初めての本上座仏教―常識が一変する仏陀の教え(アルボムッレ・スマナサーラ著、Evolving)は、仏教が説く心の問題をまとめています。霊魂はありません、神や仏にただ祈っても奇跡も何も起こりません、など、宗教「らしくない」内容に驚くはずです。
『初めての本上座仏教―常識が一変する仏陀の教え』は、アルボムッレ・スマナサーラさんが、Evolvingから上梓しています。
この記事では、Kindle版をもとにご紹介しています。
スマナサーラ長老クラシックス、というシリーズ名がついています。
アルボムッレ・スマナサーラさんについては、『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』をご紹介したことがあります。
『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』というのは、お釈迦さまの言葉に最も近い経典の日本語訳と解説です。
アルボムッレ・スマナサーラ長老は、スリランカ出身の僧侶。
上座部仏教、いわゆる「お釈迦様の仏教」の研究や啓蒙を行っている方です。
何度かご説明していますが、日本の仏教、浄土真宗や日蓮宗や曹洞宗などは、大乗仏教といわれるものです。
大乗仏教とは、お釈迦様の仏教の僧たちの中から、大衆的な立場が分派した潮流で、もともとのお釈迦様の仏教は、上座部仏教といわれています。
アルボムッレ・スマナサーラさんは、その上座部仏教の僧侶です。
日本に来て駒澤大学に学んでおり、親日家でもあります。
本書は、『常識が一変する』というタイトルに有るように、おそらくは、これまでの仏教、少なくとも宗教に対する認識がかわってしまうのではないかと思われる内容です。
なんとなれば、宗教というと、神社やお寺で拝んだり、教会で礼拝したりする、絶対創造主に対する信仰をイメージするのではないでしょうか。
現実に、キリスト教も、国家神道も、要は万物の創造主が存在して、神様の差配で世界は動いている、という世界観ですよね。
しかし、仏教は、お釈迦様の仏教であれ、大乗仏教であれ、神様を前提とはしません。
あくまでも、自分の「心」が主体です。
本書は、そうした仏教以外の宗教について、「神様が何でも差配するのなら宗教はいらない」という、ド直球の指摘を行っています。
パラドックスですが、考えてみると、そういうことになります。
その人が、願うか願わないか、修業をするかしないかなど何も関係なく、全部神様が差配してくれるのですから。
日本の神道は、厳密には少し違いますが、神様に感謝したりお願いしたりすることに変わりはありません。
もちろん、それで救われるという信者の信仰を否定しているわけではありませんよ。
仏教と、キリスト教など他の宗教は、神様を前提としているかどうかが違う、という客観的な話です。
お釈迦様の仏教は、神や仏にただ祈っても、奇跡も何も起こりません、といいます。
仏教とは心を磨くものであり、心の仕組みがわからない限り、悩み・苦しみ・不安から抜け出すことはできません、と本書は言い切っています。
では、その「心」が主体、「心」の仕組みというのは、具体的にどういうことなのか。
それが、本書には書かれています。
本書は2023年2月12日現在、KindleUnlimitedの読み放題リストに含まれています。
唯物論と観念論、さて仏教はどちら?
キリスト教など、神様を前提とする宗教は、生きとし生けるものはすべて神の僕です。
まあ、人の心というのも、神様との交信所といった趣でしょうか。
あくまでも神様が主人公です。
一方、仏教は自らの「心」が主人公です。
では、仏教、なかんずく「お釈迦様の仏教」における「心」とは、いかなるものなのでしょうか。
その前に、「唯物論」と「観念論」について一言しましょう。
哲学では、唯物論と観念論といいますが、ものの考え方としてどちらをおおもととするかで、大きく2通りの違いがあるとしています。
唯物論というのは、物質をおおもととする考え方です。
つまり、脳みそがあるから、思考や判断、イメージなど「心」がある、とする考え方です。
ですから、肉体をおおももとにして肉体と精神は一体化しており、肉体が死んでしまったら、脳みそも活動が亡くなると、「心」もなくなる。
すなわち、死んだら無になる、という考え方です。
一方、観念論は、精神(認知)がおおもとという考え方です。
人が存在していても、認知されなければ、存在しているとはいえない、とする考え方です。
逆に、認知によってのみ、存在が成立するとする考え方です。
ですから、精神をおおもととして物質があるとしているわけで、肉体と精神はバラバラなものなのです。
神様とか霊魂なんて、まさに肉体のない「精神」そのものでありますから、一般的には、宗教は観念論だといわれます。
「精神」を信仰する世界観だからです。
しかし、お釈迦様の仏教は、宗教でありながら、単純に「観念論」といえないところに独自性があります。
なぜなら、「一応、心と体というものはあるように考えられる」としながらも、肉体と精神は一体化したものという立場にも立っているからです。
本書の説明の概略を書きます。
仏教は、まず「魂などというものはない」という立場です。
えーっ、うっそー、と思うでしょう。
いや、本書にはそう書かれているんです。
