毒虎シュート夜話昭和プロレス暗黒対談(徳間書店)は、ザ・グレート・カブキさんとタイガー戸口さんの対談形式による暴露本です。アメリカでヒールとしてトップを取って日本に凱旋帰国した両レスラーは、濃厚な昭和プロレスの闇を語っています。
『毒虎シュート夜話 昭和プロレス暗黒対談』は、ザ・グレート・カブキさんとタイガー戸口さんを著者として、徳間書店から上梓されています。
本書は、AmazonUnlimitedの読み放題リストに含まれています。
2人は、同い年だそうです。
ザ・グレート・カブキとは誰だ
ザ・グレート・カブキさんは、本名を米良明久といい、少年時代に力道山に憧れ、中学を出ると日本プロレスに入門します。
力道山時代の最後の入門志願者です。(実際に入門したのは、学校の卒業の関係で力道山の死後)
日本プロレス時代は高千穂明久を名乗り、若手のテクニシャンでした。
そして、アメリカ遠征に。
帰ってきて、ジャイアント馬場の全日本プロレスに合流します。
そこからまた渡米、帰国を繰り返し、テキサス・ダラスのマネージャーの要請で、ザ・グレート・カブキになります。
顔は、レスラーが従来行ってきた覆面ではなく隈取り。
ヌンチャクのパフォーマンスや毒霧など、それまでの怪奇派レスラーや日系レスラーにはない演出がアメリカで大ウケし、2年間トップレスラーに君臨します。
ジャイアント馬場の要請で、いったん全日本プロレスに復帰しますが、齟齬があり退団。
「齟齬」の真相はこちらに書かれています。
メガネスーパーが作った団体・SWSに移り、その後はいわゆるインディー団体といわれる弱小団体のリングにも上がった後、50歳でいったん引退します。
その後は、焼き鳥とちゃんこの店を開きましたが、先輩・星野勘太郎さんの要請がきっかけで、店が休みの日曜日だけ現役復帰し、70歳で現役は終えましたが、今も講演や本書のような対談など、今もプロレスと関わっています。
タイガー戸口とは誰だ
タイガー戸口さんは、先日引退したばかりです。
在日韓国人で、本名は表正徳。
通名は母方の姓から戸口正徳といい、キム・ドクというリングネームでも活躍しました。
修徳高校から1968年に日本プロレスに入門。
前座時代にアメリカに単身渡り、1973年の日本プロレス崩壊後は、一匹狼としてアメリカやメキシコなど各テリトリーを回りました。
途中、ジャイアント馬場の全日本プロレスに入団し、ジャンボ鶴田の好敵手としてナンバー3のポジションで活躍します。
ジャイアント馬場の全日本プロレスと、アントニオ猪木率いる新日本プロレスが引き抜き合戦を行った頃、新日本プロレスのリングにも上がりました。
その後、いわゆるインディー団体といわれる弱小団体のリングにも上がりましたが、引き続きアメリカを主戦場に活躍。
実はトランプ大統領とも付き合いがあり、一緒に食事をした仲だが、トランプ大統領は「劇場型政治」ならぬ「プロレス型政治」だ、という興味深い指摘もあります。
プロレスラーとしての日本一はジャイアント馬場
ザ・グレート・カブキさんも、タイガー戸口さんも、アメリカで成功し、日本では全日本プロレスにも新日本プロレスにも上がった経験があるという点で共通しています。
しかも、全日本プロレスについては待遇に不満を持っての退団でした。
ということは、てっきり、ジャイアント馬場に対する悪口三昧になるのかと思いきや、実は本書の冒頭から、プロレスラーとして日本のナンバーワンはジャイアント馬場である、という点で意見が一致しています。
しかも、タイガー戸口さんに至っては、全盛時なら世界でもトップクラスだったと断言しています。
「プロレスの上手さで言ったら、日本では馬場さんが最高で、それを追っかけられる頭のある選手なんかいない。猪木さんが、プロレス対異種格闘技戦とかやり始めたのも、馬場さんのプロレス頭に対抗して、無理やりひねりたしたんじゃないの。ストロングスタイルも」(タイガー戸口さん)
これは、アントニオ猪木ファンが多いと思われる日本のプロレスマニアとしては、受け入れがたい話かもしれません。
しかし、退団の経緯から言っても、2人が今更ジャイアント馬場さんにおべんちゃらを言う必要はないし、現に団体経営者としての批判は本書でも行っています。
日本のプロレスは、アメリカマットとは違う価値観があるので、その点で、アメリカマットでも通用するジャイアント馬場さんよりも、アメリカでは食えなかったアントニオ猪木さんの評価が高い面はあるのかもしれません。
まあ、ジャイアント馬場さんの場合は、ピークを過ぎてからのキャリアが長すぎたことも、評価を微妙にしている理由でもありますが。
道場で強い?だから何?
