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残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法(橘玲著、幻冬舎文庫)は、自己啓発で生き延びることはできないと差し出がましい啓蒙

残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法(橘玲著、幻冬舎文庫)は、自己啓発で生き延びることはできないと差し出がましい啓蒙

残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法(橘玲著、幻冬舎文庫)は、自己啓発でこの残国な世界を生き延びることはできないとしています。必要なのは、「やってもできない」という事実を受け入れ、それでも幸福を手に入れる新しい成功哲学であるといいます。

『残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法』は、橘玲さんが幻冬舎文庫から上梓しています。

本書を簡単にご紹介すると、反自己啓発本です。

本書が言うには、自己啓発本はある一つのイデオロギーを前提としている。

能力は、自分自身の努力で開発することができるというイデオロギーです。

しかし、本書はその前提が間違っているというのです。

私たちの能力の大半が遺伝で決まり、努力をしても何の意味もないという残酷な 真実が隠されていると。

だから、自己啓発本を信じて頑張っても、あなたは無意味な努力を続けでいるだけだと。

そんな残酷な世の中は、先天的に得意でないことを伸ばそうと努力をするより、自分だけ のニッチを見つけそれでミニマルに生きていくしかないというのです。

橘玲さんについては、『言ってはいけないー残酷すぎる真実ー』(新潮新書)をご紹介しましたが、同書は、人間はみな平等、努力は報われるなど「綺麗事」を学術的に反証しました。

まあ、この考えで、ブレずに一貫しているわけです。

本書は、2023年5月21日現在、kindleunlimitedの読み放題リストに含まれています。

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成功失敗は二の次だろう

上掲のことで、本書の結論は出ています

私の方も結論から述べると、半分は賛成で半分は反対です。

マイケル・サンデルさんのいうように、能力も運(ほしのもと)次第だと思います。

ですから、頑張れ頑張れと、進軍ラッパを鳴らすだけではダメだというのはそのとおりです。

遺伝とか環境を見るのもその通り。

ただし、人生は偶然と必然のアザナエル長い系列なので、お前の遺伝子は凡夫だから頑張るのは無意味だ、というのも早計だと思います。

だって、世の中には、遺伝だけでも、単なる努力だけでもない、もちろんスピ系でもなく現実的な第三の提案をしている人もいるでしょ。YouTubeで人気爆発中のrの住人ピエロさんみたいに。


橘さん、ピエロさんはこう言ってますが、論破できますか。

努力は遺伝子で決まるが、遺伝子は穴だらけ。
よく、努力は遺伝子で決まる。
容姿は遺伝子で決まる。
ほとんどのことは遺伝子できまるというんですが、
そんな戯言は一言で論破できる。
「だからなんだ」
容姿に自信かないなら整形すればいい。
努力に自身がないなら努力の仕方を学べばいい。
遺伝子で決まったものを伸ばす方法はいくらでもある。
多くの人は勘違いしている。
遺伝子とは限界を示すものではなく、もともと持っている素養を示すもの

全くそのとおりですね。

それと、これは人生観の問題ですが、見通しの立たないものに「当たって砕けろ」とチャレンジするのも人生なのです。

本人が自己責任でそれを行って、失敗して後悔したとしても、それはその人の権利。

自分の人生を後悔する権利は自分にある、ということです。

だって、何事も「見込み」ばかり気にして、結局何も手を出さなかった人生が楽しいと思いますか。

成功か失敗かはそもそも二の次で、チャレンジできる事自体が人生の醍醐味。

その意味では、本書のような評論はそもそもが、人がいかに生きるかという指針としては「差し出がましい」といえるかもしれません。

欠点がないのが欠点、の意味

著者は、この世の中が能力主義であることを正当化する理由として、こう述べています。

能力主義がグローバルスタンダードになったのは、それが市場原理主義の効率一辺倒な思想だからではない。
会社はヒエラルキー構造の組織で、社員は給料の額で差をつけられるのだから、なんらかの評価は必要不可欠だ。その基準が能力でないならば、人種や国籍、性別、宗教や思想信条、容姿や家柄・出自で評価するようになるだけだ。すなわち、能力主義は差別のない平等な社会を築くための基本インフラなのだ。

