここは、お釈迦様が認識する輪廻転生とは何か、ということも含めて本書にとってもクライマックスのところなので、長めに抜粋します。

もし私たちが「不滅の霊魂」というものを信じているならば、たとえば子どもを亡くした親の場合、「死んだあの子の魂は一体どこに行ったのだろう」と、いろいろ思い巡らすことになります。(中略)
しかし、ブッダの考えに従えば、これとは全く別の受け入れ方が見えてきます。 人を要素の集合体と見るなら、その人が死ねば、その集合体は雲散霧消して消滅します。仮に輪廻のエネルギーは続いていくと考えるにしても、実際の存在物としては、その人はこの世からいなくなるわけです。ですが、その人が存在していたことの意味は消えません。なぜなら、その人が生きていた時にまわりの無数の人たちに与えた影響は、そのままそういった人たちの集合要素の中に残っているからです。
子どもが生きていた時に、その子をかわいがり、慈しみ、抱きしめた親は、そのことによって自分自身も変わります。 子どもの存在が、親の在り方を変えて、子どもがなければ、これこれこういう姿になっていたはずの人の在り方が、子どもを持ったことで、それとは別の状態へと変化するのです。
その変化は自分ではわかりません。なぜなら、それは親という集合体を作っているあらゆる要素の中に、見えぬかたちで含まれているからです。 そしてその変化は、たとえその後、その子がなにかの理由で亡くなってしまっても、消えることなく親の姿の中に残ります。本人はそうと気づかなくても、親は子どもの存在を自分自身の中に引き継ぎ、引き受けて生きているのです。
子を亡くした親は、愛しい存在がいなくなってしまった悲しみで心を引き裂かれます。そしていなくなった子が、それでもどこかに以前のままの姿で生き続けているのではないかと考えて、いろいろな死後の在りようを想像します。それは親の情としてあたりまえのこと。しかし、そういった非日常的な神秘世界を考えなくても、子は親の存在そのものの中に生き続けているのです。子を亡くした親が、人の命の尊さを深く感得し、自分と同じ境遇の人たちに共感し、心優しく生きていくなら、それは亡くなった子の存在がそうさせているのであって、子と親は一緒に生きているということになるのです。

諸行無常と諸法無我の関係。おわかりになりましたか。

そして、お釈迦様が考えていたであろう輪廻転生とは何かということも、明らかになりました。

要するに、諸行無常ですから、絶対的な魂というのもないわけです。

でも、ばらばらになって消滅しても、他者に対して影響を与える形で生きているわけです。

詳しくは、ぜひ本書をお読みいただければと思います。

以上、NHK「100分de名著」ブックスブッダ真理のことば(佐々木閑著)は、「お釈迦様の仏教」をその第一人者が『ダンマパダ』から解説、でした。


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