坂本九さんなど1960年代の懐かしいスターを特集しているのは、『週刊現代別冊週刊現代プレミアム2021Vol.2ビジュアル版昭和の怪物』です。右肩上がりの高度経済成長時代の昭和を駆け抜けたスターたちの興奮が活字で蘇ります。
昨日、フランキー堺さんについて描いたのは、『週刊現代別冊 週刊現代プレミアム 2021Vol.2 ビジュアル版 昭和の怪物 1960年代の懐かしいスターたち』です。
タイトル通り、右肩上がりで日本が元気だった昭和の高度経済成長時代に当たる、1960年代の芸能界を代表する人物を、貴重な写真と秘話で綴るテーマで、物故した14人についてまとめたムックです。
今日はその第2弾として、坂本九さんについてご紹介します。
坂本九さんの歌には、人はどんな境遇でも楽しく生きようという『哀歌』のメッセージがあり、それが裏声まじりの歌唱法で見事に表現されている、という記事です。
人はどんな境遇にあっても楽しく生きていくべきだ
坂本九といえば、『上を向いて歩こう』で世界的なヒットを記録した歌手です。
坂本九こと大島九(おおしまひさし)さんは、神奈川県川崎市の出身。
現在の川崎市川崎区にある花街で、9人兄弟の末っ子として生まれました。
川崎市立川崎小学校を卒業後、日大横浜学園(現日本大学高等学校・中学校、日大日吉)に進みます。
阪神タイガース球団歌である、通称『六甲おろし』を作詞した佐藤惣之助さんが、小学校の先輩にあたります。
偉大な卒業生を輩出したのは、旧東海道散策で遭遇した神奈川県川崎市立川崎小学校。
同校の解説板から、坂本九の歩んだ道を確認していきます。
「本名はひさしさん」と川崎市立川崎小学校の解説板には書かれていますが、苗字は書かれていません。
芸能名鑑など一般に言われている本名の「大島九」は、両親が離婚後、母親の戸籍に入ったために名乗った姓であり、もともと坂本九は、本名も「坂本九」でした。
永六輔さんが、坂本九さんを追悼する書籍『六・八・九の九 坂本九物語』(中央公論社)において、坂本九の両親が離婚し、母親・いくが坂本九ら子どもたちにそれを告げるところを書いています。
ある日、いくは子供達を集めて話をする。
「お父さんとは別れるけど、お正月は一緒だからね。
お前達のお父さんはあの人しかいないんだから、いつまでも、お父さんを大切にしなきゃいけないよ。いいね。親孝行しておくれ」
いくの演説に子供達は納得する。
子供達も、その派手な夫婦喧嘩を見ながら育って来たからだろう。
だから離婚とはいうものの、憎みあって別れたのではなかった。
坂本家と大島家は通りひとつ置いて、顔をあわせて暮すのである。
「お父さん」は「お向うのおじさん」になり、以後、正月は一緒に雑煮を祝っている。
坂本九という名前は、この時点で大島九になり、九人の子供は坂本姓六人、大島姓三人と別れることになった。
しかし、九は、本名「大島九」であっても最後まで「坂本九」を通して、父親に尽した。
要するに、坂本九さんは、決して幸福な「ほしのもと」に生まれたわけではない、ということです。
さらに、本記事では、坂本九さんの笑顔の源泉についても触れています。
「やはり、育った花街の影響があると思います。幸せとは言えない身の上の女性も多いあの街で生活し、人はどんな境遇にあっても楽しく生きていくべきだ、と考えるようになったのでしょう。九ちゃんスマイルは人を元気づけ、喜んでもらうためのものだと思うのです」(『上を向いて歩こう 奇跡の歌をめぐるノンフィクション』の著者である佐藤剛さん)
「不幸は見飽きた」ということなのかもしれませんね。
ドリフターズからパラダイス・キングへ
坂本九さんは日大日吉在学中に、義兄のツテで、ウエスタンバンドのサンズ・オブ・ドリフターズ(井上ひろしとドリフターズ)のボーヤ(付き人)になり、芸能界に関わるようになります。
そう、井上ひろしとドリフターズというのは、のちにいかりや長介がリーダーとなって一時代を築いたあのドリフです。
いかりや長介さんは、三代目のリーダーです。
ドリフターズには1956年に正式加入。
ジャズ喫茶や進駐軍のキャンプまわりで、月給はすべて母親に渡していたとか。
中学以来の持ちネタである“エルヴィス・プレスリーの物まね”の評判がよく、日劇のウエスタンカーニバルにお呼びがかかります。
日劇ウエスタンカーニバルというのは、この当時で言うと、ジャズ喫茶のスターたちを一同にあげてファンとともに熱狂する伝説のイベントです。
渡辺晋(渡辺プロ社長)の妻、渡辺美佐(旧姓・曲直瀬美佐)のプロデュース。
出演者は、平尾昌章(現平尾昌晃、以下昌晃)とオールスターズ・ワゴン、ミッキー・カーチスとクレイジーウエスト、山下敬二郎とウエスタンキャラバン、寺本圭一とスイング・ウエスト、かまやつひろし、井上ひろし、水原弘の「3人ひろし」などが揃ったそうです(ビリー諸川『昭和浪漫ロカビリー』平凡社より)
そして演奏者がスゴイ!
