池上彰と考える、仏教って何ですか?(池上彰著、飛鳥新社)は、お釈迦様の仏教の誕生から大乗仏教、葬式や新興宗教まで解説した仏教解説書です。といっても難しいお経の解説本ではなく、あくまでも仏教の歴史や行事等をわかりやすく説明しています。
『池上彰と考える、仏教って何ですか?』は、池上彰さんが飛鳥新社から上梓した書籍です。
この記事では、Kindle版からご紹介いたします。
本書は、仏教の歴史、つまり発祥から日本への伝来、および現在の日本の仏教までの経過や、葬式や新興宗教など、仏教にまつわる様々な疑問をわかりやすく解説しています。
お釈迦様の仏教は、時の移ろいで大乗仏教として日本に伝わり、日本の中でも、奈良仏教から鎌倉仏教が新たに誕生しました。
その経緯が、これまでこのブログでご紹介した仏教関連の書籍のなかでは、もっともわかりやすく説明されています。
といっても、他の書籍がむずかしすぎてだめだ、ということではありません。
他の書籍は、仏教学者や仏門にある人が書いているため、具体的にお経の一節を挙げて専門的な解説をする箇所が入っているのです。
それは、説明の根拠が明らかになるので大変意義があるのですが、より簡潔にという意味で、池上彰さんは本書をお経の解説本にはしておらず、直接お経の話はハードルが高い人に対しても、歴史や行事等が理解できるよう説明しています。
また、本書の中には、「新興宗教やカルトが力を得るのは、既存の宗教や価値観が人の心を惹き付ける力を失っているから」といったような厳しい指摘もあるのですが、その一方で、Amazonの販売ページに記載されている読者のレビューでは、「可能であればお寺との付き合いを始めたい。」という人もいます。
寺を批判しているのに、でも寺と付き合いたくなる人が出る、というのは、それが為にする批判ではなく、本書がその歴史や意義について、深い理解をした上での苦言や提言であるからだと思います。
本書は2022年12月17日現在、AmazonUnlimitedの読み放題リストに含まれています。
お釈迦様の仏教と弟子たちの分裂
「私が仏教を心地よいと感じるのは、その寛容さとともに、科学的な姿勢を持っているからでもあります」
本書の中の一節です。
世界の主たる宗教は、一神教です。
創造主で絶対的な支配を行う神がいて、そこに祈る世界観です。
しかし、仏教は創造主の存在を想定していません。
これは、お釈迦様の仏教でも、日本に伝わった大乗仏教でも同じです。
すべての現象は、神様の差配ではなく、客観的な原因と結果の連なりであり、因果で成り立っています。
そして、物事には、必ず原因があって結果があります。
それが仏教の立場です。
「実に科学的な態度です。」と、池上彰さんは述べています。
その態度を、外界の現象の法則性解明に向けたのが科学であり、心の有り様に向けたのが仏教である、ということは、『NHK「100分de名著」ブックスブッダ真理のことば』(佐々木閑著)ですでにご紹介しました。
一方、キリスト教では、宇宙の始まりは、神様の一撃でビッグバンを起こしたとしていました。
歴史的には、キリスト教圏で科学が発展したのは、世界を創造した神の偉大さを証明するためだったといいます。
しかし、発展の先に行き着いたのは、聖書と相容れない進化論であり、ホーキング博士の宇宙論でした。
宇宙のことがわかればわかるほど、キリスト教にとって不都合が生じてしまう、と池上彰さんは指摘しています。
では、その仏教はいつ誕生したのか。
紀元前5世紀頃、古代インドに現れたブッダという人物が説いた教えが、後に仏教となりました、と本書には説明されています。
人の生死にかかわる考え方も、仏教は独特です。
キリスト教などは、生きている間の行いが良ければ、天国に行って永遠の命を得ることができるとされています。
つまり、人生は1度きりです。
一方、仏教は、一般に信じられていた輪廻転生を前提に教えを説いています。
輪廻転生から抜け出すことで、苦しみから逃れ、心の安らぎを得ることができるとされています。
仏教の基本思想は、諸行無常と諸法無我です。
すべてのものは不確かで変化するので、私という実体も存在しない、そう理解することで他人と比べたり執着したりなどの様々な苦を遠ざけることができる、ということです。
そして、人生は「一切皆苦」(すべては苦である)として、誰もが避けられない四苦八苦を挙げています。
