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騙されたがる人たち善人で身勝手なあなたへ(大山眞人著、講談社)は、騙された経験がある者が敢えていう「騙されたほうも悪い!」論

騙されたがる人たち善人で身勝手なあなたへ(大山眞人著、講談社)は、騙された経験がある者が敢えていう「騙されたほうも悪い!」論です。悪徳商法・詐欺事件は、「騙す側と騙す側のいびつな共犯関係」にあると、豊富な事例とともに追いかけています。

騙されたがる人たち善人で身勝手なあなたへ(大山眞人著、講談社)は、騙された経験がある者が敢えていう「騙されたほうも悪い!」論です。悪徳商法・詐欺事件は、「騙す側と騙す側のいびつな共犯関係」にあると、豊富な事例とともに追いかけています。

悪徳商法・詐欺事件は、加害者と被害者のどちらが悪いのか。

それはもう、議論するまでもなく、加害者が悪いに決まっています。

ところが、わが国では、叩かれている方を応援する奇妙なクセがあり、「騙される方も悪いのだ。どっちもどっちだ」という意見が必ず出てきます。

これは、法的、道義的には誤りです。

ただし、本書は、悪いことに決まっている「騙すこと」の良し悪しではなく、つまり、法的・道義的な是非ではなく、騙される側の「なぜ騙されるのか」について、その心理について批判的に考察しています。

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加害者の責任と被害者の責任


『騙されたがる人たち』が取り上げている悪徳商法(詐欺事件)は、振り込め詐欺のほか、恋人商法、当選商法、訪問販売、多重債務、ネットワークビジネス、SF商法(キャッチセールス)、預託商法、結婚サギ、不安煽り商法などです。

これらを一つずつ章立てして、実例紹介と消費者側の問題点を指摘しています。

さらに本書には、振り込め詐欺との電話のやり取りが収録された付録CDもあります。

著者は、たとえ貸金者が悪徳業者であろうが、借りたのは事実であり約束は約束なのだから、契約で決めた金は返すべきだと主張。

返せる見込みがなければ、はじめから借りてはいけないのです。

「金は返さなくてもいい」(民法第708条)という甘やかしが「悪徳債務者」生み、「被害者」は結局同じような事件を繰り返すことになるから、被害者のためにもならず事件もなくならない、としています。

つまり、事件は、悪徳業者と、いざとなったら法律に守ってもらって誤魔化せる「優位」な立場の「被害者」との「共犯」というわけです。

人間は弱くてずるい生き物なので、法で守られると、法に甘えるというわけです。

本書のサブタイトルが絶妙です。

「善人で身勝手なあなたへ」

少し意地悪な表現ですが、“ありふれた世間の人々”を、これほど端的に言い表したものはないと思いました。

よく手形詐欺などで「善意の第三者」という言葉を使いますが、本書でいう「善人」も、「作為・悪意のない人」というようなニュアンスですね。

つまり、この『騙されたがる人たち』は、作為・悪意はなくても、あなたの自分勝手さが騙される原因なのですよ、と述べている書籍です。

著者は、その「協力」してしまう「被害者」の身勝手さをこう述べています。

騙す側ばかりを問題にしていては解決の糸口にたどりつかない。“金に汚い”“いい加減な”“身勝手な”“他人のせいにしたがる”“反省をしない”“思いこみの強い”“無責任な”「善良な消費者」がたくさんいるという事実。
 ほかにも「訪問販売詐欺」「ネガティブオプション(送りつけ商法)」「和牛(預託)オーナー商法」「融資詐欺」「未公開株詐欺」「社員権詐欺」「内職商法」「コンプレックス商法」など、数多くの悪徳商法や詐欺事件が、性懲りもなく生きつづけている。もはや“騙されたがる人たち”の“協力”なくしては何も解決しない。
 そこには共通したキーワードが存在している。“孤独”“孤立”“寂しさ”“不安”“つながり”“仲間意識”“絆(結)”“見栄”“思いこみ”“妬み”“差別”“疑念”“清疑”そして“欲望”‥‥‥。まるで孤立した現代人を象徴するような単語が並ぶ。
 悪徳業者や詐欺師たちは、これらの単語を巧みに操りながら、「善良な消費者」に対し“騙すステージ”を提供していく。彼らはヨコのつながりを保ちながら、軍隊並みに規律を重んじたタテ社会を構築している。そこには強い“仲間意識”がみられる。彼らによって用意されたステージ上で“一対一の勝負”に勝つためには、くどいようだが騙される側にもそれなりの“覚悟”と“修練”が求められる。


本書の主張に対しては、騙す方と騙される方、どっちが悪いかといえば騙される方に決まっている、と反発される方もおられるでしょう。

騙される方を批判することで、「どっちもどっち」のような両成敗になったら、騙す方を免罪してしまう、という見方もわかります。

ただ、本書が言う「騙される側にも責任がある」の「責任」というのは、騙す側の「責任」とは性質が違います。

騙す側の責任とは、法律や道徳といった社会規範上の問題です。

騙される側の責任というのは、法律や道徳ではなく、心の在り方を問うものだと思います。

「被害者にそういう自覚がない限り、詐欺・悪徳商法はなくならない」と著者は結んでいます。

物事というのは、良し悪しにかかわらず、その実像に迫らなければ解決法は見出せません。

コインに裏表があるように、詐欺事件は騙す側(表)だけでなく、騙される側(裏)からも見ていかなければ詐欺事件を防ぐことはできない、とする著者の合理的な判断に私は賛成します。

寸借詐欺はどうしたいのか

著者の考え方は、たとえば離婚の理由、DVとか浮気とかハラスメントとかありますが、そのへんにも当てはまる話であることを示唆しています。

ただし、親子関係だけは別ですよ。

子は親を選べない絶対的な関係ですから、親の暴力・虐待の類は、いかなる言い訳も許されないと思います。

余談ですが、私は昔、寸借詐欺に金をせびられたことがあります。

ボロを着た男が、財布を落としたから金を貸してくれとか言って、くしやくしゃの紙切れに「大下」とか苗字だけ書いて、「僕、こういうものです。きっと返します」とか言って、でも連絡先は書いてない(笑)逆にこっちの連絡先聞いてきたから、テキトーに答えました。

そのときは、1000円ぐらい渡しちゃったと思うんですが、「大下」の言うことを真に受けたわけではなく、出掛けなのにしつこかったので、面倒だったという感じですね。

まあ、こっちがどんな思いだろうが、金さえ貰えれば向こうは「成功」ということなんでしょうけど、詐欺というよりコジ◯ですからね。

僧侶だって托鉢はしますけど、それは意味があってやってることで、「大下」はそんなセコイ詐欺で1000円ぐらいもらってどうしたいのかな、嬉しいのかなあと思います。

みなさんは、詐欺や悪徳商法やカルト教団の被害体験はありますか。


騙されたがる人たち 善人で身勝手なあなたへ – 大山眞人

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