堕落論,白痴(原作/坂口安吾、作画/バラエティ・アートワークス、Teamバンミカス)は、戦争末期と敗戦直後を描いた書の漫画化です。2つの作品は別ですが、リレーでバトンを渡すように、うまく2つの作品をつなげて描いています。
『堕落論』は、坂口安吾の現代文学史上に残る随筆・評論です。
第二次世界大戦後の混乱期において、逆説的な表現でそれまでの倫理観を冷徹に解剖し、敗戦直後の人々に明日へ踏み出すための指標を示した書。
『白痴』は、やはり坂口安吾の短編小説です。
敗戦間近の場末において、独身の映画演出家の男が、隣家の白痴の女性と奇妙な関係を持つ物語です。
『堕落論』と『白痴』は、本来別の作品ですが、本書は『堕落論』を前後編に分け、途中に『白痴』を挟んで、戦争末期と戦後日本を描いています。
しかも、『堕落論』は評論、『白痴』は小説と、文芸作品としてのジャンルが微妙に違うものであり、それを漫画で1冊にまとめるという、なかなかの意欲作です。
バラエティ・アートワークスが漫画化し、Teamバンミカス発行です。
まんがで読破シリーズKindle版をご紹介しています。
人間は「堕落」にこそ真実がある
1945年、戦争は終わり、半年のうちに世相が変わりました。
かつての特攻隊の勇士の生き残りは闇市で稼ぐことで転落する。
健気な心情で出征を見送った女性も、やがて位牌にぬかずくことも事務的になり、新しいナマミの男性に思いを寄せるようになる。
著者は言います。
人間が変わったのではない。人間は元来そういうものであり、変わったのは世相の上側だけのことだと。
すなわち、人間は堕ちる。
戦前の日本は、嘘のような理想郷で、ただ虚しい美しさが咲きあふれていました。
欲しがりません、勝つまではという耐乏の精神。
軍事的にかなわない日本は、特攻隊を発案したが、それは「武士道」という日本独自の精神論によって可能となった。
当時の軍人政治家は、未亡人の恋愛小説を書くことを禁止した。
彼らが女心に無知だったのでなく、女心の移ろいやすさを知り過ぎていたからである、と言っています。
そうした「美しさ」は、「虚しい美しさ」であり、「それは人間の真実の美しさではない」と本書ではまとめています。
つまり、「堕落」というと、ネガティブな表現ですが、実はそこにこそ人間らしい真実があるということを示唆しているのです。
「生きよ堕ちよ、その正当な手順の外に、真に人間を救い得る便利な近道が有りうるだろうか」(朝日新聞2021年12月18日掲載)
そして、人間の正しい姿とは何ぞや?と締めくくっています。
小さな愛情が自分の一生の宿命に
時代は戦時中。
1914年の映画法で、すべての映画製作が内閣情報局の指導下に置かれ、それまで年500本作られていた劇映画は1920年には二十数本に。
かわりに増えたのは、国民の戦意高揚につながる戦争映画でした。
映画会社で制作スタッフは、「戦友愛を描け!いかに潔く死ぬかを描け!」と上司から発破をかけられます。
「戦意色」の足りない映画は検閲で弾かれるからです。
主人公の伊沢は、「大学を卒業すると新聞記者になり、つづいて文化映画の演出家(まだ見習いで単独演出したことはない)になった」27歳の男です。
下宿のある町は、「安アパートが林立し、それらの部屋の何分の一かは妾と淫売が住んでいる」ところ。
伊沢の下宿は、母屋の離れで、「押し入れと便所と戸棚がついている」ので、住めるところではあるらしい。
食事は母屋で摂り、母屋の1階には主人夫婦が住み、2階には別の母娘が間借りしています。
隣人には、相当の資産がある「気違い」(原作のまま)がいて、30歳前後で、母親と25~6歳の女房がいました。
