『脱しきたりのススメ』(島田裕巳著、毎日新聞社)は、結婚式や葬式などの起源や諸外国との比較、読者の幸福への啓蒙などを綴っています。
すなわち、「しきたり」は人間関係が複雑に絡むものなので、それを知ることで、人間関係の難問を解決できる能力を身につけ、「しきたり」に振り回されずに自身の幸福につなげようという意味のようです。
しきたりとはなんだ
私たちの生活は、法律で定められているわけでもないし、学校で習ったわけでもないのに、社会生活をする上で必要な手続きや慣行がいくつもあります。
それが「しきたり」といわれるものです。
著者の島田裕巳さんは、本書でしきたりについて取り上げた理由をこう述べています。
なぜそのしきたりに従わなければならないのか、個々の行事や慣習を見ていくと、はっきりとした根拠がないことが多い。(中略)唯一根拠になるのが、「これは昔からのならわしだ」という説明である。昔からこうしているのだから、「今もこうしろ」というわけだ。
そんな根拠のないものに巻き込まれなくてもいいのだけれど、しきたりというのは人間関係が絡んでくる厄介なものだから、しきたりを経験することで、自分の人間関係の難問を解決できる能力が身につく、ということです。
では、「しきたり」は具体的にどんなものをさすのでしょうか。
『脱しきたりのススメ』では、「結婚式」「お中元」「祝儀袋・不祝儀袋」「遺言書」「年金制度」「不動産」「離婚」「葬式」などについて書かれています。
けだし、いくら包んだらいいかとか、どういう席順にしたらいいかとか、何を食べさせたらいいとか、「人間関係が複雑に絡む」細かい話が、「しきたり」にはいろいろあります。
たとえば、人がなくなったとき、宗派によっては「ご冥福をお祈りします」といってはいけなかったり、亡くなった人につける名前が、宗派によって「戒名」「法号」「法名」など違ったりします。
もちろん、各宗派にはそれぞれそう呼ぶ根拠はあるわけですが、私たちからすると、同じものなのにどうして拝み方や供養の仕方が違うのか、という話になるわけです。
サンミュージックの相澤秀禎会長の葬式に、松田聖子が参列した時は、そのふるまいが叩かれましたね。
メンバーの家族の葬儀に参列した辻希美が、ミニスカートをはき、リボンをつけてきたことでも批判されました。
でも、別にそれは法に触れているわけではないんですよね。
遺骨の引き取り方の違い
私が本書を読んで興味深かったのは、遺骨の引き取り方が、東日本と西日本では違うという話です。
東日本では「全骨収骨」で、遺骨をすべて遺族が引き取りますが、西日本では「部分収骨」といって、全部は引き取らず、頭蓋骨や喉仏など、主な骨だけを骨壷に入れ、あとの骨は産業廃棄物になっている可能性があるといいうのです。
産業廃棄物ですって。
私は西日本に親類がいないので、このことは初めて知りました。
西日本の方、これは本当なのでしょうか。
しきたりそのものではなくても影響を与えていること
本書には、「遺言書」「年金制度」「不動産」など、
それはしきたりなのか?
と思うテーマもあります。
それについては著者も、
はたして年金制度というものがしきたりに入るものなのか、疑問に感じられる向きもあるかもしれないが、その制度がしきたりに影響を与えているのは確かだ。
と述べています。
どういうことでしょうか。
年金制度
では、年金制度によって影響をうけるしきたりとは何か。
それは、先祖崇拝であるとしています。
年金制度の導入とともに、高齢者の経済的基盤ができ、祖先崇拝のしきたりによって守られる必要がなくなった、というのがその理由です。
家制度の崩壊とともに、年寄りや先祖を敬い「家」を継承するという考えが廃れてきたため、年金制度が必要になったとも考えられるわけで、逆にしきたりこそが年金制度に影響を与えているという見方も、ここはできるのではないでしょうか。
つまり、戦前は「家」を代々相続するものとし、ひとつの戸籍に兄弟やその妻子まで入っていました。
しかし、戦後は家制度から家族制度に変わり、子は結婚すると別戸籍となります。
つまり、親子でも別世帯というわけです。
となると、誰が老親を扶養するのか。
老親の生活源として、年金があるという話です。
結婚式
「結婚式」については、「お試し期間」を設けてから結婚式をあげたほうがよい、としています。
これは、とりたてて「脱しきたり」と言えるほどのものではないでしょう。
正式に婚姻する前に、婚家に花嫁が一定期間住み込み、相性を確認してから(というよりも、労働力として使い物になるか、子どもを産む能力はあるか、といった「品定め」に近かったようですが)あらためて祝言をあげる「足入れ婚」は昔からありました。
それに、最近はジミ婚や婚姻届だけという夫婦も珍しくありません。
結婚式をしきたりと思っている人がどれだけいるのだろうかと言う点でも疑問です。
それに、男性としてはともかく、女性からすれば、その「脱しきたり」は抵抗があると思いますがね。
葬式を行う意味
「葬式」については、やはりその人の価値観や生き方によって様々だと思います。
最近では、人をたくさん呼ぶ葬儀を望まない、行わないケースが増えてきました。
一世を風靡した有名人でも、亡くなったらごくうちわの密葬で済ませ、初七日も終えてから発表することがあります。
しかし、著者は、「人の死は故人だけのものでも、家族だけのものでもない」と述べています。
故人から、葬式はいらないと言われその通りにすると、生前つきあいのあった人から「線香だけでもあげさせてほしい」だの、「墓参りをしたいから場所を教えてくれ」だのと言われ、その対応に遺族が大変な思いをすることがあるというのです。
だから、葬式は人を呼んできちっとすべきだと。
ああ、そういえばそうだなって思います。
著者によれば、人間には自分の知っている人が亡くなったという知らせを受けたときに、その死を自分の目で確かめたいという思いがあるそうです。
死を確認したいがために、喪家や墓を訪ねずにはいられないのだというわけです。
きちんと最後のお別れをしておきたいという気持ちもあるのでしょう。
その場合、遺族は弔問客が訪れるたびに故人のことを思い出さねばならず、それが負担になることもあるとしています。
もちろん、これは生前おつきあいの多い人の遺族の場合の話で、すべての人が当てはまるわけではありません。
私は、叔父の葬儀にも行かなかったし、そもそも叔父家では家族葬で済ませていましたし、それをわざわざ「線香あげさせろ」と乗り込む気持ちはありません。
人それぞれ、事情も心境も様々なのです。
まとめ
ただ、いずれにしても、漫然としきたりとして葬式を行うのではなく、残された人のために葬式というかたちで主体的にお別れの場を設けるなら、それはしきたりにとらわれないという意味で、「脱しきたり」と言えるのではないだろうかと思いました。
みなさんは、いかが思われますか。
以上、『脱しきたりのススメ』(島田裕巳著、毎日新聞社)は、結婚式や葬式などの起源や諸外国との比較、読者の幸福への啓蒙などを綴る、でした。