原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話(アルボムッレ・スマナサーラ著)は、お釈迦さまの言葉に最も近い経典の日本語訳と解説です。訳者のアルボムッレ・スマナサーラ長老は、日本の大学に留学経験もあり「お釈迦様の仏教」を啓蒙しています。
『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』は、アルボムッレ・スマナサーラさんが、佼成出版社から上梓した書籍です。
この記事は、Kindle版をもとにご紹介します。
アルボムッレ・スマナサーラ長老は、スリランカ出身の僧侶。
上座部仏教、いわゆる「お釈迦様の仏教」の研究や啓蒙を行っている方です。
お釈迦様の教えについては、『スッタニパータ』や『ダンマパダ』といった経典から紹介されることが多いのですが、そのひとつである『法句経(ダンマパダ)』の日本語訳と解説書です。
『法句経(ダンマパダ)』の解説については、『NHK「100分de名著」ブックスブッダ真理のことば』(佐々木閑著)をご紹介したことがあります。
一方、本書は内容がよりコンパクトで、タイトルに「一日一話」とついています。
これは、ひとつの詩句ごとに、日本語訳を書き、次にその解説をしているからです。
1日に1詩句ずつ読んで下さい、ということだと思います。
お釈迦様は「親孝行」なんて言ってませんよ
『ダンマパダ』(法句経)は、次の26章で構成されています。
第1章 – 双
第2章 – 不放逸
第3章 – 心
第4章 – 花
第5章 – 愚者
第6章 – 賢者
第7章 – 尊者
第8章 – 千
第9章 – 悪
第10章 – 罰
第11章 – 老い
第12章 – 自己
第13章 – 世界
第14章 – ブッダ
第15章 – 楽
第16章 – 愛
第17章 – 怒り
第18章 – 汚れ
第19章 – 法行者
第20章 – 道
第21章 – 雑多
第22章 – 地獄
第23章 – 象
第24章 – 渇愛
第25章 – 比丘
第26章 – バラモン
『スッタニパータ』や『ダンマパダ』など、お釈迦様の時代に近い、古い段階のお経をまとめて『ニカーヤ』と言います(中国では阿含といいます)。
本書は総じて日本語訳がわかりやすいと思います。
が、解説については、Amazon販売ページを見ると、一部に批判的なものもあります。
その訳文に付けられた話も、ちょっと観点がずれているというか視点を広げすぎて焦点がぼけているような箇所が多い私ごときには、その「箇所」が具体的にどこなのかはわかりませんが、ひとつだけ気づいたことがあります。
「36」の「心に良い癖をつける」の解説で、こう書かれています。
もちろん、一般論として「親孝行」だの「やさしい言葉」だのを全否定するつもりはありません。
しかし、「お釈迦様の仏教」の解説として、それは妥当なのかということです。
版元は佼成出版社、つまり立正佼成会が刊行しているからか、それに気を使った解説かなと私は解釈しました。
立正佼成会は、「親孝行」を「徳」としていますが、お釈迦様はそんなことは言ってないでしょう。
何度も書いていますが、そもそもお釈迦様の仏教というのは、煩悩とか執着とか、人間の心から余計なものを取り去ることで涅槃寂静に達するものです。
親孝行をして「徳を積む」ことは、「私はいいことをしましたよ」ということですから、そういう功名心なり善意なりといった「業」は、煩悩や執着につながるというわけです。
そもそも、お釈迦様は王子様で、父(王様)も妻子もいたのに、それを捨てて出家しているんですよ。
自分のことを棚に上げて、「親孝行」なんて言うわけ無いでしょう。
たとえば、お釈迦様の別の経典『スッタニパータ』で、「村へ托鉢に行ったとき、招き入れられても、食べ物をもらっても、喜んではならない。」という一文があります。
先程の「心に良い癖」をつける解説で云うなら、「感謝の言葉」が順当ですよね。
お釈迦様は、「感謝」を否定しているのです。
自意識に根ざした意識や行為は「業」であり、涅槃をめざすお釈迦様は「するな」と戒めているのです。
