『43回の殺意川崎中1男子生徒殺害事件の深層』は、神奈川県川崎市の多摩川河川敷で、13歳の少年が43箇所を切られ殺害された事件を振り返っています。被害者とともに逮捕された17歳と18歳の未成年3人の家庭環境にも取材を進めてアプローチしています。
川崎中1男子生徒殺害事件とはなんだ
川崎市中1男子生徒殺害事件があったのは2015年2月20日。
神奈川県川崎市川崎区港町側の多摩川河川敷で、13歳の中学1年生の少年が殺害された上に遺体を遺棄されました。
逮捕されたのは事件から1週間後。17歳~18歳の少年3名による犯罪でした。
例によって、ネットは事件のセンセーショナルな部分に興奮。
犯人探しや、確定もしていないのに素顔晒しなどに熱中しました。
さらに、逮捕(2月27日)の1週間後に発売された『週刊新潮』(2015年3月12日号)では、リーダー格とされる犯行当時18歳の少年Aの実名と顔写真が掲載されました。
つまり、事件の詳細も明らかにならないうちに、まずは犯人晒しありきだったわけですが、これは、日頃から「マスゴミ」などと唾棄している連中の民度に合わせた報道にほかならず、ゴシップマスコミは大衆の下世話な好奇心と合わせ鏡、ということを今更ながら再認識するものです。
取り調べによって、主犯のAは殺人罪、BとCが傷害致死罪で起訴されました
3人は地元の顔見知りで、17歳の少年がAと同じ中学出身の同級生。別の17歳の少年が1学年下で別の中学校を卒業しました。
カッターの刃が折れても、なお少年を切り付け負わせた傷は全身43カ所に及ぶことがわかりました。
被害者少年は、主犯少年Aに万引きを強要されて、Aらの不良グループで活動。
言いつけを断るとAからの暴力を受けるようになり、「グループを抜けたいが、怖くて抜けられない」(LINE)と告白していたといいます。
この事件は、あまりにも凄惨な少年犯罪だったため、諸方面に多大な影響を与えました。
不良たちによる凶悪犯罪であることに違いはありませんが、本書『43回の殺意川崎中1男子生徒殺害事件の深層』は、関係者の取材を行うことで、「不良」の背景にあるものにアプローチしています。
本書が明らかにしたこと
まず、少年たちは加害少年も被害少年も、不幸な「ほしのもと」であることが明らかにされています。
たとえば、毒親(暴力、ネグレクト=放任、一方で威圧)であったり、シングルマザーの再婚があったり、異なる血統(在日韓国・朝鮮人、ハーフ)だったりといった境遇に生きています。
そして、少なくとも本書で明らかにされている親たちは、体罰を正当化したり、派手好きだったり浪費家だったりといったくだりもあります。
要するに、親のせいで居所もなく群れ続けた少年たちだったということです。
したがって登場する少年たちは、学校だけでなく、家庭にも居場所のない者たちばかり。
たとえば、被害少年は、実父と離婚した母親が恋人と同棲を始めたことで自宅に帰るに帰れず、加害少年たちから酷い目にあっても、彼らと疑似家族のように群れ続けるしかなかったと書かれています。
さらに救いがないのは、それでいて、少年たちが同じ境遇だから確固たる連帯感がある「親友」かといったらそういうわけではなく、一緒にゲームをする、賽銭泥棒をする「連れ」でしかないというのです。
親が親だと、他人に心を許すことができない、ということかもしれません。
子が幸せになるか不幸になるかは、どんな親のもとに生まれたか、ということが重要な因子であると私は改めて思います。
不良の社会は「強弱」のヒエラルキーがあり、主犯の少年Aは実は別の不良にいじめられる側で、家に帰っても父親の鉄拳制裁や長時間の正座など、「しつけ」と称する体罰を受けていました。
その反動で、自分が勝てそうな年少者の被害少年などには、ことさら威圧的な態度を取ったと思われます。
鉄拳制裁肯定派のあなたは、どう思いますか。
もちろん、鉄拳制裁が即不良化、ということではありませんが、暴力で勝つことが人を支配できること、という考え方を子に刷り込む可能性があることは肝に銘じていただきたいですね。
さらに、不良の彼らは義務教育期間中から飲酒や喫煙を当然のように行い、中でも飲酒は理性的自我を壊し、羽目を外す振る舞いにつながっていたといいます。