生苦……生まれることに伴うクルし
老苦……老いに伴う苦しみ
病苦……病に伴う苦しみ
死苦……死に伴う苦しみ
愛別離苦(あいべつりく)……愛する人と別れる苦しみ
怨憎会苦(おんぞうえく)……嫌な相手と向き合う苦しみ
求不得苦(ぐふとくく)……求めても手に入らない苦しみ
五蘊盛苦(ごうんじょうく)……五感や心の働きが生む煩悩を制御できない仕組み
仏陀は、こうした苦しみの原因を煩悩としました。
仏教は、人間のもつ根本的な煩悩を三毒(貪り、怒り、愚か)としています。
貪りは限度のない欲望、怒りも抑えがたい煩悩で、愚かとは諸行無常、諸法無我を知らない無明(むみょう)です。
煩悩をコントロールして穏やかに暮らし、そうした苦しみから完全に抜け出した状態を「涅槃寂静」(ねはんじゃくじょう)といいます。
諸行無常、諸法無我、一切皆苦。
この3つを三法印(さんぽういん)と呼び、これに「涅槃寂静」を加えて四法印と呼ぶこともあります。
原始仏教は、『スッタニパータ』や『ダンマパダ』(法句経)などの経典を残しています。
しかし、仏陀の没後、弟子たちは仏陀のルールをそのまま守るべきだという保守派(上座部)と、時代に合わせてルールを変えていくべきだという改革派(大衆部)に分裂。
上座部はスリランカに伝わり上座仏教となり、大衆部は大乗仏教に変化します。
日本の仏教は中国初の大乗仏教を招いて始まった
日本が受け入れた仏教は、そのうちの大乗仏教について、中国という強力なフィルターをいったん通して、招き入れられたものです。
玄奘三蔵(西遊記のモデル)が、インドの経典を中国語に訳したとき、たとえば『般若心経』ではあえて訳さなかった箇所があったり、儒教や道教といった中国発の思想の影響も受けたりしているのです。
たとえば、親孝行をしろとか、亡くなった人の位牌を作るといったことは、お釈迦様の仏教には出てきません。
お釈迦様の仏教と大乗仏教の違いは、前者が出家修行者の悟りであり、後者は在家の修行をしていない者でも救われる教えということです。
大乗仏教がもっとも大切にするのは利他です。
利他とは、自分のことはさておいて、他の人が、あるいは他の生き物が幸せになれるように行動する姿勢のことです。
利他の行いを重ねることで、人は悟りに近づけるということです。
しかし、お釈迦様は、出家して修行しないと悟れないとしているのに、出家も修行もしないで、どうやって悟れるのか。
大乗仏教曰く、お釈迦様だって数限りない輪廻を積み重ねた結果、悟りに至ることが出来たのだ。
私たちも日々一つ一つ利他の種をまいていけば、いつか来世において機が熟したときに花が開くというのです。
日本に仏教を定着させたのは、聖徳太子として知られる廐戸皇子(うまやどのみこ)です。
そこから、仏教が日本らしい形が整ってきたのは、奈良時代です。
平安時代には、遣唐使として唐に渡った最澄・空海によって、密教が伝えられました。
神秘主義的な儀式や呪術で、現世での利益を得ようとする秘技です。
そして、最澄は天台宗を、空海は真言宗を開きました。
戒律を授ける戒壇院が比叡山に作られると、今の仏教の主流派である、浄土宗、浄土真宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗などが始まりました。
人はなぜカルト宗教や新興宗教にハマってしまうのか
本書では、人はなぜカルト宗教や新興宗教にハマってしまうのか、という章は、とくに興味深い内容でした。
それについて、あるオカルト批判団体、たとえばジャパンスケプティクスは、大衆に科学知識が足りないからだといいました。
大槻義彦さんとか、科学とオカルトの対決が賑やかだった頃、活躍した方々です。
しかし、それでは説明が付きません。
なぜなら、オウム真理教の幹部は、医師を含めて理系の高学歴者が多かったからです。
理系だけではありません。
旧帝大法学部を卒業した顧問弁護士も、教団の信者でした。
科学的・合理的な教育を受けてきた人たちか揃いも揃って、なんでそんな非合理主義に転落したのか。
みなさんはその点、いかがお考えですか。
私は、高学歴だからこそ、そこに非合理主義に転落する落とし穴があると思います。
そのような方々はたぶん、高校まで落ちこぼれだったのに、急に自主的に目覚めて高学歴になったわけではないでしょう。
