豊田佐吉などの功績をまとめた【保存版】日本近代史最重要偉人100人(水野大樹著、SMABOOK)は、歴史に名を残す人々100名の生きざまと功績を、全314頁にまとめています。今回は漫画ではありませんが、大きな字でわかりやすくまとめられています。(本文中敬称略)
本書は、「明治維新、大正、昭和初期……、現代日本に不可欠だった歴史人物データファイル」というサブタイトルがついています。
政治、軍事、学問・思想、文学・芸能、財界の各分野からピックアップされています。
今回は、その中で、豊田佐吉(とよだ さきち、1867年3月19日(慶応3年2月14日) – 1930年(昭和5年)10月30日)をご紹介します。
日本の発明家・実業家。トヨタグループの創始者です。
日本の産業と技術革新の礎を築き、「日本の発明王」とも称される彼の人生には、数々の功績が詰まっています。
豊田式木鉄混製力織機(豊田式汽力織機)、無停止杼換式自動織機(G型自動織機)をはじめとして、生涯で発明特許84件、外国特許13件、実用新案35件を発明しました。
事業家としては、豊田紡織(現 トヨタ紡織)、豊田紡織廠、豊田自動織機製作所(現 豊田自動織機)を創業しました。
豊田佐吉は、日本の産業発展に大きく貢献した実業家であり、トヨタ自動車の創業者として知られています。彼の生涯と業績は、日本の近代化を象徴するものであり、今日に至るまで多くの経営者や技術者に影響を与え続けています。
発明の成功がトヨタ自動車へ
トヨタ産業技術記念館
トヨタそのものは豊田佐吉が紡績機を作ったところから始まるのは日本史で知っていたが、まさかの全部現存 しかも撮影OK !
紡績機は古いものから新しいものまで半分くらいが実際に動いてくれるぞ!細かい機械自体は分からなかったが、進化は素人でも分かるぞ!感動! pic.twitter.com/yl1AYwWPYS
— けいてい (@keity0617) March 26, 2024
豊田佐吉は慶応3年2月14日(1867年3月19日)、遠江国敷知郡山口村(現在の静岡県湖西市山口)に生まれました。
山口村は三河吉田藩領であり、豊田家は伊吉が百姓のかたわら大工で生計を立てていました。
佐吉は、1878年(明治11年)12月には吉津村川尻小学校を卒業し、父のもとで大工の修業を始めましたが、幼い頃から機械いじりが好きで、18歳のころ「教育も金もない自分は、発明で社会に役立とう」と決心。父親の職業である織物業を手伝いながら、様々な機械を自作していました。
決して極貧の家庭というわけではありませんでしたが、あまり教育に熱心な家庭ではなかったようで、独学で機械工学を学び、創意工夫の才能を磨いていきました。
1886年(明治19年)2月からは、山口観音堂で青年らによる「山口夜学会」を主導。山口夜学会は、地元の青年たちが自発的に集まり、互いに学問を深め合う場として設立されたそうです。
佐吉は新聞や本を読み漁り、手近な手機織機の改良を始めました。
1890年代には、初の木製手動織機である「豊田式木製人力織機」を完成させ、これが評判となりました。この織機は当時の繊維産業を大きく変え、豊田の名前が広まるきっかけとなりました。
この革新的な織機は、従来の織機と比べて生産効率が飛躍的に向上し、当時の繊維産業に大きな影響を与えました。
日露戦争後の好景気で売れましたが、佐吉には実業家としての才覚がありませんでした。
1906年に豊田式織機を設立し、常務取締役になりますが、世界恐慌で業績悪化すると会社と対立し、4年後には追放されてしまいます。
佐吉は渡米して、ニューヨークで自動車を見て、「これは日本でも普及する」と確信しましたが、40代半ばにさしかかっていたことから、その夢は長男の喜一郎に託したといいます。
このへんは、年齢というより、自分の適性を考え、事業化は長男に託したのではないでしょうか。
帰国後、1942年に、機械を止めずに横糸を補給できるG形自動織機の開発に成功。効率性と安全性が飛躍的に向上しました。この織機の開発は画期的で、海外からも高く評価されました。
その権利をイギリスのプラット・ブラザーズ社に売却し、その資金を元にさらなる事業の発展を目指しました。
この特許売却により得た資金が、後の豊田自動車工業(現:トヨタ自動車)創業の礎となりました。
佐吉は、「人間の手でできることは機械でできる」という信念を持ち、日本の産業を効率化しようと尽力しました。
彼の経営哲学は「現場主義」「自動化(ジドウカ)」など、のちのトヨタグループの基礎的な価値観にも影響を与え、後世のトヨタ生産方式にも見られます。
佐吉の人生は、日本の技術革新と産業化に対する貢献の証であり、彼が遺した思想や発明は現在も日本のものづくりの基盤として引き継がれています。
成功者は勝負する時がある
トヨタ産業技術記念館
豊田佐吉、喜一郎の熱い想いをめちゃ感じられるめちゃ良い場所でした( ???? )
また繊維工程も見れたり、歴代の自動車も見れたりと( ?'?'?)時間が限られてたからサクっと見て回っただけだったので、またゆっくり時間かけて見学したい?\( 'ω' )/ pic.twitter.com/3LGTmL5PkP
— はま (@hmdtksg) August 18, 2024
ただ、やはり本人は生涯、発明という夢を追い続けたようです。
佐吉は青年時代、放浪と出奔を繰り返しました。
といってもあてのない旅ではなく、各地の工場や発明品の見学だったそうです。
つまり、発明家としての情報収集と思索です。
それでも、コツコツ働く周囲の視線は冷ややかだったとか。
「田舎の小百姓と言いながら、田畑の少しはあったものを、ぼつぼつと売り減らして、あてどもない発明に皆つぎこむのだから、とても周囲の人達が良く言うてくれそうな筈がない。」(wikiより)
精神的に弱かったら、そして目先の生活を考えたら、「発明家」としては諦めて農業に戻ったでしょうが、意志が強いのか、鈍感なのか、佐吉は自分の生き方を「現実」に合わせようとはせず、田畑を売り糊口をしのぎながら発明を目指したわけです。
私は思うに、成功者というのは、努力とともに、どこかでイチかバチかの勝負をして、その勝負に勝っているのです。
佐吉が、もし「豊田式木製人力織機」を発明する前に田畑を売りつくしていたら、何も残らなかったのです。
一方、勝負せずに、兼業農家を営んでいたら、無難に食べていくことはできたわけです。
でも佐吉は、人生の「勝負」に挑んで、無一文になる前に発明が間に合った、つまり勝ったのです。
といっても、誰もが努力しても必ずしも成功するわけではない。でも努力しなければ、そもそも勝負にならない。
成功者になるのは、実力(努力)とともに、そこから運を呼び込むことです。
豊田佐吉の人生には、そんなことを感じました。
勝負どころと思ったら、人生賭けて勝負しますか、無難な道を選びますか。