漫画方丈記(文響社)は、日本最古の災害文学といわれる鴨長明の同名の随筆を漫画化したものです。養老孟司さんの解説も好評です。漫画は本作がデビュー作となる信吉さん。安元の大火、治承の竜巻、福原遷都、養和の飢饉、元暦の地震などが描かれています。
『漫画方丈記 日本最古の災害文学』は、鴨長明原作の随筆を、信吉さんが漫画にして文響社から上梓しています。
この記事は、Kindle版をもとにご紹介しています。
『方丈記』は、鎌倉時代に書かれた日本中世文学の代表的な随筆とされ、吉田兼好の『徒然草』、清少納言の『枕草子』と並ぶ『古典日本三大随筆』に数えられています。
原稿用紙に25枚と言われる短編ですが、1冊の漫画に仕上がったのは、それだけ内容が濃いということです。
漫画を描いたのは信吉さん。
本作がデビュー作だそうです。
これまで、漫画化された文芸作品を何冊もご紹介しましたが、デビュー作とは思えないほど描きなれた手練れで、読みやすい展開です。
解説を養老孟司さんが書いていますが、「諸行無常」と、晩年の鴨長明の暮らしについての見解が実に的確です。
本書は2022年12月29日現在、AmazonKindleUnlimitedの読み放題リストに含まれています。
経験した天災・人災の数々
鴨長明は、賀茂御祖神社(下鴨神社)の神事を統率する禰宜・鴨長継の次男として京都で生まれました。
歌人として実績は残したものの、長男との後継者争いに破れて神職としての出世の道を閉ざされ、近江国甲賀郡大岡寺(天台宗)で出家。
晩年は、他人からどう見られるかよりも自らの心の自由を求め、日野(現・京都市伏見区醍醐)で閑居生活を行ったといわれます。
『方丈記』は、その閑居生活中に、わずか5畳ほどの部屋でかきあげた作品です。
貴族時代に経験した、天災や失政による社会の困窮などを述懐。
出家後の閑居生活についても仏教者として言及しています。
『方丈記』の冒頭の一文は有名です。
行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。
ゆく河の水の流れは絶える事がなく流れ続ける状態にあって、それでいて、それぞれのもともとの水ではない。
仏教のイロハのイである、諸行無常ですね。
ヘラクレイトスも言っています。
万物は流転する。同じ川に二度入ることはできない。
「何を抜かすか。川がある限り何度でも入れるワイ」
と、思いますか。
でも、その「川」は、昨日入った「川」とは違いますよ。
それどころか、1秒前に入った「川」とも違います。
なんとなれば、その時の水は流れています。
流れたことで、周囲の砂利や揺れる草木の風景も違います。
すべては、そのときだけのことなのです。
そして、それは「川の水」だけのことではなく、「世の中にある人とすみかと、またかくの如し(この世に生きている人と(その人たちが)住む場所とは、またこの(流れと泡の)ようである。)とも述べています。
焼けてしまえば別の家も建つし、その家が滅びれば別の家になる。
中に住む人だって、昔であった20~30人のうち、今も残っているのは、せいぜい1人か2人。
人間の一生は、水の泡のようにはかない、と。
人も住処も、生まれては死に、造られては壊され、無常を競い合う。
それはまるで、朝顔と露の関係に似ている。
露が先に落ちて花が散っても、朝日が上がれば枯れ、花が先にしぼんでも露は夕方まで持たない。
安元の大火
話題は、鴨長明が23歳(安元3年=1177年4月28日)のときの安元の大火へ。
風烈しく吹きてしづかならざりし夜、戌の時ばかり、都のたつみより火出で來りていぬゐに至る。はてには朱雀門、大極殿、大學寮、民部の省まで移りて、ひとよがほどに、塵灰となりにき。
風が強く騒がしい夜。午後8時頃、都の東南より出火し、朱雀門、大極殿、大學寮、民部省まで燃え移り、燃え尽くした