魂は焼こうとしても焼けませんし、叩いても平らにもなりません。
つまり、変化を確認できないものですが、万物は同じままではない「諸行無常」という仏教の立場からすると、そんなものはない、というロジックになるわけです。
「心」は、肉体と同じように変わっていくものだといいます。
仏教では、心と体について6つの相互関係を述べています。
- 体の中に心が働いている
- 心と体は一緒にがんばって働いている
- 体に関係なく自由にも動ける
- 心が体の主人である
- 体が心の主人である
- 心は体に押さえつけられ、体は心に押さえつけられている
水を「精神」とするなら、水のままではコップ(物質)なしには存在し得ないが、氷になればコップが不要
たとえば、悩むから病気になる
山登りしたくても、歳を取って体力が落ちるとできない
ですから、仏教の立場というのは、唯物論でも観念論でもなく、心(精神)と体(物質)を対等に見て、ときには相補的、時には相互を牽制する形で連関的に存在している、ということのようです。「3」以外は。
「3」だけが、心(精神)と体(物質)の関係が独立しているものになっていますが、たぶん、輪廻転生に辻褄を合わせるための「関係」ではないかと思います。
なぜ輪廻転生は起こるのか
さて、ではその輪廻転生ですが、これまでにも輪廻転生については、議論の対象であることはご紹介しました。
本書では、輪廻転生は「ある」という立場です。
では、どういう仕組なのかというと、本書ではこう説明されています。
人間の煩悩というのは、要するに刺激を求めているのだそうです。
いけないことと知りながらもヤッてしまうのは、心が刺激を求めているからだというのです。
仕事をするのも、芸術や文化を作るのも、妄想・瞑想するのも、宗教を作って賛美歌やお経を口にするのも、見たり聞いたり嗅いだり味わったり考えたりする営みの全ては、刺激を求めるという本能があるからだそうです。
ヤクザになって悪いことをしようが、あるいは修行したり善行を重ねたりしようが、心は善悪など関係なくどんな営みであっても「刺激を受ける」といいます。
ただそうすると、道徳を守る人も守らない人も出てきて世の中がめちゃくちゃになるので、宗教を作って「あなたはよいことをしなさい」と、秩序を作るのだそうです。
そして、その秩序を守って、お墓参りしたり、法事したりして、いいことをした気になるのも刺激だそうです。
そうやって刺激を受けて、心の働きの波は終わりなく限りなく続きます。
本書によると、死ぬということさえ、「すごく大胆な刺激」だそうです。
一生に一度しかできない刺激ですが、またその刺激が欲しくなるので、別の物質(肉体)につかまり、依存してそこに体作ってしまう。
それが、輪廻転生だといいます。
「生まれ変わる」というより、「存在が続く」というニュアンスだそうです。
その刺激を止めることが、「涅槃」なのだといいます。
わからないことに悩むことはない
本書は、「人はなぜ苦しむのか」という点についても言及しています。
それによると、お釈迦様は、「人間には知識があるのが当たり前であり、ものごとを考えられるというのは当たり前のことなのだが、人間にはどうしても考えて知り尽くすことができない、いくつかのものがある」とおっしゃっていると紹介しています。
それは大きく4つに分かれます。
1つは、「心の問題」です。どのような働きをしているか、論理的に理解するのは不可能だから、考えても知り尽くすことができないことを考えるのは、程々にしたほうが良い、といいます。
2番目は「業の動き」です。「業」というものの働きも理解できるものではないので、真剣に知っておこうという努力はそれほど意味がない、としています。
3番目は「宇宙のこと、世界のこと」です。宇宙や世界のことも、どれほど考えても知り尽くすことはできないとしています。
4番目は「ブッダとは何か。悟った人というのはいったい何なのか。悟りとはどういうことか」ということ。これまた考えても考えきれないということです。
ブッダの教えは、およそ2500年前に説かれたことで、当時は科学も望遠鏡もありませんでしたが、その教えである経典と、科学者が現代的に発見した理論とを照らし合わせると、現代科学は何一つとして仏教に逆らっているものは見出だせない、としています。
まあこれは仏教の側からの表現で、中立的に表現すると、科学的真実は「お釈迦様の真実」と重なる、という感じでしょうかね。
しかし、それだけ「わからない」とすると、心は説明がつかないものというわけですね。
ただ、だから何も前に進めない、という不可知な意味ではなく、わからないけれど、仏教の実践の妨げにはなりませんよ、ということを本書では結論としています。
要するに、お釈迦様の仏教は、科学と同じで、わからないものを勝手に決めつけない、ということです。
すべては、神様のお導きで答えが決まっている、他の宗教との違いが、ここでもはっきりしています。
まだまだ、本書は続くのですが、今回はこのへんにしておきましょう。
また機会があったら続編を書こうかとも思いますが、まあ論より証拠で、実際に本書を読んでいただいたほうがいいのではないかと思います。
以上、初めての本上座仏教―常識が一変する仏陀の教え(アルボムッレ・スマナサーラ著、Evolving)は、仏教が説く心の問題をまとめる、でした。