要するに、「能力」で差をつけなかったら、人種や容姿などで差をつけるじゃないか。それなら「能力」の方がよりマシではないか、という言い分です。

ただ、その「能力」も、マイケル・サンデルさんの言うように「親ガチャ」から来ているので、実は人種、民族、国籍などと同じ「ほしのもと」差別の延長上にあると私思いますけどね。

それはともかくとして、本書でも問うているのが、「ひとを評価する必要のない共産主義の理想世界」が本当にベストなんだろうか、という問題です。

ここは、私も考えさせられました。

そもそも、既存の国々を思い出しながら、共産主義自体がそんなユートピアなのか、という議論はおきましょう。

かりに「ユートピアだったとして」というところから考えてみましょう。

昔、立川談志さんが歌番組の司会で審査員をシていた時、うまい出場者に対して「欠点のないのが欠点」と評して、その人を選ばなかったことがありました。

私は子供心に、どうしてもそれが解せなかった。

「欠点がないなら、それでいいじゃないか」と。

でも、そうではないんですよね。

「欠点がないのが欠点」という表現は、ある事象なり、製品なりサービスなり、人格でももいいでしょう。

欠点や不満点がないということを指すのに使います。

この表現は、完璧な製品やサービスは実際には存在せず、必ず何らかの改善の余地や不足点があるということを強調するために使われます。

具体的には、一般に以下のような意味合いを持ちます:

好みやニーズの違い: ある製品やサービスがある人にとって優れているとしても、他の人にとっては欠点や不満点があるかもしれません。それぞれの個人の好みやニーズに合わない点があることが「欠点がないのが欠点」と言われる理由です。

進化と改善の必要性: 技術や市場の変化に伴い、常に改善の余地があります。製品やサービスが完璧であるとされることはありません。欠点がない状態では、進化や改善の機会が制限されるため、「欠点がないのが欠点」と表現されることがあります。

競争と選択肢の存在: 同じカテゴリの製品やサービスが複数存在する場合、競合他社の製品と比較して欠点がないことはまれです。競合相手が持っている機能や利点に欠ける点があると、その点が欠点となります。

要するに、「欠点がないのが欠点」という表現は、完璧さは実際には存在せず、常に改善の余地や他の選択肢との比較が必要であるという意味を持っています。

「欠点がない」ことはいいことのように見えますが、弁証法的に見れば、欠点がないということは、際立って良いところもないということです。

例として、野球で、下手な野手は際どい打球は負わないからエラーがない、ということです。

しかし、エラーすることで、その野手がどうしてエラーをシたのか、というところから新たな課題が見つかり、それを克服することで、さらに高みを目指せるということになります。

つまり、人間も商品も、完璧なものはあり得ず、またその欠点から新しい世界への突破口となるのに、欠点がなかったらそれ以上のものにはならない、ということです。

そして、実は欠点が魅力だったりシます。

翻って、共産主義社会は「差別がない」社会。

しかし、人間社会は矛盾から進歩を生み出す社会なのに、差別がないでは、そこで完結してしまいます。

差別があった方がいい、ということではなく、人間は能力から何から違っているのだから、何らかの価値観のもとに、それが差別に繋がり得るということ。

で、それを解決することで、社会は一歩前進しますが、今度は別の矛盾が生じる。

そこでまたそれを解決する。

という営みがなければ、「間違いうる」人間社会は、流れの止まった水と同じで、とたんに汚れて崩壊してしまうのではないでしょうか。

みなさんは、いかがお考えですか。

以上、残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法(橘玲著、幻冬舎文庫)は、自己啓発で生き延びることはできないと差し出がましい啓蒙、でした。


残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法 (幻冬舎文庫) – 橘玲

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