高野聖萬画版(原作/泉鏡花、漫画/トーエ・シンメ)は、高野山の老僧が語った、若き日に遭遇した妖女の妖艶さを描いた怪奇譚の漫画化。泉鏡花の代表作を原作として忠実な描写が行われており、男(僧侶)の煩悩、女の情炎など「あやかしの世界」が視覚化されています。
『高野聖萬画版』は、幻想小説の名手、泉鏡花の代表作を、トーエ・シンメさんが漫画化しています。
トーエ・シンメさんの作品は、以前、『落語の萬画版おちまん』という、有名な古典落語を、噺のイメージをさらに膨らませて漫画化したKindle版をご紹介しました。
今回は、「私」が旅の途中で出会った高野山の老僧が、「私」に語ったという設定で、修行中の若き日に遭遇した不思議な怪奇譚を描いています。
「私」は、主人公のようでいて、狂言回しのような役回りです。
本作は、回顧の3層構造になっているいささか長い物語なので、可能な限り、私の判断で要約させていただきます。
本作は、kindleunlimitedの読み放題リストに含まれています。
色香で男をとりこにする魔神
「私」は、東海道線でご一緒した僧侶と知己を得、僧侶と同じ宿に泊まることになりました。
枕が変わると寝付けなくなる「私」に、僧侶はある話をしてくれました。
それは、僧侶が若い頃、飛騨の山越えを行った時の話です。
蛇やヒルなどに苦しみながら山路を抜け、孤家(ひとつや)にたどり着きます。
縁側では、足が悪く、呼びかけても反応しないー聴覚障害ではなく知的障害らしいー太った男が座ってあうあう、と言うだけ。
そこに出てきたのが、妖艶な女性。
道に迷い、泊めてほしいと僧が願うと、「よござんす」と快諾。
「この家は、夫婦二人暮らしで、部屋も空いています」
えっ「あうあう」と、この美女が夫婦?
「できれば、濡れ手ぬぐいを貸していただけないでしょうか。足を拭きたいのですが」
「今、ちょうど近くの川に米を洗いに行くところでしたので、よければあなたも一緒にそこに行って、汗をお流しになりませんか」
家を出て、川に向かおうとすると、女性と知り合いらしい熊蔵という老人が出てきて、「お坊様、くれぐれも気をつけてな」と意味深なことを言います。
川に行き、僧が袖をまくって体を擦っていると、女性は僧に、背中を流すからと裸になれといい、自分まで汗を流すと言って全裸になります。
まずいことをなったと、前を押さえる僧。
しかし、そのときは、コウモリやサルが出てきて彼女にまとわりつき、事には至りませんでした。
そして夜、僧侶は川で見た女性の裸体を思い出して悶々としていると、女性は障子をすっと開けて布団に潜り込んでくるではありませんか。
触れ合う肌。
もう僧侶は、準備OKの体です。
ところが、そのとき、屋敷の外では、数えきれないほどの動物たちが騒ぎ出しました。
僧は陀羅尼(悪魔よけの真言密教の呪術)を呪しました。
すると、すーっと静かなりました。
翌朝、家を出た僧ですが、女性が忘れられず、途中まで歩いた後、引き返そうとします。
すると、そこにまた熊蔵が現れ、「せっかく命拾いしたのに、ここで煩悩に負けてはつまらぬぞ」と諌めます。
「命拾い?」
熊蔵は、女性の身の上を語りだしました。
女性は、その村を降ったところにあった村の診療所の娘でした。
ある時から、娘が患者の身体に触ると、病気の痛みを和らげ、怪我の傷を治すことがわかりました。
熊蔵は、その診療所の奉公人でした。
ある日、知的障害の男の子が怪我をして運ばれてきましたが、親はその子を置き去りにしてしまいました。
山の上の村の子とわかったので、女性と熊蔵は傷を治してから子供をその家まで連れて行ったものの、子の両親は、「働き手にならない子は足手まといだ」と言って引き取りません。
そのうち、嵐が酷くなり、子の両親は非難したのですが、女性と熊蔵は家に残ると、その家以外の村の家々はすべて流され、その下にあった女性の実家がある村も全滅しました。
「たしかに、あの人は神通力をお持ちじゃ。あるいは本当に神の子かもしれん。じゃがな。神は神でも、魔神の方よ」
熊蔵が言うには、嵐もその女性の力で起こしたのではないか。子の両親に対する怒りが起こしたのではないか、といいます。
以来、女性は色香で男をとりこにしますが、女性がその男に飽きると、男は気がついたらケモノにされてしまうそうです。
僧が女性と床を共にしかけたところ、騒ぎ出した幾体ものケモノは、もとは人間であり、もし僧がここで引き返せば、そのケモノになってしまうだろうと熊蔵は言うのです。
熊蔵に言わせれば、むしろ、僧が助かったのは「不思議なくらい」であり、その運と生命は大切にして、「きっと修行をさっしゃりませ!」と、送り出しました。
陀羅尼(悪魔よけの真言密教の呪術)は、ケモノたちと言うより、むしろ彼女に対して奏功した、ということなんでしょうね。
本作と泉鏡花
今回の事実上の主役である登場人物は、僧侶です。
で、数々の男たちはそうではなかったのに、僧侶だけは、決して妖女の色香に飲み込まれなかったという話です。
つまり、著者は僧侶という存在をすごく大切にしているのです。
他の泉鏡花作品でも、『夜叉ヶ池』という作品には僧侶が登場するし、以前ご紹介した『外科室』では、主人公の2人の行末を仏法に照らして予想していました。
どうも、私が見る限り、仏教に対して、畏敬の念を感じるのです。
Wikiによると、泉鏡花は終生、摩耶信仰を保持したといいます。
麻耶というのは、釈迦牟尼、すなわちお釈迦様の母親です。
出産7日後に亡くなったといわれていますが、泉鏡花も幼くして母親を失っているので、信仰というより、似てるから他人のような気がしない、そこに自分の人生を見る「生まれ変わり」を感じたのかな、という気がします。
もうひとつ、泉鏡花は潔癖症とも言われています。
『外科室』では、決してモラルに反した男女の結びつきは描かず、だからこそ幻想的なストーリーとなりました。
また、本作も、魔性の女を描いているのですが、肝心の僧侶とは肉体関係がありません。
裸を見せられて、それは準備OKの「いい形」になっているのに、事には及んでいないシーンが2度も出てくるのです。
いろいろな男と体を交わしている「不浄な」女の人と、そういう経験がない「きれいな体」の僧侶を関係させてはいけない、という潔癖な考えがそこにはあり、どうしても描けなかったのではないか、なんて想像もしてしまいます。
泉鏡花の人生からは、芥川龍之介や太宰治のように、のべつ幕なしの女性遍歴という艶話は聞かないですからね。
その方々のような、学歴や家柄などの女性を振り向かせる額面がなく、モテ期がなかったためということもあると思います。
唯一、師匠の尾崎紅葉に反対されても、「別れろ切れろは芸者の時に言う言葉よ、私には死ねと言ってちょうだい」と、芸者との愛を貫いた話は、自伝小説『婦系図(おんなけいず)』に書かれています。
モテ期がない、妙に潔癖……
私は、そんな泉鏡花に大いに親近感を抱くものです。生まれ変わりとは思いませんが(笑)
泉鏡花の作品はお好きですか?
以上、高野聖萬画版(原作/泉鏡花、漫画/トーエ・シンメ)は、高野山の老僧が語った、若き日に遭遇した妖女の妖艶さを描いた怪奇譚、でした。