昨日まであったものが、あっけなく消えてしまう。
それがたとえ、高貴な人でも、立派な建物でも。
人が行うことは、その殆どが愚かなことだ。
こんな危ない今日の街中に家を作って、いろいろと気を使うのはとくに愚かなことだ。
街も人も永遠ではないのだ。
治承の辻風
また治承四年卯月廿九日のころ、中の御門京極のほどより、大なるつじかぜ起りて、六條わたりまで、いかめしく吹きけること侍りき。三四町をかけて吹きまくるに、その中にこもれる家ども、大なるもちひさきも、一つとしてやぶれざるはなし。
また、治承四年四月頃、中御門京極のあたりから、大きな辻風が起こって、六条あたりまで吹くことがあった。三四町を吹きまくる間に、辻風の圏内の家々は、大きい家も小さい家もつ、一つとして被害を受けないものは無かった。
損害は、風が去ったあとにも訪れた。
壊れた家屋の修復をする中で、けがをするものも多かった。
かつてこれほどの規模のものがあっただろうか。
遷都
又おなじ年の六月の頃、にはかに都うつり侍りき。いと思ひの外なりし事なり。大かたこの京のはじめを聞けば、嵯峨の天皇の御時、都とさだまりにけるより後、既に數百歳を經たり。異なるゆゑなくて、たやすく改まるべくもあらねば、これを世の人、たやすからずうれへあへるさま、ことわりにも過ぎたり。
また、治承四年6月頃、急に都遷りが行われた。たいそう思いもよらない事だった。だいたい、この都のはじめは聞くところによると、嵯峨天皇の時代に都と定まってからというもの、すでに四百年を経ている。
重大な事情でもなければ簡単に都遷しなどするべきものでもなく、これを世間の人々は不安がり不平がった。まことに当然すぎることだ。
嵯峨天皇から400年続く平安京を捨てて、今風に言えば、首都を京都から福原(現在の神戸市兵庫区)に遷都すると突然決まり、帝、大臣、公卿はみな新都に移っていきました。
官や位を狙う者は、1日もはやく移ろうとします。
しかし、前途のない人は、そのまま残りました。
日々、住人が去った家が解体され、材木として筏に乗せて、淀川いっぱいに運び下されていきます。
取り残された家の跡地は、草が生い茂り、姿を変えていきます。
道も荒れ果て、牛車よりも目新しい武家風の馬が好まれるようになりました。
「馬は便利だが、雅ではない。あれでは都の人間らしくない」
荒れ果てた元都を嘆く鴨長明。
しかし、それもまた諸行無常なんですけどね。
一方、新都の福原は狭隘の地で、建設はなかなか進みません。
結局その冬には、平安京に再還都となりました。
いったん解体した家々は、全部が元通りに建ちはしないのに、トンでもないことです。
養和の飢饉
又養和のころかとよ、久しくなりてたしかにも覺えず、二年が間、世の中飢渇して、あさましきこと侍りき。或は春夏日でり、或は秋冬大風、大水などよからぬ事どもうちつゞきて、五※[#「穀」の「禾」に代えて「釆」、]ことごとくみのらず。むなしく春耕し、夏植うるいとなみありて、秋かり冬收むるぞめきはなし。
また、養和のことだったかな、遠い昔のことになってしまったので正確には覚えていないけどね。2年の間、世の中が飢餓状態で、ひどい状態になったことがあった。あるいは春夏日照り、秋に大風が吹き洪水が襲い、悪いことばかり続いて、穀物類はまるで実らなかった。夏に田植えをしても秋に収穫できず冬に蓄えることもできないのだ。
社寺や朝廷では様々な祈祷が行われたものの、全く効果なし。多くの者は土地を捨てて国外や山に移り住みました。
価値のある家財を引き換えにしても、わずかな食料しか得られない。
街は物乞いが増え、困窮していた人がふらふら歩いていたかと思うと、次の瞬間倒れたかと思うと死んでいた。
それは決してめずらしくない光景でした。
死体は街にゴロゴロして腐臭が漂いました。