すでに述べたように、マスコミや一部大衆は、「犯人捜し」に目の色を変えていましたが、一方で犯行現場の河川敷には、1万人近くの善意の献花が行われました。
そのほとんどは、被害少年とは一面識もない人のはずです。
こちらも、メディアで興奮した面はあるかもしれませんが、本書は、「冥福を祈りながらも、自らの内面を省みていた」と記しています。
被害少年の背景にはあまりにも不幸が詰まりすぎ、似たような「ほしのもと」や悩みを持つ人達が、他人事とは思えず、献花に駆けつけずにはいられなかったというわけです。
つまり、本書は、「凶悪性に目を奪われがちだが、事件の背景にある空洞化した家族の現状を直視すること」(Amazonの「メディア掲載レビュー」より)を、著者は突きつけているというのです。
たしかに、本書はおおむねそのレビューにふさわしい、関係者への取材によって、状況が明らかにされています。
ただ1人をのぞいては。
本書の疑問点
ひとつ気になったのは、3人の加害少年のうち、犯人の少年Cの家庭生活だけは詳細がなく、「ADHDの傾向」が背景として書かれています。
本書によると、加害少年Cは、新事実もないくせに最高裁まで時間を稼ぎ、もちろん謝罪や後悔の気持ちなど全く見せなかったといいます。
法定で精神鑑定の結果が読み上げられた際、 性格については、
- ADHD(注意欠如多動性障害)の傾向
- 両親が養育に理解がなく、改善しようとしなかった
- 中学時代は腫れ物に触るような扱いを受けた
などの分析がなされたと本書には記されています。
「ADHDの傾向」については、著者にしろ、裁判官にしろ、そう考える根拠はあったのでしょう。
ただ、本書の眼目は、「空洞化した家族の現状を直視」するものだったはず。
だったら、なぜ、「両親が養育に理解がなく、改善しようとしなかった」ことに追及を徹底しなかったのでしょうか。
著者は、その後の少年Cに対する記述で、ADHDの「衝動性」だの、「反社会性人格障害(サイコパスのこと)を二次障害で抱える例」があるだのと、とにかくADHDの側からアプローチしたくて仕方がない本音を隠していません。
いや、ADHDの説明は著者から聞かなくたって、その道の専門家から聞くから、著者は違うアプローチしてよ、という思いが読んでいて生じました。
「個人的には、犯罪者に発達障害や精神疾患のレッテルを貼り付けて、事件を捉えることには否定的だ」とエクスキューズを述べながらも、結局は「ADHDが直接の要因とは言えなくても、何がしかの病理に理由を求めなければ自分を納得させることができなくなった」と感情的な本音を述べています。
このへんの書き方は、ちょっと著者はずるいな。
言い訳をするぐらいなら、はじめから書かなくてもいいと思います。
たしかに、サイコパスの3/4はADHDを合併しているといわれますが、サイコパスはADHDよりはるかに少なく、統計的にもADHDの人のほとんどはサイコパスではありません。
にもかかわらず、ADHD「の傾向」があるというだけで、サイコパスだからという「仮説」を述べるのは合理的なロジックとは言えません。
ひとつ例を出すと、私は片親で育った時期がありますが、物がなくなると、世間は「あそこの家はお父さんがいないから」と片親の子弟がやったことにするのが常でした。
たしかに、貧しかったりグレたりして、そうした行為に走る人もいました。
しかし、その論理をひっくり返して、そうした行為に走る人⇒片親、と決めつけることは間違いとわかるでしょう?
著者のロジックは、これと同じレベルではないんでしょうか。
差別というのは、そういう非合理ロジックから始まります。
というわけで、残念なところもありますが、被害少年と主犯少年の背景についてはよく書かれていると思いますし、称賛も批判もまずは論より証拠で読んでから生じることですから、ご関心のある方、AmazonUnlimited(定額読み放題)のリストに入っているうちに読まれることをお勧めします。
以上、『43回の殺意川崎中1男子生徒殺害事件の深層』は神奈川県川崎市の多摩川河川敷で13歳の少年が殺害された事件を振り返る、でした。