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まんがでわかる日本の偉人伝総集編(よだひでき著、ブティック社)は、北里柴三郎など日本の歴史に名を残す58人の生涯と功績を漫画化

まんがでわかる日本の偉人伝総集編(よだひでき著、ブティック社)は、北里柴三郎など日本の歴史に名を残す58人の生涯と功績を漫画化

まんがでわかる日本の偉人伝総集編(よだひでき著、ブティック社)は、北里柴三郎など日本の歴史に名を残す58人の生涯と功績を漫画化した書籍です。人の為に尽くした人、リーダーとして活躍した人、すぐれた発明や作品を残した人など、日本の偉人たちの感動のエピソードを1冊に凝縮しています。(文中敬称略)

本書は、よだひできさんが過去に上梓した、偉人伝シリーズを1冊にまとめた書籍です。

このブログでは、過去に『まんがでわかる偉人伝 日本を動かした312人』から、杉原千畝や、二宮尊徳(金次郎)をご紹介しました。

まんがでわかる日本の偉人伝総集編(よだひでき著、ブティック社)は、日本の歴史に名を残す58人の生涯と功績を漫画化した書籍
まんがでわかる日本の偉人伝総集編(よだひでき著、ブティック社)は、日本の歴史に名を残す58人の生涯と功績を漫画化した書籍です。人の為に尽くした人、リーダーとして活躍した人、すぐれた発明や作品を残した人など、日本の偉人たちの感動のエピソードを1冊に凝縮しています。
まんがでわかる偉人伝 日本を動かした312人(よだひでき著、ブティック社)は、タイトル通り歴史に名を残す312人の功績を漫画化
まんがでわかる偉人伝 日本を動かした312人(よだひでき著、ブティック社)は、タイトル通り歴史に名を残す312人の功績を漫画化しました。この記事では、その中で、農村復興や報徳思想で知られている二宮尊徳(金次郎)の話をご紹介します。

よだひできさんは、国内外の偉人の生涯と功績を漫画化した書籍をほかにも上梓していますが、本書「総集編」として、その中の日本人58人を改めて1冊にまとめています。

さて、今回はその58人の中で、1000円札の表面に描かれる肖像として選ばれた北里柴三郎をご紹介します。

北里柴三郎(1853年1月29日~1931年6月13日)は、破傷風菌の純粋培養法の開発、ペスト菌の発見、予防医学の確立で知られる医学者・細菌学者です。

Copilotに功績をまとめてもらいました。

破傷風の研究と血清療法
– 北里柴三郎は、破傷風菌の研究に取り組みました。破傷風は致死率が高く、恐れられていた病気でした。
– 1889年に世界で初めて破傷風菌の純粋培養に成功しました。さらに、その治療法の研究へと突き進み、破傷風の血清療法を発明しました。
– 血清療法は、破傷風にかかっている人に注射することで病気を治す方法で、柴三郎は世界的な学者となりました。

日本の細菌学の父
– 北里柴三郎はペストが蔓延している香港でペスト菌を発見し、多くの業績を残しました。
– 彼は伝染病専門の研究所を設立し、多くの細菌学者を育てました。その指導は厳しかったと言われています。
– 慶應義塾大学の医学科創設にも関わり、日本の細菌学の父と呼ばれています。

主に傷口に菌が入り込んで感染を起こし、毒素を通して、まざまな神経に作用する破傷風。

その抗体を含む血清を、体内に注射して菌を中和するのが血清療法です。

ペスト菌は通常、小動物やそのノミから発見される人畜共通の感染細菌。

抗菌薬で対処します。

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日本の細菌学の父


北里柴三郎は、熊本県の山深い庄屋に生まれ、子供の頃は喧嘩に明け暮れていました。

6歳の時、ほとほと困った両親は寺子屋に入れましたが、そこでもトラブルを起こしていました。

北里柴三郎は、武士になることに憧れていましたが、幕府が倒れて武士の時代が終わると、今度は軍人に進路を変更しました。このへんは、時代を見る目があります。

しかし、両親に反対され、18歳なんだから家業を継いでくれといわれます。

軍人を諦めきれない北里柴三郎は、「学問したいから猶予をくれ」と時間稼ぎをします。

そこで両親は、柴三郎を熊本医学校に入れます。

柴三郎は、「ぼくは医者と坊主は大嫌い」と、当初は乗り気ではなかったのですが、軍人になるために学校は卒業しようと頑張ったところ、オランダ語の成績が良く、医学校のマンスフェルト先生に医師になることを勧められます。

先生から顕微鏡を覗かせてもらった柴三郎は、医師になる決意をしました。

23歳になって、東京医学校(現東京大学医学部)に入学。

当時としてはやや遅咲きですが、31歳で大学を卒業して結婚します。

マンスフェルト先生に、「ヨーロッパに来て勉強するといい」と言われていた柴三郎は、医局や開業は考えず、海外の留学や派遣の可能性がある内務省衛生局で仕事をすることにしました。

そして、2年後にドイツへ。

細菌学の第一人者であるコッホと出会い、破傷風の毒素を数万倍に薄めて実験動物に注射し、免疫(抗体)ができた血清をまた実験動物の体内に注射すると、破傷風菌を中和することに成功しました。

帰国後は、福沢諭吉の協力を得て、伝染病研究所(現東京大学医科学研究所)を開設。

政府との齟齬で同所を離れた63歳の時、私財をなげうって北里研究所を設立し、福沢諭吉への恩返しで、慶應義塾大学の医学部設置にも協力しました。

同研究所からは、志賀潔、野口英世など、多くの研究者を輩出しました。

「必然」と「偶然」は目標を定めて努力して呼び込む

北里柴三郎の人生の成功もまた、「必然」と「偶然」のたまものだなと思いました。

軍人になりたいので、家業を継がない口実に「学問をおさめたい」といい、その時たまたま入った医学校で頭角を現す「偶然」。

東大の医学部を出たのだから、開業や病院の就職の方が儲かるのに、ヨーロッパに派遣してもらえるチャンスを念頭に置いて、給料の安い公務員(内務省衛生局)をあえて自分から選ぶ「必然」。

コッホと出会ったことで、細菌学を究めた「必然」と「偶然」。

「天分」とか「慧眼」と表現してしまえばたやすいですが、目標を定めて、その時時の現状について全力を尽くす、という生き方が成功をもたらしたのだろうと思います。

それと、やはりこの方も遅咲きですよね。

当時、63歳で私財をなげうって新しいことを始めるのは、大変な勇気が要ったと思うのですが、要するに人生は本人の気持ちの問題という面もあります。

歳を口実に、向上心も、新しいものを見ようという気持ちも放棄する方もおられますが、社会はいっときも休まず動き続けています。

その中で生きるということは、自分も変化しなければならない、というより変化せざるを得ない宿命にあるものだと私は思います。諸行無常なんですよ。止まったままということはありえないのです。

いずれにしても、北里柴三郎の偉大な研究により多くの命が救われ、現代医学に大きな影響を与えています。

もう、新しい千円札は手にされましたか。


まんがでわかる日本の偉人伝総集編 – よだひでき

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