山の薪がなくなり、都でも薪が不足するようになりました。
その結果、自分の家を壊して薪として売ろうとするものもあらわれました。
自分の家ならまだましでした。
売るもののない人は、古寺に忍び込み、お堂や仏像を壊して薪にしました。
道徳が乱れた濁悪世(末法)に生まれ、このような心憂きさまを見ることになろうとは、と鴨長明は嘆いています。
元暦の地震
また元暦二年のころ、おほなゐふること侍りき。そのさまよのつねならず。山くづれて川を埋み、海かたぶきて陸をひたせり。土さけて水わきあがり、いはほわれて谷にまろび入り、なぎさこぐふねは浪にたゞよひ、道ゆく駒は足のたちどをまどはせり。いはむや都のほとりには、在々所々堂舍廟塔、一つとして全からず。或はくづれ、或はたふれた(ぬイ)る間、塵灰立ちあがりて盛なる煙のごとし。
また元暦二年(7月9日=1185年8月6日)のころ、大きな地震が起こった。その様子はいつものとはまるで違ったものだった。山は崩れて川を埋めてしまい、海は傾いたように波が押し寄せ、陸地を水に浸してしまった。
土は裂けて水が湧き出て、岩石が割れて谷に転がり入った。なぎさを漕いでいる舟は波の上にただよい、道行く馬はどこに足を立てていいかもわからないほどであった。ましてや都の郊外には、あちこちの寺の堂や塔が一つとして被害を受けなかったものはなく、あるいは崩れあるいは倒れた。塵灰は立ち上って盛んな煙のようである。
外に走り出せば、地面が割れ裂ける。
竜になれ雲にも乗れますが、人間はどうにもならない。
恐れの中にも恐るべきものは、ただ地震であると思い知らされました。
余震も3ヶ月ほど続きました。
「これが身の丈にあっている」とは言うものの……
鴨長明は嘆きます。
これまで記した通り、とかくこの世は住みにくい。
住む場所や、身分の数だけ悩みは増えると。
日々暮らしていると、隣人と比較してしまったり、噂話を期にしてしまったりして、心が休まらない。
どんなところに住み、どんなことをすれば、この人生が穏やかに心を休めることができるのだろう。
その結果、鴨長明は家を捨て出家。
都の北部にある山部深い土地で、家は四畳半と六畳の中間ぐらい。
広さは方丈高さは7尺たらずの「ワンルーム」。
土台を組み、簡単に屋根をふき、柱の継ぎ目は掛け金で止めただけ。
簡素だから、分解すればよその場所で建て直すこともできる。
これが身の丈にあっている、と鴨長明。
林が近いので、薪にする小枝を拾うのも不自由しない。
念仏を唱えるのが億劫な時は、怠けるときもある。
季節ごとに、桜や紅葉狩りをしたり、山々をあるき楽しんだりできる。
世間と切れているから、戒律を破ることもない。
他人とかかわって気苦労するより楽であろう。
食料はいつも乏しいから、どんなものでもおいしく感じる。
春夏秋冬朝昼晩…この山には情緒があって飽きることがない。
都とは違った穏やかな生活がある、決して広くはないが、穏やかで気に入っている、と満足しきっています。
もっとも、仏教では執著(執着)を戒めているのに、今の暮らしをよしとするのも結局は執着ではないかと心配するほどです。
この閑居生活の件は、『方丈記』の後半のかなりの部分を占めています。
しかし、逆に言うと、だからこそ、本当は今の生活は自分にとって理想ではなく、長男との後継者争いに破れて神職としての出世の道を閉ざされたことの無念さが、心の底には残っているのではないかと私には思われました。
みなさんは、いかが思われますか。
解説を、養老孟司さんが書いていますが、諸行無常と、鴨長明の閑居生活について絶妙な解説をしています。
詳しくは、本書をご覧ください。
以上、漫画方丈記(文響社)は、日本最古の災害文学といわれる鴨長明の同名の随筆を漫画化したものです。養老孟司さんの解説も好評、でした。