遅咲きの成功者に学ぶ逆転の法則(佐藤光浩著、文響社)は、古今東西で40代以降に転機が訪れた不屈で遅咲きの成功者を特集しています。キヤノン創業者・初代社長・御手洗毅など、人生後半から新しい世界で成功した遅咲きの人々から逆転の法則を学ぶ書籍です。(文中敬称略)
本書は、50代、60代で成功を収めた古今東西の人たちを特集しています。
65歳で無一文になってから、「フライドチキンの揚げ方」というノウハウの権利ビジネスで財を築いたカーネル・サンダース。
畑違いのセールスマンから転身し、マクドナルドを成功させたレイ・クロック。
新商法で江戸に乗り込み、三井の礎を築いた三井高利。
コンプレックスを武器に新たな音楽を創造したスキャットマン・ジョン―。
「彼らの業績は、40代で迎えた転機が始まりだった!全てを捨て、ゼロから這い上がった不屈の男たちのドラマ!ビジネス・芸術・学問の世界にその名を残した遅咲きの巨人たちから、人生を逆転する法則を学ぶ」というのが本書のねらいです。
そのなかから今回は、キヤノン創業者・初代社長の御手洗毅(みたらい たけし、1901年3月11日 – 1984年10月12日)にフォーカスしましょう。
神戸新聞NEXT|連載・特集|話題|精密機器大手Canon なぜキャノンではなくキヤノンなのか? 間違いやすい社名の由来を担当者に聞いた https://t.co/aUAgL1WtZn @kobeshinbunより
— 戦後史の激動 (@blogsengoshi) October 26, 2024
「キャノン」ではなく「キヤノン」ですね。
日本の光学機器産業の発展に大きく貢献
vol.882: Today’s history
キヤノン創業者 御手洗毅は、1901年3月11日生。
医学部卒で – 戦前は産婦人科病院を運営。しかし戦争で焼失した後は、キヤノン経営に注力。カメラ、事務機開発を進めました。
また医師であった事から、医療機器の開発も推進。今も現在も続く開発・研究の原点となりました。 pic.twitter.com/nPDeqCNiOo— まん助's Diary (@mansukeabc) March 11, 2023
御手洗毅は、大分県南海部郡蒲江町(現・佐伯市)に生まれました。
実家は代々医師の旧家のため、自身も北海道大学医学部卒業後、上京して日本赤十字病院の産婦人科に勤務しました。
1933年11月、御手洗が主治医だった妊婦の夫である内田三郎、その妊婦の兄である吉田五郎らの創設した精機光学研究所に、御手洗も共同経営者として参画します。
日本の精密機器工業の発展が遅れていることを嘆き、その重要性について語り合うことで3人は意気投合したのです。
日本初の本格的なトーキー映画といわれる『マダムと女房』(1931年)で使われた再生機は、吉田五郎が上海から買ってきたものといわれており、それほど精密機械に詳しい吉田が技術面を、証券マンの内田が金の管理をし、御手洗は監査役に名を連ねます。
そして、ドイツのライカを目標にしつつ、値段を約半分に抑えた35ミリカメラがヒットし、会社を法人化します。
戦争への機運が高まると、カメラにも税金がかかり、事業継続が難しくなりました。そのときに、御手洗が考えたのは、国産のX線カメラの開発と販売です。
取締役に就任した御手洗は、開業した産婦人科病院と掛け持ちで仕事をしました。
戦争が始まり、会社のトップだった内田が、シンガポールに司令官として赴任したため、御手洗は空席となった社長に就任。
そして終戦に。病院はすでに震災に遭い、会社もいったん解散します。
どちらもゼロからの再スタートとなるため、いっぺんにどっちも、というわけにはいきません。
そこで、御手洗が選んだのは、本職の病院ではなく、技術的なことは全くわからない精密工業の方でした。
「日本の復興のために、日本の技術を世界に知らしめる義務がある」
44歳の決断でした。
1947年に、社名を現在のキヤノンに変更。
医師であった事から医療用機器の開発を推進し、その後現在も続く開発・製造の原点となりました。
産婦人科医だったからか、実力主義だけでなく、家族主義を旨としていました。
1946年には、経営者でありながら労働組合の結成を助け、永年勤続表象、従業員家族を招いた劇の鑑賞会、持ち家を買うための住宅組合設置などを実施。
1959年には、GHQ(Go Home Quickly)などの標語を掲げ、家族あっての仕事という当時の日本の企業としては珍しい考え方を社員に説き、1967年には完全週休2日制度を導入しました。
運命に逆らわない人生
もともと産婦人科医で、起業する必要はなかったのに、成り行きから共同経営者として参画しました。
その後、やはり成り行きで社長に昇格。
そして戦後、産婦人科医に戻ることもできたのに、従業員たちに請われて新会社を設立。
御手洗はいうなれば、「運命に逆らわない人生」を送ってきました。
「逆らわない」といっても、ただ流れに任せて、のほほんと暮らしたということではなく、その時時で自分の立場で全力は尽くします。
それでも、技術面での知識や経験はなかったので、不安もあったのではないかと思いますが、事実社長に就任する際、こう挨拶したそうです。
「僕は技術的なことはわからないし、経理もできない。皆さんが僕をだまして儲けようとすれば、いとも簡単にだまされてしまうだろう。でも、それでは会社は潰れてしまう。会社を繁栄させるには、皆も一人ひとりが誠意を持ってやるしかない。私も皆を信じる」
騙す人はいなかったんですね。
社長としての御手洗に対する信頼は、確固たるものだったのでしょう。
人生には運もありますから、同じような展開で同じことをしたとしても、同じ結果になるかどうかはわかりません。
ただ、何もしなければ、そもそも何も始まりません。
御手洗毅の生き方からは、運も成り行きも天に任せ、ひたすらその時時の自分の立場で全力を尽くすことの大切さがわかります。
求められたら御手洗社長のように、自分の本職を諦めて思い切った転身はできますか。
以上、御手洗毅など『遅咲きの成功者に学ぶ逆転の法則』(佐藤光浩著、文響社)は、古今東西で40代以降に転機が訪れた不屈で遅咲きの成功者を特集、でした。