女房は、隣人が四国のどこかしらで意気投合し、遍路みやげにつれて戻ってきたといいます。
原作では、「白痴の女房」と書かれています。
「気違い」と「白痴」が意気投合というところで、伊沢は考え込んでいます(笑)
しかし、外見はきれいに描かれています。
名前は「オサヨ」で、「白痴の女房は特別静かでおとなしかった。」とも書かれています。
「オサヨ」はいつも、「気違い」の母親に怒鳴られ叱られて逃げていました。
伊沢は、職場に幻滅していました。
自我だの独創だのと言っても、流行次第で右から左へどうにでもなる人間。
「戦争さえ終われば、独創的な映画を作る」などと言っていますが、実は何でも検閲のせいにして、サラリーマン以上のサラリーマン。
自分は違う、と伊沢は思っていました。
……が、上司に意地悪をされ、同僚に仲間外れにされ、情熱を失っていきました。
あるとき、押し入れに「オサヨ」が隠れていました。
また、義母に怒鳴られて逃げてきたのでしょう。
仕方ないので、一晩だけ匿うことにしましたが、興味はないつもりなのに27歳の肉体は反応を示し、「女の髪の毛をなでていると、慟哭したい思いがこみあげ、さだまる影すらもないこの捉とらえがたい小さな愛情が自分の一生の宿命であるような、その宿命の髪の毛を無心になでているような切ない思いになる」のです。
もはや、やりがいのない仕事も苦にならず、下宿に帰ると「白痴の女はただ待ちもうけている肉体であるにすぎ」ないのですが、そこは生身の人間です。「無自覚な肉欲」に熱中する日々でした。
その一方で、爆撃があった時に、隠れた押し入れで見た「オサヨ」の絶望して苦しみもだえる顔が、人間にあるはずの理知や抑制など微塵も見られず、「それはただ本能的な死への恐怖と死への苦悶があるだけで、それは人間のものではなく、虫のものですらもなく、醜悪な一つの動きがあるのみ」との嫌悪感をいだきました。
そして、4月15日。
爆撃で火の海の中、伊沢は一瞬でもはやく逃げたかったのですが、オサヨが気になり、燃えている下宿に戻ります。
押し入れで醜悪な表情のままかたまっているオサヨ。
布団をかぶって2人は外に出ます。
そしてオサヨに言います。
「火も爆弾も恐れるな。俺の肩にすがりついて来い。死ぬ時は2人一緒だ」
その時、オサヨははっきりと、「はい」と返事をします。
オサヨが、初めて自分の意志を示してくれた……
伊沢は一瞬胸熱になりました。
2人は戦火をなんとかくぐり抜けて助かりました。
しかし、そこでいびき声をたてて寝ているオサヨを見て「豚」に見立て、また「冷静」になります。
といっても、そこでオサヨを捨てていくことも面倒だと感じます。
と書いていますが、胸熱の瞬間に、「この女」とはずっと一緒にいようという覚悟のようなものができたのではないでしょうか。
「無頼派」は終戦直後に若い読者たちの人気を博した
本書は、さらに『堕落論後編』にうつります。
冒頭に書いたように、『白痴』と『堕落論』は別作品ですが、伊沢がオサヨの手を引いて焼け跡を歩いて行くコマを最初に描いて、うまくつないでいます。
坂口安吾は、文学史上「無頼派」といわれました。
終戦直後に、若い読者たちの人気を博した一群の作家たちのことで、太宰治・坂口安吾・織田作之助・田中英光・石川淳・檀一雄らを指すといわれています。
戦争が終わり、社会的な価値観や世相がガラッと変わってしまったので、文学によって生きる指針や新しい世界観の構築などをしたのかもしれませんね。
2作品とも、原作は青空文庫に公開されていますが、まずは漫画の本書から読まれてみてはいかがでしょうか。
以上、堕落論,白痴(原作/坂口安吾、作画/バラエティ・アートワークス、Teamバンミカス)は、戦争末期と敗戦直後を描いた書の漫画化、でした。