阿Q正伝(原作/魯迅、作画/バラエティ・アートワークス、Teamバンミカス)は、阿Qの生き方を当時の中国人の象徴として批判的に描いた小説です。著者の魯迅自身も中国人ですが、中国社会の病理としての人民の無知と無自覚を痛烈に風刺し、社会変革を目指したのです。
『阿Q正伝』は、いつもご紹介している、まんがで読破シリーズ第29巻(全59巻)です。
魯迅の中編小説です。
辛亥革命の失敗を、阿Qという底辺の人間の自己愛によって、批判的に描いています。
本書は、『阿Q正伝』のほか、同様の趣旨で書かれた『藤野先生』『明日』『髪の話』『狂人日記』などを収録しています。
といっても、ただ併載しているのではなく、魯迅(作中では周くん)が仙台の医学留学生時代だった実話『藤野先生』を最初に掲載し、『髪の話』や『阿Q正伝』などの後に作家としての周くんを登場させ、中国や中国人について嘆くシーンを加えています。
どれも興味深い作品で、併載するのもよくわかります。
本書は、2023年10月16日現在、kindleunlimitedの読み放題リストに含まれています。
封建植民地社会内における奴隷性格の男
おはようございます。9月25日は、中国で最も早く西洋の技法を用いて小説を書いた魯迅の生誕日です。中国の近代文学の元祖であり、彼は国民精神の改造を生涯の課題としていきました。『阿Q正伝』など作品は、東アジアでも愛読され日本では中学校用の国語教科書全てに掲載されています。#50925おは戦🌛p5 pic.twitter.com/5QJJVWaBb2
— 平川綾真智(Hirakawa Ayamachi)|NFT現代詩展『転調するために』開催中 (@197979ahirakawa) September 24, 2023
『藤野先生』では、留学生としていじめられていた周くんのために、藤野先生は周くんのノートについて、臓器のデッサンや日本語の文法などの添削をしてくれ、何かと助けてくれました。
しかし、テストの点数が高いことを、「藤野先生が手心を加えたのではないか」と他の学生に疑われた時、周くんは「差別されるのは中国や中国人が劣っていると思われているからだ」と考えます。
そんな時、授業の合間に見せられたスライドは、日露戦争でロシア軍のスパイを働いた中国人(当時支那人)が日本軍にショ刑されるものでした。
同胞がショ刑されるのは悲しいけれど、それよりショックだったのは、処ケイされる同胞を救おうともせず興味深く覗き見る支那人たちの姿でした。
たとえ、体格が良くても愚かな国民は、せいぜいつまらぬ見せしめの材料と見物人になるだけなのだ。
そう考えた周くんは、医学よりも「彼らの精神を改造すること」の方が重要と考え、医専を中退して帰国し、文筆活動を始めることになります。
そうした書かれたのが『阿Q正伝』です。
阿Qというのは、「名前も定かでない」日雇い農民を表現しています。定職も財産も妻子もなく、髪も薄いけれど自己愛の強い人物として描かれています。
喧嘩で負けようが笑い者にされようが、結果を自分の都合の良いように解釈し、心の中で自分の勝利と思う「精神勝利法」で自己満足している人、またはそういう性格のようです。
「面従腹背、卑屈と傲慢の二面性など、封建植民地社会内における奴隷性格の典型」(Wikiより)という表現がぴったりです。
ある時、弱い者いじめで女性僧侶の頬をつねって、「お前の子供を産んでくれる人なんかいないんだ。寂しい老後め」と罵られて、阿Qも自分の将来を考えます。
というか、仏僧がそんな言い方するなよ(笑)
そこで、日雇いの仕事をしていた趙家の使用人の女性に、唐突に「俺とネよう!」と言ったところ、主人に言いつけられて趙家を追い出され、ほかでも誰も雇ってくれなくなりました。
困窮した阿Qは都会に移ってみたところ、トウ賊の下働きをして、トウ品をくすねてきたことから羽振りがよくなります。
そして、「俺は都会に出て挙人旦那(いわゆる偉い人)の家に仕えていた」と見栄を張ると、手のひらを返したように阿Qに傅く大衆。
しかし、それもまもなくバレて、阿Qはボンクラのままという評価に戻ります。
ところが、国内では「革命党」という組織が、文字通り革命を企てていて、挙人旦那はその勢力を恐れてこの村まで避難しに来たとの噂が出ます。
これは、清王朝を倒して中華民国を樹立した辛亥革命のことですが、阿Qは、権力者や世間が怯えているのが面白くなり、「自分も革命党だ。革命するぞ!」と騒ぎまくります。
しかし、そのことが原因で、阿Qは結局銃サツされます。
物語は、ザン首ではないことに不満を漏らす、低劣な見物人を描きます。
そして、原作にないエピローグとして、本作の筆を置いた周くん(つまり魯迅)登場。
革命が起こり、国が変わっても、国民の精神を改造できなかったことで、いったんは「文学による闘争」に疑問をいだきつつも、道行く親子連れを見て、「今が絶望だからといって、未来における希望が消えてしまったとは言えぬのだ」とし、藤野先生に引き続き闘うことを誓って物語は終わります。
中国人だからこそできる自国民批判
魯迅は本作を通して、中国社会の最大の病理であった、人民の無知と無自覚を痛烈に告発しました。
漢民族が古くから持っていたとされる中華思想とは対象的なので、意外に思われるかもしれませんね。
でも別の見方をすれば、自分たち民族は偉大であってほしいという気持ちがあるからその、手厳しい筆致ではないかと思います。
余談ですが、宮本百合子が、『播州平野』という作品で描いた朝鮮人像について、様々な意見があります。
たとえば、ほかでもない、在日朝鮮人作家の李恢成が、朝鮮人を解放国民として「理想化」していると指摘しています。簡単に言うと、普通の朝鮮人は、作品にあるような民族自決と解放に燃えたすばらしい人ばかりではなく、もっと普通に成り行き任せだったよと。
彼女の、朝鮮人に対する同情や共感は日本人、とくに左翼的立場の視点からのものであり、朝鮮人の立場に立った主体性や多様性を十分理解していない、ということを述べているのです。
つまり何を言いたいのかというと、政治的意図だけで完結するのではなく、正真正銘の中国人だからこその、「主体性や多様性」を理解した自国民批判の面はあるだろうとの評価は持っておきたい、という話です。
もちろん、「多様性」という点から、中国人による反魯迅の意見もあると思いますけどね。
まあその辺の議論については、いずれにしても、ぜひ、1度、本書をご覧ください。
以上、阿Q正伝(原作/魯迅、作画/バラエティ・アートワークス、Teamバンミカス)は、阿Qを当時の中国人の象徴として批判的に描く、でした。