それに対して、日本の仏教は、お釈迦様の仏教とは違い、大乗仏教と言われるもので、もとになる法華経は、衆生成仏を説いています。
つまり、出家して修行しなくても、国民誰もが、現世で善行を積めば仏陀(お釈迦様のように悟って成仏)になれる、というのが大乗仏教の教えです。
そこで、「親孝行」というのが、「善行」のひとつとして使われているわけです。
訳者のアルボムッレ・スマナサーラ長老は、「お釈迦様の仏教」であるダンマパダの解説に、大乗仏教の教えを混ぜ込んでいるのです。
だいたい、「親孝行」といいますが、世の中には毒親もいますし、親子間に「善行」の概念を持ち込むのなら、むしろ子育てをきちんと行うべく親の側に求めるべきだろうと思います。
子どもは親を選んで生まれてきたわけではありませんが、親は自分の意志で子どもを生んでいるわけですから、根源的な責任は親の側にあるからです。
「親孝行」よりも、「子孝行」ということです。
あ、「望まない妊娠」はどうなんだとかのツッコミはなしね。
妊娠する行為を、どういう経緯であれすれば妊娠し得るし、生む以上は親の側に育てる責任が発生するということです。
他者への批判は「煩悩」か改善の道順か
「親孝行」の話が長くなりましたが、もうひとつあります。
これは訳の問題ではなく、お釈迦様の宗教そのものに対する疑問です。
他者批判を戒めることがあります。
自分を観るべきだ。なにをしているか。なにをしていないのか、と。
他人の批判をするな、自己批判をしろ、という教えです。
煩悩を消すという意味で、他責の感情を抱かないのは理にかなっているというばそうですが、もし悪いところを改善するという自己改善を目指すなら、他者(からの)批判はむしろ必要だと思います。
なぜなら、煩悩の塊の人間が自己批判したところで、正確な改善はできません。
自分のことには、とかく甘くなるものです。
そもそも、お釈迦様自身が、同じ『ダンマパダ』の中でこう説いていますよ。
ひとは他人の過失を籾殻のように吹き散らす。
しかし自分の過失は、悪賢いばくち打ちが不利なサイコロをごまかすように隠してしまう(252)
ね。
他者の間違いは見やすいから批判はきっちりやるけど、自分への批判は腰が引けていると書かれているでしょ。
なのに、自己批判で完結していたら、自分の「悪いところ」について解決しないではありませんか。
ですから、他者の自分に対する辛辣な指摘にこそ、真実が見て取れるという姿勢で謙虚になるべきです。
他者からの批判に耳を傾けよということは、逆に他者に適切な批判もしろということです。
お互い悪口を言い合うことは、全否定はできないということです。
その意味で、浄土真宗の中興の祖といわれている蓮如上人の話は興味深い。
「我が前にて申しにくくば、蔭にてなりとも我が後ろ言を申されよ、聞きて心中を直すべし」(私の前で言いにくいようであれば、影であっても私の悪口を言っていただきたい、聞いて心内を改めるから)(御一代聞記書)
蓮如上人は、「言いにくいなら(自分に)陰口を言え」と言っているわけです。
こちらの方が、私には「お釈迦様の教え」よりも胸にストンと落ちます。
すごいこと言ってると思いませんか。
誰だって、陰口はいやでしょう。気持ち悪いし。
それを、蓮如上人は「陰口でいいから言ってくれ」と言ってるんですよ。
こういうケースでありがちなのは、「言いたいことがあったら、正々堂々と言え」というタンカね。
一見勇ましいですが、よく考えるとそれは自己防御ですよね。
相手を心理的に追い込んで、他人が聞いていたら名誉毀損にもできるわけですから。
勝手に言いまくる陰口の方が、事実無根や不毛な感情論もあるかもしれないけど、思い切って色々言ってくれる中に真実があるかもしれない、というのが蓮如上人の考え方ですよ。
私は、蓮如上人の覚悟にしびれましたね。
みなさんは、いかが思いますか。
以上、原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話(アルボムッレ・スマナサーラ著)は、お釈迦さまの言葉に最も近い経典の日本語訳と解説、でした。
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