『哲学入門』(仲本章夫著、創風社)は、新刊ではありませんが、哲学ってなんだろうということを知る入門書として最適です。具体的にはデカルト以来の近代合理主義の成果と問題点、そして私たちはどう生きるべきかを提案しています。
学説をいかなる価値で使うのかが大切
『哲学入門』は、仲本章夫さんが上梓し、創風社から発行された哲学啓蒙書です。
同名の書籍はたくさんありますが、私が入門書としてお勧めしたいのは、仲本章夫さんの書籍です。
1992年初版で、著者は物故していますから、決して新しい本ではありません。
ただし、哲学ってなんだろうということを知る、普遍的な内容が書かれた入門書です。
内容をざっとご紹介すると、歴史上の人物や哲学思想の諸潮流を解説。
デカルト以来の近代合理主義の成果と問題点、そして私たちはどう生きるべきかを提案しています。
仲本章夫さんについては、『生活のなかの哲学』(創風社)という書籍を以前ご紹介しました。
今回の『哲学入門』は、タイトル通り、おそらく仲本章夫さんが、都立短大教授時代に学生の教科書として使っていたであろう哲学の概論です。
しかし、哲学を知りたいという意欲を持った人なら、それほどハードルの高さを意識することなく哲学を学べる書籍だと思います。
仲本章夫さんは、東京大学を卒業して、大学(短大)教授になった哲学研究者です。
というと、近づきがたい秀才のようなイメージがありますが、いったん社会に出て働いてから大学に戻った人で、発達障害のお子さんの育児も経験している苦労人。
他人の心の痛みがわかる人でした。
学問的評価を行うのに、いちいち学者の人間性や生き様が関係あるのかって?
学説の評価に、研究者の人間性は関係ありません。
ただし、それをいかなる価値で使うのか、いかに啓蒙するのかについては、学者の人間性はおおいに関係があると思います。
座学だけで完結するのではなく、人としての苦労や、他の学者よりも少し多めの経験を積んだ人なら、それだけ幅広い人間の価値観を知っているわけですから、より普遍的な真実に肉薄できるだろうと思うのです。
簡単に言うと、どんなに博学で素晴らしい研究をしている人でも、人間としてダメな奴の話は説得力がないでしょう?
そのような意味です。
話は少しずれますが、科学者の養老孟司さんが、STAP細胞騒動を起こした理研に対して、「強いリーダーシップや成果優先主義は、人間性を無視した価値観だと僕は思う」(withnews 2015年1月6日(火)10時0分配信)と述べています。
科学者は新しい発見だけを考えて研究していればいいと言わず、研究体制に「人間性」を求めたことについて、私は養老孟司さんが、本物の科学「者」なんだなあと見直しました(エラソーな言い方で恐縮)。
科学的真実は、人間の意識から独立した客観的なものでも、それを研究して応用するのは人間なのですから、それはまさに真理だと思います。
デカルト以来の近代合理主義
さて、本書『哲学入門』では、哲学上議論になる諸潮流や、歴史上の人物についての解説とともに、デカルト以来の近代合理主義批判に着目しています。
そもそも、デカルト以来の近代合理主義とはなにか。
簡単に述べると、非合理的、偶然的なものでロジックを組み立てるのではなく、理性的、論理的、必然的なものを尊重するものの考え方や判断の仕方を言います。
わたしたちが学ぶ学問は、客観的で論理的な体系になっています。
そのもとになったのが、デカルトの考え方というわけです。
では、具体的にそれはどういうことか。
「有る」と「思う」は違う
ルネ・デカルト(1596年3月31日~1650年2月11日)は、まず世界(の存在)を、相互に切り離された物質的原理と精神的原理に分けました(物心二元論)。
簡単に述べると、客観的に存在する物体と、精神の産物は別のものである、ということです。
もっと平たく述べると、「有る(在る)」と「思う」は違う概念だということです。
これは、こんにちの科学的・合理的思考の端緒と言っていいと思います。
たとえば、「幽霊が存在する(在る)」ことと、「幽霊がいると思う」というのは別のことですよね。
STAP細胞が「あると思う」からといって、イコールSTAP細胞が「存在する」ことにはなりませんよね。
そういうことです。
つまり、STAP細胞が「ありまぁす」と言いはった小保方晴子さんは、そもそも科学者としての基本的なマインドができていなかったということです。
この、「在る」と「思う」の違いを述べたのが、デカルトということです。
全体は部分という部品をあわせて作られている
もうひとつ、デカルトは自然を機械のように考えました。
そして、その真実に迫るには、細分化して部分を知り、それを合わせれば良いと考えました。
これは、全体は部分の総和である、という考え方です。
これもまさに、現代なお行われている科学の分析的思考として継承・発展しています。
引用はしませんが、こうしたことはデカルトの『方法序説』に詳しく書かれています。
このことによって、人間は世界を合理的に見ることができるようになり、こんにち「デカルト以来の近代合理主義」といわれているわけです。
自然科学と社会科学、文系と理系、なんていう分け方もそこから来ているわけです。
物質的原理と精神的原理を分けて考えた弊害
しかし、よく考え見ると、物質的原理と精神的原理は、別のものではあるけれども、全く無関係のものではありません。
科学的認識(物質的原理)は、人間の価値意識(精神的原理)によってコントロールされなければならないからです。
ちょっと難しい表現になっちゃいましたか。
物質的原理の「新しい発見」と、その応用だけにつっ走った結果として、原爆や公害という不幸があります。
つまり、人間の価値判断(倫理観)を無視して科学的真実だけを行使したのです。
こんにち、クローン人間とか、倫理的に問題にされている分野がありますよね。
物質と精神は別であるとして、倫理を無視したら、人間不在の「新研究」「新発見」に満ちてしまう、という話です。
そして、それは、たんに原爆や公害で犠牲者が出たから不幸であるというだけでなく、それをもって、デカルト以来の近代合理主義そのものを全面的に否定してしまう「文明批判」「理性の否定」「科学への不信感」といった考え方もうんでしまいました。
つまり、原爆を作ったり、公害をもたらしたりしたのは科学が悪い。
だから、科学的なものの見方は否定してしまおう、という思想がある、と本書には書かれています。
たしかに、物質的原理と精神的原理を切り離した点は、デカルト以来の近代合理主義の至らなかった点といえます。
しかし、合理的に世界(自然や社会や人)を見る、という考え方があってこそ、こんにちの文明、文化があるのも確かです。
新しい合理主義を打ち立てよう
そこで仲本章夫さんは、合理主義を継承発展しつつも、知識だけでなく精神の部分も大切にする新しい合理主義の立場にたとうと本書でこう結んでいます。最後の文章から引用します。
私は、前に進めず結論を出せず迷ったり悩んだりすることがあると、いつもこの文章を読み直し、自分を奮い立たせます。
人間は弱いものなので、窮地に陥ると、判断が甘くなったり、低きに流れたり、神秘的に見えるものに救いを求めて騙されたりします。
しかし、自分が生きる道筋は、現実を合理的にとらえ、自らの価値観で掃き清め、前に進んでいくしかないのです。
そして、これこそはまさに、人より少し遅れて大学に入りながらも研究者に進み、発達障害のお子さんを育て上げた仲本章夫さんの生き様そのものであると思います。
哲学という学問を知るだけでなく、そんな人間性や生き様を感じることのできる胸熱の一冊です。
以上、『哲学入門』(仲本章夫著、創風社)は、新刊ではありませんが、哲学ってなんだろうということを知る入門書として最適です、でした。