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蜜柑(原作/芥川龍之介、漫画/だらく)は、主人公が列車の中の僅かな時間でその心境が変化した様を描いた短編小説の漫画化

蜜柑(原作/芥川龍之介、漫画/だらく)は、主人公が列車の中の僅かな時間でその心境が変化した様を描いた短編小説の漫画化

蜜柑(原作/芥川龍之介、漫画/だらく)は、主人公が列車の中の僅かな時間でその心境が変化した様を描いた短編小説の漫画化です。人生は、ちょっとしたタイミングで気持ちが変わることを実感した、芥川龍之介本人の体験がそのまま物語になっています。

『蜜柑』というタイトルは、「みかん」と読みます。

芥川龍之介の48頁の短編小説を、だらくさんがKindle用に漫画化したものです。

だらくさんは、青空文庫(著作権フリーになった作品のアーカイブサイト)入りした名作を、『漫画で読む文学』シリーズとしてKindle用に漫画化しています。

これまでにも、太宰治原作『走れメロス』、宮沢賢治原作『葉桜と魔笛』『注文の多い料理店』などをご紹介しました。

いずれも短編ですが、今回も文庫本48頁の短編です。


本書は2023年9月8日現在、KindleUnlimitedの読み放題リストに含まれています。

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「凡そ五つ六つ」のみかんが心境を変えた

本作の主な登場人物は2名。

どちらも名前は不明です。

そこで、主人公はそのまま「主人公」と表記します。

ま、芥川龍之介は実話だと告白しているわけですが、作品としては作中名不明ということで。

主人公は、横須賀駅から横須賀線の二等列車に乗りました。

その時点で、その車両には誰も乗っていません。

主人公は、「ぼんやり発車の笛を待つてゐた」のですが、何か憂鬱、というかつまらなそうです。

そこに、二等室の戸ががらりと開いて、十三四の小娘が一人、慌あわただしく中へはいつて来ました。

その直後に列車が動き出したので、発車直前に飛び乗ったのでしょう。

彼女が握りしめていた切符は三等車用。

ネットで調べたところ、1等は「グリーン車」、2等は「普通車」、3等は「貨車並み」と出てきました。

一等車は最も高い運賃を払って乗ることができる車両で、座席は革張りやクロスシートなどで快適でした。二等車は一等車よりも安い運賃で乗ることができる車両で、座席は布張りやロングシートなどで普通でした。三等車は最も安い運賃で乗ることができる車両で、座席は木製やベンチシートなどで簡素でした。(Bing との会話より)

ま、とにかく、本来乗ってはいけない車両に彼女が乗り込んできたわけです。

主人公は、そのルール違反で機嫌が悪くなります。

「二等と三等との区別さへも弁(わきま)へない愚鈍な心が腹立たしかつた」

主人公は、イライラを鎮めるためタバコに火をつけ、夕刊を開きました。

講和問題、新婦新郎、涜職事件、死亡広告……なんと平凡な出来事ばかりなのだろう。

このトンネルの中の汽車と、この田舎者の小娘と、そしてこの平凡な記事に埋つてゐる夕刊と、これが象徴でなくて何であらう。

不可解な、下等な、退屈な人生の象徴でなくて何であろう、と主人公は心のなかで嘆きます。

そして。一切がくだらなくなつて、うつらうつらし始めました。

それから幾分か過ぎた後、またトンネルに入るというのに、小娘がガタガタと窓を開けています。

「おいおい、またトンネルに入るのに何するんだ」と思う主人公。

案の定、トンネルに入って、汽車の煙が車内に入り込みました。

視界は悪くなり、主人公はむせ返ります。

「ちょっとあんた」と、主人公の苦情が喉まででかかったところで、汽車はトンネルを抜け、窓の外が明るくなり、車中の煙も抜けていきます。

そして、汽車は踏切を通りかかっており、そこには頬の赤い三人の男の子が、「目白押しに並んで」立っていました。

すると小娘は、彼らに向かって、蜜柑を「凡そ五つ六つ」放り投げ、汽車を見送つた子供たちの上へばらばらと降つて来ました。

暮色を帯びた町はずれの踏切りと、小鳥のように声を挙げた三人の子供たちと、そうしてその上に 乱落 ( らんら )する鮮( あざやか )な蜜柑の色……。

「恐らくはこれから奉公先へ赴むかうとしてゐる小娘は、その懐に蔵してゐた幾顆(いくくわ)の蜜柑を窓から投げて、わざわざ踏切りまで見送りに来た弟たちの労に報いたのである。」

主人公はその光景によって、言いようのない疲労や倦怠や、不可解で下等で退屈な人生をやっと忘れて心が明るくなりました。

汽車における主人公の心は「因縁」を表現

実話だそうですが、悩み深い割には女性関係のお盛んだった芥川先生が、気持ちを爽やかにしてくれたお礼として、この小娘を食事に誘ったかどうかは定かではありません(笑)

物語解釈としては、主人公が「象徴」という言葉を使っていたように、前半は心の中の不愉快さを表現しているわけです。

小娘が、三等の切符で二等に乗る理不尽さや、毎度代わり映えしない新聞の見出しと記事にイライラしているところに、言い得ぬ不快感や憂鬱さが感じ取れます。

それが、最高潮になったのが、トンネルに入って黒煙。

ただでさえ、トンネル内で光を失われた上、黒煙でわずかな車内灯も意味をなさなくなり、おまけに呼吸もできない。

しかし、永遠のトンネルはありません。

やがて車内は明るくなり、煙は消え、人生の視界が再び開けたような心境に。

そこにミカン投げのシーンを見て、心がいよいよ晴れ晴れする。

しかし、この「晴れ晴れ」は、もともと不可解な心境で、かつ小娘に不信感を抱いていたことが伏線にあったわけです。

つまり、「闇」や「不快」があるから、「明」や「爽快」がある、

明に転じたのは、暗があるからということが物語のモチーフになっているのです。

短編ですが、実はここにも仏教が感じられますね。

たぶん、テーマは「縁起」ではないかと思います。

「縁起」とは、いい換えれば「関係」ということです。

仏教の基本思想を一口で云えば、ものは「縁起」によって成立している、ということです。

「因果」というと、原因があって結果があり、今度はその結果が原因となって次の結果を生み、…という具合に、関係を直線的に考えていますが、「縁起」はそのように一方向に進む「因果」が、さらに「網」をなしています。

要するに、物事は背景も結果も周囲との関係も、すべて原因と結果の関係で縦横無尽に繋がっている、ということです。

それぞれが、バラバラに存在しているのではない、ということです。

その関係が、始めも終わりもなく無限に織りなしている。

始めがないから、「最初」を作った創造主(神様)はいない、というロジックになっているんですけどね。

西郷輝彦さんの『俺たちの明日』という歌にも、夜があるから必ず朝がある、というような意味の歌詞がありますが、まさに「因縁」を歌っています。


本作『蜜柑』も、そうした「因縁」をモチーフとして、「希望を持って生きよう」というメッセージが込められているのではないかと思いました。

以上、蜜柑(原作/芥川龍之介、漫画/だらく)は、主人公が列車の中の僅かな時間でその心境が変化した様を描いた短編小説の漫画化、でした。


漫画で読む文学『蜜柑』 – 芥川龍之介, だらく

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