漫画で読む文学『黄金風景』(原作/太宰治、漫画/だらく)は、主人公の「私」がいじめていた女中「お慶」と大人になって再会する話です。使用人の女中には厳しく当たっていたところ、落ちぶれた療養生活を送っていた「私」に「お慶」の夫が現れ……。
漫画で読む文学『黄金風景』は、太宰治の自叙伝的短編小説を、だらくさんがKindle用に漫画化したものです。
だらくさんは、青空文庫(著作権フリーになった作品のアーカイブサイト)入りした名作を、『漫画で読む文学』シリーズとしてKindle用に漫画化しています。
これまでにも、太宰治原作『走れメロス』、宮沢賢治原作『葉桜と魔笛』『注文の多い料理店』芥川龍之介原作『蜜柑』、中島敦原作『山月記』などをご紹介しました。
本作の主人公は「私」。名前は姓も名も最後まで出てきません。
裕福な家に育ち、子供の頃は、のろくさい女中「お慶」をよくいじめていました。
それから時が経ち、大人になった「私」は文筆業を営んでいたが病気になり、落ちぶれた療養生活を送っていたところ、お慶の夫が訪れ、次第に過去と今が結ばれていく話です。
単行本では新書版で全32ページの、自叙伝的な短編小説です。
本日も短編小説ですが、私にとっては、先日の『山月記』同様、まさに「刺さる作品」です。
本作は2023年9月17日現在、KindleUnlimitedの読み放題リストに含まれています。
お慶には2度「負けた」
私は子供のときには、余り質のいい方ではなかった。
お慶という、のろくさい女中をいびった。
夏のころであった、私は遂にかんしゃくをおこし、お慶を蹴った。
たしかに肩を蹴った筈はずなのに、お慶は右の頬ほおをおさえ、がばと泣き伏し、泣き泣きいった。
「親にさえ顔を踏まれたことはない。一生おぼえております」
私は、さすがにいやな気がした。
その後何年かたち、私は家を追われ、一夜のうちに窮迫し、巷ちまたをさまよい、諸所に泣きつき、その日その日のいのち繋つなぎ、やや文筆でもって、自活できるあてがつきはじめたと思ったとたん、病を得た。
そのころのこと、戸籍調べの四十に近い、痩せて小柄のおまわりが玄関で、帳簿の私の名前と、それから無精ひげのばし放題の私の顔とを、つくづく見比べ、おや、あなたは……のお坊ちゃんじゃございませんか?
「ごらんの通り」私は、にこりともせずに応じた。
「私も、いまは落ちぶれました」
「とんでもない」お巡りは、なおも楽しげに笑いながら、
「小説をお書きなさるんだったら、それはなかなか出世です」
私は苦笑した。
「ところで」とお巡りは少し声をひくめ、「お慶がいつもあなたのお噂をしています」
思い出した。私は玄関の式台にしゃがんだまま、頭をたれて、その二十年まえ、のろくさかったひとりの女中に対しての私の悪行が、ひとつひとつ、はっきり思い出され、ほとんど座に耐えかねた。
「かまいませんでしょうか。こんどあれを連れて、いちどゆっくりお礼にあがりましょう」
それから、三日たって、外に三人、浴衣ゆかた着た父と母と、赤い洋服着た女の子と、絵のように美しく並んで立っていた。お慶の家族である。
私は、いたたまれず、「来たのですか。きょう、私これから用事があって出かけなければなりません。お気の毒ですが、またの日においで下さい」
私はかなしく、お慶がまだひとことも言い出さぬうち、逃げるように、海浜へ飛び出した。
ちえっちえっと舌打ちしては、心のどこかの隅で、負けた、負けた、と囁ささやく声が聞えて、これはならぬとはげしくからだをゆすぶっては、また歩き、三十分ほどそうしていたろうか、うみぎしに出て、私は立止った。
お慶親子三人、のどかに海に石の投げっこしては笑い興じている。声がここまで聞えて来る。
「なかなか」お巡りは、うんと力こめて石をほうって、「頭のよさそうな方じゃないか。あのひとは、いまに偉くなるぞ」
「そうですとも、そうですとも」お慶の誇らしげな高い声である。
「あのかたは、お小さいときからひとり変って居られた。目下のものにもそれは親切に、目をかけて下すった」
私は立ったまま泣いていた。けわしい興奮が、涙で、まるで気持よく溶け去ってしまうのだ。
負けた。これは、いいことだ。そうなければ、いけないのだ。かれらの勝利は、また私のあすの出発にも、光を与える。
「負けた」ことが刺さる作品
本作のキモは、主人公が2度「負けた」と言っている点です。
この2つの「負けた」は、微妙に意味が違うのです。
最初の「負けた」は、当時と現在の、立場が逆転した言い知れない屈辱感です。
「のろくさい」とイビっていたお慶が、警官夫人として幸せな家庭を築き、こざっぱりとした格好で訪ねてきたのに、イビっていた自分は病気でカネに困り、みじめな落ち武者のようななりでひげ茫々。
諸行無常ですね。
次の「負けた」は、生き方とか人間として負けた、と感じたこと。
お慶はイビられたのに、決して自分(主人公)に対してネガティブな総括をしていない。
お慶は、「大家にあがって行儀見習いした」として、イビった主人公について、見どころがあるとまで言っている。
なんて、心の大きな人だろう。
その心の大きさが、使い物にならない「のろくさい」女中から、警察官の家庭の夫人として家庭を支える人間になったのだろう。
それに引き換え、自分は家を追われて病と闘いながら暗い気持ちで暮らしている。
現状現実に、不平不満や悪口で塞ぎ込んだ気分になっている私は、なんてつまらない人間なのだろう。
だから、私はお慶に、生き方として負けたと。
そういう人間に負けることは、順当なことなのだ。
ただし、これは最初のような屈辱的な敗北感ではなく、主人公にとっても、明日への活路を見出す「よすが」になる「負け」なのです。
今回は負けた。でも私もお慶に倣って、あとに続くぞ、明日から前向きに生きるぞ、という思いを主人公は抱いたわけです。
すがすがしくて、「あすの出発にも、光を与える」ものなのです。
太宰治が、お慶の言うように、確かに只者ではないのは、たんなる敗北ではなく、そう捉えたことだと思います。
以上、漫画で読む文学『黄金風景』(原作/太宰治、漫画/だらく)は、主人公の「私」がいじめていた女中「お慶」と大人になって再会する話、でした。