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『自己愛的(ナル)な人たち』(岡野憲一郎著、創元社)「自分はイケてる、それを認めない周囲や社会が悪い」承認欲求が肥大化

『自己愛的(ナル)な人たち』(岡野憲一郎著、創元社)「自分はイケてる、それを認めない周囲や社会が悪い」承認欲求が肥大化

『自己愛的(ナル)な人たち』(岡野憲一郎著、創元社)をご紹介します。あなたは自分を「イケてる」「本当はもっと社会的に認められるべきだ」なんて思っていませんか。承認欲求もたいがいにしないと、たんなる自己陶酔にとどまらずに周りは振り回されます。

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自己愛について明らかにしよう

よくアンケートの質問に、「あなたの好きなタイプと嫌いなタイプ」という質問があります。

私は少なくとも、「嫌いなタイプ」だけははっきり言えます。

それは、自己愛の強い人

本書で問題にしている、自己愛的(ナル)な人たちが、まさにそうです。

もっとも、自己愛という言葉は、もしかしたら誤解を生んでいるかも知れません。

「自分を好きになって、自分を大事にすることの何が悪いんだ」と。

自己愛というのは、自分に誇りを持つ、自分を大切にする、ということとは似て非なるものです。

著者が、臨床心理士としての経験から自己愛について述べています。

自己愛とはなんだ

自己愛性パーソナリティ障害という言葉をご存知ですか。

本書で言う「自己愛(ナル)」というのは、まさにそれを指します。

一言で述べますと、「自分は優れていて素晴らしく特別で偉大な存在でなければならない」と思い込むことです。

それの何が悪いかって?

要するに、一見自分を愛しているようでいて、実は「ありのままの自分を愛することができ」(Wikiより)ないことが悪いのです。

自分自身を、現実(真実)と向き合わせることから逃げているのです。

それだけではありません。

自分を「大事」にするあまり、都合が悪くなったり辻褄が合わなくなったりしたら、他者に嘘をついたり、裏切ったり、自分の不遇をもっぱら社会や周囲の人のせいにしたりするのです。

それはもう、思考停止です。反理性です。反社会です。

「プライドが高い」と「自己愛が強い」の違い

すなわち、自己愛とは、自分の価値観を絶対的な物差しにしてふるまい、社会(規範など)との整合性や、他者との相対化を放棄している人です。

では、「プライドが高い人」「見栄っ張りな人」などとはどう違うのでしょうか。

本書には書いていませんが、私は自己愛とはやはり少し違うような気がします。

「プライドが高い人」「見栄っ張りな人」は、社会の規範や価値観、文化を前提にして自分の価値をより高く見てもらおうとします。

一方、自己愛の強い人は、社会の価値観からは逃げて、「自分の価値観を絶対的な物差しにして」いる人です。

たとえば、自分が貧乏だったらどうか。

プライドが高い人は、貧乏を隠します。

自己愛の強い人は、たとえ屁理屈でも貧乏の美学を主張し、自分の貧乏を正当化するために政治批判もします。

多少の反省はあっても、自分は主たる部分で絶対に悪くないのです。

ただ、この両者は、はっきりどちらかに分かれるわけではなく、どちらの要素も併せ持った、そのどちらかの出方が強いことで、結果的にいずれかになるものです。

つまり、厳密には違うが無関係ではない、ということです。

いずれにしても、「自己愛」というのは、結局、自分の価値を下げることになる、自分自身への独りよがりな陶酔や自己防御ということです。

そして、そのひずみは社会や他者が被ることになるのです。

関わったものは、自己愛に振り回されてしまう、ということです。

自己愛には2つのタイプがある

イギリスの精神科医・ロゼンフェルドは、自己愛性パーソナリティ障害(自己愛性人格障害)について、厚皮(thick skinned)と薄皮(thin skinned)という2タイプの分類をしています。

本書でも、自己愛はそれを踏襲した説明がなされています。

厚皮型の自己愛

厚皮型の自己愛者は、言葉通りツラの皮が厚い、厚顔無恥、という意味で、わかりやすい自己愛者だそうです。

ですから、このような特徴があります。

  1. 他の人々の反応に気づかない
  2. 傲慢で攻撃的
  3. 自分に夢中である
  4. 注目の的である必要がある
  5. 「送話器」はあるが「受話器」がない
  6. 見かけ上は、他の人々によって傷つけられたと感じることに鈍感である
  7.  

