遠藤周作の『人生には何ひとつ無駄なものはない』(朝日文庫)をご紹介します。人生観や哲学が凝縮されたエッセイ集です。人生・愛情・宗教・病気・生命・仕事などについて綴り、それらがどんなに小さくても「無駄なものなどない」と考えるようになった経緯が描かれています。(文中敬称略)
本書『人生には何ひとつ無駄なものはない』は、遠藤周作の作家としての深い人生観や哲学が凝縮されたエッセイ集です。
主に自らの経験や出会い、キリスト教徒としての視点、そして人生の挫折や希望を率直に語っています。
遠藤は、過去の出来事や人との関わりを通じて学んだことを一つひとつ振り返り、それらがどんなに小さくても「無駄なものなどない」と考えるようになった経緯が描かれています。
遠藤は人間の弱さや過ちも肯定的に捉え、どんな経験も人間形成の一部であると述べているのです。
そして、欠点や挫折にも共感を寄せ、「弱さ」を認めて生きる大切さを語ります。
小説をあまり読まない人にも、狐狸庵先生と紹介されたネスカフェのCMで名前が知られました。
エッセイなどの狐狸庵先生やネスカフェの違いの分かる男のイメージが強かった遠藤周作さん。小説はテーマが深く重い感じがして、簡単には手を出せないでいた。沈黙の映画化にあたり、録画していたBSNHKの番組を今、ようやく見た。 この映画は今の時代だからこそ見なくてはいけない気がする…
— mako レオ (@ArhMako) January 19, 2017
SNSを見ていたら、CMを見ていない世代が、korean先生と勘違いしていましたが、コリアンではなくて狐狸庵です。
遠藤周作が過ごした、渋谷の住まいをエッセイで狐狸庵と称したといわれています。
『沈黙』という著作の中でも、中国の古典「西遊記」に登場する狐狸という妖怪が出てきます。
凡夫の弱さやうさんくささを描いた言葉だと思います。
エッセイなので、全体のあらすじは書けませんが、本書を通じて、読者は生きる意味や人生の価値について考えさせられるでしょう。
どんな経験も人間形成の一部である
遠藤は東京生まれですが、父親の仕事の都合で、幼少時代を満洲で過ごしたそうです。
帰国後の12歳の時に、伯母の影響でカトリック夙川教会で洗礼を受けました。
1941年上智大学予科入学、在学中同人雑誌「上智」第1号に評論「形而上的神、宗教的神」を発表しました。
形而上的というのは、物質的な存在ではなく、精神的または超越的な存在という意味です。
上智大を1942年同学中退後、慶應義塾大学文学部仏文科に入学。
慶大卒業後は、1950年にフランスのリヨンへ留学し、帰国後は批評家として活動します。
1955年半ばに発表した小説『白い人』が芥川賞を受賞し、小説家として脚光を浴びました。
キリスト教を主題にした作品を多く執筆し、『海と毒薬』『沈黙』『侍』『深い河』などを発表しました。
ここまでは順調です。
が、1960年代初頭に大病を患い、その療養のため町田市玉川学園に転居してからは、「狐狸庵山人(こりあんさんじん)」の雅号を名乗り、ぐうたらを軸にしたユーモアに富むエッセイも多く手掛けるようになりました。
遠藤いわく、実はそこからが物書きとしての本当の自分であると自覚しているようです。
本書には、そう考えるに至った葛藤や心の移ろいが書かれています。
人間の弱さや過ちも肯定的に捉え、どんな経験も人間形成の一部であると述べています。
そして、「弱さ」を認めて生きる大切さを語ります。
遠藤の言葉には、失敗や迷いがあってもそれを前向きに捉える視点があり、自己を受け入れるヒントが多く含まれています。
さらに、キリスト教徒である遠藤が、信仰とどう向き合い、どう人生に生かしてきたかが随所で語られます。
特に、日本での信仰の難しさや葛藤が繊細に描かれており、信仰とは何かを改めて問い直す機会を提供します。
遠藤がどうして、「人生には何ひとつ無駄なものはない 」と考えたのか。
まず、若い頃から結核などの病に苦しみ、長い入院生活を送るなど、試練を多く経験したことが、作家としての深みや人間理解の一助になったと感じたそうです。
また、キリスト教徒として、どんなに小さな出来事やささやかな出会いも神が与えたものとし、そこに「神の意図」が含まれていると考え、すべて意味があるものとして受け入れたといいます。
さらに、作家として他者との関わりの中で、人間が本来持つ弱さや矛盾を受け入れることが重要だと考え、それが深い人間理解や慈愛につながると信じていました。それが自分の成長の糧になると感じていたため、「無駄なものはない」という信念がさらに強まっていったのです。
「無駄なものはない」とする「不一不異」
遠藤周作、ほまに好きでずっと読んでる pic.twitter.com/YO3jZ6S4T4
— ?? (@Wowoiil) November 2, 2024
キリスト教のことは全くわかりませんが、仏教には、不一不異という概念があります。
辞書的に意味を解くと、異なった性質の事象が差異を残しつつ一体化していることを意味します。
わかりやすく述べると、人は生まれ→成長し→円熟→老化する。
細胞分裂も、心の動きもいっときたりとも停止してはおらず、心身ともにその状態は一瞬だけ。
しかし、同一人物ではあり続けます。それが「不一不異」です。
さらにいえば、なくなると骨になり土に帰り、微生物の餌になり、植物を成長させ、動物の餌になり……と大きな自然のサイクルで「不一不異」が続き、いつかまた人間として誕生することとなる。
これが、仏教で言う「輪廻転生」にあたるものです。
仏教は、肉体が死んでも霊魂はまた新しい肉体で生まれかわり続ける、なんてことは教えていません。
なぜなら、「諸行無常」(永遠に不変のものはない)ですから、霊魂も永遠に生き続けるわけではないと考えるのです。
不一不異という世界観からすると、「無駄なものはない」というのは、全くその通りで、あらゆる経験の影響を受けて、私たちは変化し続けるからです。その変化に、「無駄」なるものは必ず貢献しているのです。
狐狸庵先生の作品は、読まれたことはありますか。