田中正造などを漫画化した『まんがでわかる偉人伝 親子で読みたい70人のおはなし』は、世の中の役に立つ発明や発見をした人、リーダーとして強くたたかった人、人々の心に残る作品を創った人など偉大な人々の物語をまんがでわかりやすく紹介しています。(文中敬称略)
本作は、ここのところ何冊かご紹介している、よだひできさんの偉人伝マンガシリーズです。
国内外の偉人について、マンガでその生涯と功績を描いています。
以前、坂本竜馬をご紹介しました。
この記事では、その中で、田中正造(1841年12月15日~1913年9月4日)についてご紹介します。
田中正造は、足尾銅山鉱毒反対運動の指導者であり、政治家です。
反対運動のため、投獄もされました。
Copilotに、田中正造の生涯と功績を要約してもらいました。
– 若い頃から投獄され、明治天皇に直訴しようとした活動家でした。
– 『栃木新聞』の創刊者であり、民権思想や時事問題を論じました。
– 衆議院議員に6回当選し、立憲改進党に所属していました。
彼は足尾銅山鉱毒事件の被害者でもあり、政府に救済を訴えました。
また、直訴の際には大演説を行い、その知恵と決意が称賛されています。
2度の投獄もめげず議員になる
*【#歴史】「田中正造、杉原千畝、中村哲 — 私利私欲ではなく悠久の大義に生きる」
… 彼らは、国会議員、外交官、医師と日本社会のエリートだったが、立身出世ではなく、目の前で「助けて下さい」と涙する窮民にあたたかい手を差し伸べた。… pic.twitter.com/jW9cYzkhDl
— Hiroshi Matsuura (@HiroshMatsuur2) August 17, 2024
田中正造は、江戸時代が終わる頃、名主の子弟として下野国安蘇郡小中村(現在の栃木県佐野市小中町)に生まれました。
名主とは、日本の古代末期から中世にかけて、公領や荘園の名田の経営を請け負うとともに、領主への貢納(年貢・公事・夫役)の責務を担った階層を指します。
名主は、武士や農民の中から選ばれ、名田の管理や村の事務を担当しました。
17歳で父親の跡を継いで名主になり、19歳の時に寺子屋をはじめました。
24歳の時、自分がリーダーになり、幕末から村民らと領主である高家六角家の不正に対して政治的要求を行い、この運動で財産を使い果たしました。
しかも、運動で逮捕され、慶応4年(1868年)に投獄されました。今で言う禁固刑10ヶ月。
一方、いいこともあり、16歳のカツ子と結婚しました。
出所後、官吏となりましたが反対運動はやめませんでした。
31歳の時には、上司の殺害容疑者として逮捕されましたが、無実だったと考えられています。
それでも4年間の牢屋ぐらし。
しかし、この間、本をたくさん読み、自由民権運動に心を動かされ、政治の道へ。
39歳で栃木新聞(後の下野新聞⇒休刊)の編集長になり、国会の設立や憲法の発布を唱えて、40歳で県会議員に当選しました。
46歳の時に、渡良瀬川の汚染を目の当たりにします。
魚が全滅しただけでなく、農作物も枯れています。
原因は、上流の足尾銅山から流れる鉱毒でした。
これは、足尾鉱毒事件といわれます。
現在の栃木県日光市にあった足尾銅山で起こった日本初の公害事件です。
この事件は、銅の採掘に伴う有害な廃棄物(排煙、鉱毒ガス、汚染水など)が、周辺の環境や人々に大きな被害をもたらしました。
渡良瀬川流域一帯の農産物や魚が死滅し、住民1000人以上が被害に遭いました。
1890年に、50歳で国会議員になった田中正造は、議場で銅山の営業停止を求める演説を行います。
科学的根拠を持ち、鉱毒問題に取り組みました。
農民たちのデモが広がり、被害の状況を訴えました。
しかし、政府の返事は煮えきらず、それは銅山の経営者・古河市兵衛が金を握らせていたからでした。
事態が動かないことで、業を煮やした田中正造は、61歳で国会議員をやめ、天皇に直訴します。
絶対天皇制時代に、そのような行為は、シ刑になるかもしれない命がけの行為でした。
1901年12月10日、直訴に向かった田中正造は、案の定取り押さえられてしまいました。
しかし、その行為によって、足尾銅山鉱毒問題は全国に知れ渡りました。
すると政府は、あろうことか、渡良瀬川のそばにある谷中村に貯水池を作り、鉱毒を沈殿させて住民を追い出してしまおうと考えました。
それ以降、デマ、嫌がらせ、力尽くによって村民にプレッシャーをかけ、10年に及ぶ戦いに疲れ果てた村民は、結局村を出ていきました。
いくら現代が国民いじめの政府でも、さすがにここまではしないでしょう。
田中正造は、その間、谷中村に移り住み、すでに議員もやめて無職でお金もないのに頑張りましたが、やがて病気になり73歳で亡くなりました。
正義感と反乱心で公害問題を全国に知らしめる
いつの日か、新札・一万円札の肖像は田中正造になってくれるといいな。
「真の文明は山を荒さず 川を荒さず 村を破らず 人を殺さざるべし」の言葉を残し、立場の弱い民衆のために人生を捧げた人。前回・今回の一万円札改刷では近代資本主義社会を肯定する立場の人物肖像だった。 https://t.co/edgWGTuFk4 pic.twitter.com/5PTdZw5QyS
— 東京アナーキー探索会 (@shinjukuwaseda) July 1, 2024
歴史的偉人はほかにもいますが、他の人々は、法律を作った、鉄道を敷設した、本を出した、といった、形が残る、後世にわかりやすい功績を残しました。
田中正造は、不正を追求するとか、公害問題で反対運動をするといった、物質的に何かを残したわけではないために、「偉人」としては取り上げられる機会が少ないかもしれません。
しかし、正義感と反乱心を持ち、日本でいちはやく公害問題に取り組んだ人として、精神的な社会活動の前例を作りました。
「ほんとうに信用できるのは、『良いことを言う人』ではなく『言ったことをやる人』」という名言を述べたのは、アルバート・アインシュタイン(Albert Einstein)。
お釈迦さまも、実践しない知識に意味はない、ということを複数の経典で述べています。
その点、名主兼寺子屋オーナーとして、安定した人生が約束されていたのに、それを食いつぶしても活動に生涯を捧げた田中正造は、まさに「ほんとうに信用できる」人だったのではないでしょうか。
今回、このように学習まんが参考書に、他の偉人とともに取り上げられたことは、大変良かったと思います。
田中正造、ご存知でしたか。