ありがちですね。

これだけはっきりと図々しいタイプですと、さすがに「いやあ、自分はこんなんじゃないよ」と、ほとんどの方は思われるでしょう。

しかし、気をつけたいのは一見わかりにくい、次の「薄皮型」なのです。

薄皮型の自己愛

薄皮型の自己愛者について、著者は「隠れナルな人たち」と呼んでいます。

厚皮型の自己愛者とは違い、人嫌いな人たち、孤独の好きな人たち、自己主張に積極的ではない人たちといいます。

ただし、それは自己を相対化しているからではありません。

  1. 批判や拒絶に対する恐れのために、職業、学校活動を避けている。
  2. 好かれているという確信がないと新しい人間関係が作れない。
  3. 親密な関係でも遠慮がちであり、親密となるには批判なしで受け入れられていると確信したり、繰り返し世話をされるということを必要とする。
  4. 批判などに過敏であること。
  5. 不適切という感覚や低い自尊心があるため、新しい対人関係では控えめである。
  6. 自分が劣っていると感じている。
  7. 新しいことに取り掛かりにくい。
  8. (以上の基準の4つ以上を満たす必要がある)。

用心深そうな薄皮型の自己愛者ですが、「恥」をかくことを非常に恐れている点に、自己を相対化できない恨みを指摘できます。

本書によると、自分が他者に比べて劣っていたり、弱い存在だったりすることを自覚することに伴う、強烈な苦痛が耐えられないというのです。

ただ、これは学問的に典型的な、いわば極端な分類であり、実際には「厚皮」「薄皮」は表裏一体で、時として混在している。

著者は、小沢一郎氏を例に上げてそう述べています。

小沢一郎氏はともかくとして、そういう人は身近にいると私も思います。

たとえば、自分が創造主で王である自分のブログでは、どれほどの大人物なんだ、と思えるほど勇ましいキャッチコピーや社会評論記事の並んだ「厚皮」のくせに、リアルでは友達もいない「薄皮」で、社会人としてもさしたる功績も残していないとか。

今は、SNSやブログという、リアルで不本意な人でも、自己満足できる代償行為のようなツールがあります。

それらのツールがそのつもりで作られたのでなかったとしても、ネットは薄皮型自己愛者の温床にならざるを得ない面はあると思います。

その意味でも、ネット依存は危険です。

もっとも最終的には、リアルな人対人が物を言います。

自己実現は、ネットの世界だけでは決して完結できません。

アスペルガー的な自己愛者たち

ただし、ひとつ賛成できない、というより徹底批判したい件もあります。

著者は、「アスペルガー障害ないしはASDを持った人たちも、時々すごくナルシストに見えてしまうことがある」と述べています。

ASDというのは、ADHDの「多動」がないタイプです。

要するにこの著者は、発達障害者の一部も自己愛的(ナル)と見ているのです。

「書かずもがな」であり、差別や偏見助長の蛇足だと思います。

自閉症スペクトラム障害やASDは、他人の立場に立つ思考や、空気を読むことが苦手なのですから、現象的には「自己愛」のように見えるでしょう。

そんなことは当たり前です。

ただし、それは脳の障碍から、意図的にやらないのではなくそれができない(苦手)とはじめから分かっていることです。

薄皮だろうが厚皮だろうが、自分さえ良ければいいと思っているようなくだらない人格と、障碍でやむを得ずそうなっていることを一緒くたにする。

それが暴言であることが気付かないことこそ、ナルな人とはいわないのでしょうか。不思議です。

その他、本書では婚活詐欺殺人の木嶋佳苗(恋愛詐欺のナルシシスト)、クリントン元米大統領、金正恩朝鮮労働党委員長、三島由紀夫らの自己愛を探り、医師、美人、母親など、いろいろな立場の自己愛も考察しています。

著者は、「自己愛はみんなが持っている。自己表現の欲求は自然なものであり、むしろそれがないほうが心配だろう」と述べています。

だからこそ、どこからが度を超えた「独りよがりな陶酔」かを、見極めておく必要があるのだと思います。

以上、『自己愛的(ナル)な人たち』(岡野憲一郎著、創元社)「自分はイケてる、それを認めない周囲や社会が悪い」承認欲求が肥大化、でした。


自己愛的(ナル)な人たち – 岡野 憲一郎

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