糸川英夫などを『1話5分 おんどく伝記 1年生 かしこい脳が育つ!』(北川チハル著、加藤俊徳/読み手、世界文化社)をご紹介します。「読むのが苦手な子でもどんどん読みたくなる、伝記シリーズ」と題したタイトル通り1話5分の伝記です。(文中敬称略)
本書『1話5分 おんどく伝記 1年生 かしこい脳が育つ!』の本来の対象は、生徒・児童です。
が、伝記のひとつひとつは「5分で読める」から、集中的にスラスラ音読ができることで、挫折することなく「読みたくな」ります。
また、「脳活性音読法」といって、文章の助詞やキーワードになる単語に、蛍光ペンで印をつけたようなアクセントがついているので、視覚から脳へ刺激があり、惰性で文字を追っているうち、気がついたら文意が何も頭に入ってなかった、ということもありません。
その読書脳の活性化は、大人にも効果があると思われるので。今回ご紹介します。
歳を取って字を追うのが億劫になってしまった方も、本書を音読することで、読書力を復活させるきっかけになるのではないかと思うからです。
もっとも、複数のブログを巡回されているSSブログユーザー諸氏には、まだ必要ではないかもしれませんが、こういう書籍もあるということを知っておいてもいいのではないかと思います。
取り上げられている偉人の中で、今回ご紹介したいのは、糸川英夫(いとかわ ひでお、1912年7月20日 – 1999年2月21日)です。
日本の宇宙開発やロケット技術の発展に大きな影響を与えた科学者で、特に「日本のロケット開発の父」として知られています。
糸川の生き様は、情熱と革新、挑戦の連続であり、彼の功績は今日の日本の宇宙開発の基礎を築いたものとして高く評価されています。
ペンシルロケットはどうしてできたか
理科のセンセイを20年やってるけど、1955年の今日は「日本初のペンシルロケットの試射」に成功した日です。これを成し遂げ、その後の日本のロケット技術を牽引したのは糸川英夫教授なの。はやぶさが世界初のサンプルリターンをしたのが小惑星「イトカワ」これは教授の名前から。さらに1961年の今日は→ pic.twitter.com/M5bT42AEO5
— りこ??シンママ理科教員 (@riko_astron) April 11, 2024
糸川英夫は1912年に東京で生まれ、東京帝国大学(現:東京大学)で航空工学を学びました。
第二次世界大戦中は軍需産業に従事し、戦闘機「隼(はやぶさ)」の開発にも関わっています。
この時期に培った航空技術の知識が、後のロケット開発にも大いに活かされました。
戦後、日本は一時的にロケットの研究開発が制限されていましたが、1950年代には解禁され、糸川は早速その分野に取り組みます。
とくに有名なのは、1955年に開発した、長さ23センチ、直径1.8センチのペンシルロケットです。
当時は、戦後それほど時間がたっていなかったので、ロケット開発の材料が揃いませんでした。
研究チームの人は、それでがっかりしていたのですが、糸川は、「小さなロケットなら作れる」と言いました。
「小さなロケットでたくさん実験しておけば、大きなロケットを作る時失敗しなくて済む」
「でも、実験するお金がありませんが」
「上に飛ばすとコストがかかるから、横に飛ばせばいいじゃないか」
ペンシルロケットの技術は非常に革新的で、日本の技術力を世界に示すものとなりました。
その後、ペンシルロケットの成功を受けて、さらに大型のロケット開発に取り組み、カッパロケットやラムダロケットを完成させます。
1963年には、ラムダロケットが日本初の人工衛星「おおすみ」の打ち上げに成功。
これは、糸川の技術と指導によるものとして、日本の宇宙開発史において非常に意義深い成功となりました。
糸川の功績は単に技術の枠に収まらず、今日の日本の宇宙産業や科学技術の発展にも大きな影響を与え続けています。
彼の仕事は「糸川システム」として知られ、学術的・工業的にも後世のロケット開発に多大な影響を与えました。
糸川英夫の生き様は、未知の分野に果敢に挑戦する探求心と革新の精神に満ちたものでした。戦後の日本が科学技術の分野で再び世界と競争することを可能にし、今も宇宙開発の礎としてその名を刻んでいます。
「主語と述語の間」を柔軟に考える
先日、国分寺駅の駅ビルにある市役所の出張所でマンホールカード貰いました。ペンシルロケットです。糸川英夫と縁があるらしい。#マンホールカード #ペンシルロケット pic.twitter.com/P3iVZNwIKy
— シッタカ (@makibi37) June 14, 2024
本書によると、糸川のアイデアは、「ものや、お金が、ないからできない」ということを、「ものや、お金が、なくてもできる」と、発想をかえたところから生まれたと指摘しています。
よく自己啓発書などで、ポジティブなな言葉を使え、なんていいますね。
あながち、意味のないスローガンではなかったわけです。
ただ、意識的に、そうはたらきかけるというよりは、どんなことでも述語の部分は、「できない」ではなくて「できる」あるのみなのだ、と最初から概念として不動のものと考えたほうがいいでしょう。
そのためには、主語と述語の間を調整しなければならない、ということになります。
凡夫は、その部分を硬直して決めつけているから、どうしても「できる」という述語に結びつけられない。
・ロケットは・お金をかけると・できる(凡夫の常識)
・ロケットは・お金がないから・できない(凡夫の融通の効かない結論)
・ロケットは・お金がなくてもコストを下げることで・できる(糸川の考え方)
では、糸川がどうして、その「主語と述語の間」を柔軟に考えることができたのか。
糸川は、科学と技術だけでなく、芸術や宗教や人間心理学にも強い関心を抱いていました。
彼は音楽や美術にも造詣が深く、全体的な人間性の探求を重要視していたことでも知られています。
この多様な関心が、彼の研究や設計思想に新しい視点を加え、ユニークで多彩なアプローチが可能だったとも言われているのです。
つまり、社会と切れ、他分野とのつながりにも目をやれない「専門バカ」ではだめなのです。
私は、そもそも「バカ」になれる専門性がないので、それ以前なのですが、みなさんは、ご自身の得意分野・専門分野以外のことにも視野を広げられていますか。