たとえば、レスラーとしては中堅でも道場では強いとか、極めっこが一番とか、そういうことに価値を置くマニアは多いのですが、2人はそういう価値観をまーったく評価していません。
プロレスラーは、試合で魅せることができ、観客をたくさん入れられること。
それ以外に何が必要なのか、といいます。
日本のプロレス界のシステムは、団体所属レスラーはもちろん、フリーでリングに上る人を含めて、1試合いくら、もしくは年俸いくらという契約です。
自分に人気があろうがなかろうが、会場がフルハウスだろうが閑古鳥だろうが、試合をすれば決まったお金がもらえるわけです。
しかし、アメリカの興行システムは、その日の興行収入から経費を差し引き、残った金が人件費であり、それをレスラーごとに決まったパーセンテージで分配します。
つまり、客の入りがレスラーのその日の実入りに直結するので、レスラーは観客を意識した仕事をしなければならないということになります。
この違いも、「プロレスラーはいかに客を入れられるかがすべて」という考え方が、レスラー、マニアともに日本では根付きにくいことなのかもしれません。
ヒールが一番ではない「ジャパニーズプロレス」
そして、プロレスの試合は、ヒールこそが主役であるという考えでも一致しています。
ジャイアント馬場も、アメリカ時代はヒールとしてトップレスラーでした。
一方、スターはどこまで行ってもスターらしいのが「ジャパニーズプロレス」だが、アメリカは集客の手法が違うというのです。
たとえば、チャンピオンが、あるチャレンジャーと戦うとします。
そうすると「巧い」チャンピオンは、チャレンジャーの良いところを見せて、やられて倒れながら勝ち名乗りを受けるような「辛勝」の試合を作る。
そうすれば、チャンピオンを守りながらも、観客には、次は挑戦者が勝てるんじゃないかと思わせる。
それによって、次の興行も客が入る。
ところが、日本ではアントニオ猪木さんが格好良く勝って「ダーッ」とやる主役であることも、プロレス文化の違いであるとしています。
身体能力も馬場>猪木だった
アントニオ猪木さんは、実はそれほど身体能力も高くないのに、キビキビした動きによって、すごいように見せている、というザ・グレート・カブキさんの指摘もあります。
たとえば、『東京スポーツ』(2015年1月30日付)には、ジャイアント馬場さんが32文ドロップキックを初めて日本で炸裂させた日の写真を掲載しています。
1965年3月26日。場所は当時渋谷にあったリキパレス。相手はドン・ダフィ。
2メートルを超える大男が跳んだことで、観客はさぞ驚いたことでしょう。
記事ではこう絶賛されています。
「跳躍力や手足のバランスなどすべてにおいて満点の一撃。209センチ、145キロの巨体が宙を舞う姿は、もはや芸術品と言ってもいい」
「新日本プロレスの元IWGP王者オカダ・カズチカが打点の高いドロップキックを使っているが、やはり209センチの馬場の一撃には及ばない。『金が取れる』ドロップキックの元祖である」
新日本プロレスのレフェリーだったミスター高橋さんの書籍によると、アントニオ猪木さんはドロップキックが苦手だったそうですが、瞬発力はあっても尻餅をつくように落ちるところにコンプレックスがあったのかもしれません。
元日本プロレス経理部長・三沢正和さんは、ユセフ・トルコさんの上梓である『プロレスへの遺言状』(河出書房新社)において、日本プロレス時代は「ナチュラルな強さなら馬場」と断言しています。
マニアは、ジャイアント馬場、アントニオ猪木、大木金太郎の3人がシュートで戦い、最初にジャイアント馬場が脱落した、という話を一つ話で信じ込んでいますが、肝心のアントニオ猪木さんがそれを否定している事実も付記しておきましょう。
ただし経営者としてのジャイアント馬場については……
とはいっても、繰り返しますが、プロモーター、経営者としてのジャイアント馬場については、2人ともボロくそです。
ただ、全日本プロレスはレスラーにも年金をかけてくれたという「ジャパニーズ」ならではのいいところもあるので、いちがいに悪いところばかりともいえないように思いますが。
ジャンボ鶴田さんの暴露には、中継の実況だった倉持隆夫さんも言及されています。
Amazonの販売ページには、一部が紹介されています。
すでに、マニアは目を皿のようにして読まれていると思いますが、未見の方はおすすめします。
以上、毒虎シュート夜話昭和プロレス暗黒対談(徳間書店)は、ザ・グレート・カブキさんとタイガー戸口さんの対談形式による暴露本、でした。