子供の頃から、学歴を意識させられる叱咤を親から受けて、塾通い、名門小中高へのお受験などさせられていたと思います。
そういう子は、親に管理されて勉強し、高学歴になったので、学力はあっても、自己肯定感や自己意思決定能力などが低いのです。
自分で決める。失敗を恐れない。自分の意志を妨害するものに対しては毅然とした態度を貫く。
そういうことが苦手なのです。
自分に自信がないと、宗教団体のオルグにのっかったり、疑似科学にコロッと騙されたりします。
いえ、コロッと騙されるというのは、ちょっと単純化しました。
おかしいとは思うのです。
思うけれど、思う自分に自信がないのです。
疑っていることが、本当に良いのだろうか、と迷ってしまうのです。
そういう自信のなさは、カルト教団のオルグに抗いきれないのです。
つまり、毒親がキーワードということです。
先に私の意見を書いてしまいましたが、池上彰さんの意見は、既存の宗教に魅力がなくなった、とのことです。
本書から抜粋します。
1950~70年代は、若者にとって学生運動が救いの場だった。
それが、一億総中流と言われるようになり、政治の季節が終わったため、若者が救いを求める場がなくなった。
そこに、既存の宗教とは違う新興宗教があらわれた。
すべての新興宗教が悪いというわけではないところが、問題をややこしくしている。
歴史を振り返れば、今大きくなっている宗教・宗派だって誕生当時は新興宗教だった。
日本では、鎌倉仏教(現在の日本の仏教のほとんどの宗派)が、当時は既存の仏教の枠を超えた新興宗教であり、親鸞も日蓮も「危険思想」よばわりされたからだ。
既存の宗教は、仏教界にとってはカルトだったが、既成概念を打ち破ってくれるからこそ、庶民はそこに救いを見出した。
池上彰さんは、こう結んでいます。
池上彰さんは、「葬式仏教」になってしまったのは、伝統宗教側の責任であり、それが人々に宗教への関心・期待などを抱かせなくなったと指摘しています。
つまり、お経だけ読んで、お布施をもらって、すぐ帰ってしまうと。
そこでありがたい法話でもしているのかと。
しなきゃ、人々の心は離れてしまうだろうと。
最近は、葬儀や法事で、檀家にならなくてもいい、3万円ぐらいで単発で頼める派遣僧侶が流行していますよね。
既存のお寺では、それに反発していますが、じゃあ伝統宗教のあなたがた、10万も20万もとって、その人達と何が違うんだということです。
つまり、池上彰さんは、新興宗教への傾倒は、伝統宗教の寺院にも責任がある、と述べているわけです。
なるほど、一理あると思います。
葬式仏教も諸行無常である
本書にも書かれていますが、仏教発祥のインドでは、人が亡くなっても、川に流してそれで終わり。
先祖供養なども、別に重視されていませんでした。
輪廻転生を信じられているから、また生き返るのにいちいち供養してらんないよ、ということなんでしょうが、とにかくお釈迦様の仏教には、葬儀にお経を読め、先祖供養しろ、なんてことは一言も出てきません。
それを、今のように僧侶がお経を読む「葬式仏教」になったのは、鎌倉仏教の僧侶たちが、きちんと供養してほしいという庶民の願いに応じて、葬儀を引き受けるようになったことがはじまりといいます。
江戸時代には、幕府はキリスト教を禁止するため、日本人全員を何処かの寺に所属させる檀家制度を導入したことで、お寺と檀家、地域との関係が固定化されました。
これは、お寺にとっては美味しい話でした。
僧侶は地域の葬儀・法事を一手に引き受けることを代々の家業とすることになり、葬式仏教が確立したからです。
つまり、固定客が国のルールとして保証されたわけです。
現在は、信仰の自由で、檀家制度は国策ではありません。
んが、今も地方を中心に、檀家によって寺が収入を得ている構造がそのまま残っているため、既存の寺院はそこにあぐらをかいでしまった。
でも、時代は変わるのです。
小売店がどんどん淘汰されて、スーパーやネットショップにシェアが移ったように、檀家制度による葬式仏教でやっていける時代はかわりつつあります。
仏教を標榜する寺院が、仏教の根幹である「諸行無常」を忘れている、とのそしりは免れませんね。
以上、池上彰と考える、仏教って何ですか?(池上彰著、飛鳥新社)は、お釈迦様の仏教の誕生から大乗仏教、葬式や新興宗教まで解説、でした。