ドリフターズの初代リーダー・現第一プロ社長の岸部清、ホリプロ創業者の堀威夫、サン・ミュージックの創業者である相澤秀禎、田辺エージェンシーの田辺昭知……。
坂本九さんは大舞台をチャンスと捉えて、『リトル・リチャード』『センド・ミイ・サンラビィング』などを歌い、渡辺美佐さんの実妹の曲直瀬信子(まなせのぶこ)さんは、ドリフターズからの引き抜きを考えます。
坂本九さんは、ドリフターズではメインボーカルになることが出来ないという理由により、ダニー飯田とパラダイス・キングに移籍の形で脱退しました。
ダニー飯田とパラダイス・キングというグループで、ボーカルを担当していた水原弘がソロ歌手になるため、その後釜にしたかったのです。
本書には、その写真も掲載されています。
ドリフターズのリーダーである岸部清は、もちろん気色ばみました。
「だって、美佐さんに言われて手伝ったわけですから、その妹に自分のタレントが抜かれるということはない。/でも、信子の、九に対する評価は私より高かったし、井上ひろしもいたしで、じゃ行ってこいと送り出したんです」(『六・八・九の九 坂本九物語』で岸部清)
岸部清は、坂本九を歌手としてはあまり評価していなかったようです。坂本九がボーヤになった当初は、こう思っていたそうです。
「どうしても歌いたいっていうんですけど、なんたってあのニキビでしょう。/無理だって言ったんですよ」(『六・八・九の九 坂本九物語』で岸部清)
それに対して、曲直瀬信子は、なぜ、どうやって坂本九を引き抜いたのか。
「必ずスターになれます。スターにしてみせます。/九のように、どこにでもいる人がスターになれる時代になっています。/これからはテレビの時代です。/九はテレビでスターになれる子です」(『六・八・九の九 坂本九物語』で書かれた曲直瀬信子が坂本九一家を説得した時の内容)
『星空の旅人』(坂本照明、文星出版)という実兄の書籍によると、ダイレクトな「移籍」ではなく、いったん学業に戻ってから芸能界に「復帰」という段取りを踏んだそうです。
かくして、マナセ・プロに所属する、ダニー飯田とパラダイス・キングの一員としての坂本九が誕生します。
テレビ時代を想定した慧眼
人との出会いとやりたいことを遠慮しないひたむきさ
この経緯で興味深いのは、曲直瀬信子さんが坂本九さんを引き抜いた理由です。
平尾昌晃さん、山下敬二郎さん、ミッキー・カーチスさんらよりも歌手として優れているから、ということではなく、テレビという未知の媒体で活躍できる可能性があるから、という理由です。
しかも、歌がうまいからとか、二枚目だからといった理由ではなく、「どこにでもいる人がスターになれる時代」だから、というもの。
同じ頃、競合ジャンルで活躍していた平尾昌晃さんは翌年に日活映画に、小坂一也さんは松竹映画に出演。
同社と専属契約して俳優になります。
バンドマンにとっては、ジャズ喫茶が当時の大切な仕事場だったわけですが、次のステージとしての花形舞台は、当時はテレビではなく映画だったわけです。
当時、銀幕のスターという言葉がありました。
映画で客を呼ぶ人材を求めているのに、「どこにでもいる人」というスカウティングではあり得なかったでしょう。
そんな中で、未知のテレビに着目し、またそのテレビにはどんな人材が求められるかまでを読んで、そのような“逆張り”の理由で引き抜いた曲直瀬信子さんの慧眼が何と言っても興味深い。
「ジャズの次はロカビリー」と山下敬二郎さんのステージを見て直感し、姉の美佐に進言したのも曲直瀬信子さんといいます。(ビリー諸川『昭和浪漫ロカビリー』平凡社)
いずれにしても、曲直瀬信子さんがいなかったら、後の国民的歌手・坂本九さんは誕生していなかったといっていいでしょう。
人生はいかに出会いが大切か、そして、最初から無理だと諦めずやりたいことがあったらチャレンジすることが大切だと思いました。
もし、坂本九さんが「僕みたいなニキビは、どうせスターになれないや」と思っていたら、曲直瀬信子さんに目をかけられる機会もなかったかもしれません。
人生は偶然と必然によって構成されています。
偶然自体はどうすることもできませんが、必然の部分を頑張れば偶然の機会をつかむことができる……かもしれません。
実は九ちゃんスマイルに疲れていた
ただし、坂本九さんの歌手としての全盛は1960年代であり、70年代は司会業にシフトします。
本記事には、九重佑三子さんのコメントが掲載されています。
「坂本さんはもともと声帯が弱く、歌唱力に自信を持てなかったようです。60年代後半にGSブームが起こったり、歌のうまい歌手が出てきたりすると、『これから僕はどうしたらいいんだろう』と漏らすようになりました。」
記事は、「もうひとつ、彼の心にわだかまっていたこと」も言及しています。
九重佑三子さんも、こう語っています。
「坂本さんは、人に楽しんでもらおうと必死になっているように見えました。取材をよく受けたのも、よき夫、模範的な父親であることを見てもらい、みんなに喜んでもらおうと思ったのでしょう。そんな坂本さんの素顔は、私にはどこか哀しそうに見えました」
「九ちゃんスマイルをふりまきながら、心のなかではそのことに疲れていたのだ」と記事は論考します。
そして、再度歌手としてチャレンジしようと永六輔氏や中村八大氏に申し出た5日後、あの日航機事故にあってしまいます。
その日は、札幌で9年間つとめていた、障碍者を対象とする福祉番組の司会の仕事をしていました。
当時の報道では、九ちゃんスマイルは抜きで、障碍者と真剣に向き合って、リハビリのサポートをしていた様子を見ることができました。
『哀歌』を見事に表現
『週刊現代別冊 週刊現代プレミアム 2021Vol.2 ビジュアル版 昭和の怪物 1960年代の懐かしいスターたち』は、タイトル通り昭和の高度経済成長時代に当たる1960年代の芸能界を代表する人物を、貴重な写真と秘話で綴るテーマで、物故した14人についてまとめたムックです。
14人をご紹介します。
- 坂本九
- 田中邦衛
- 八千草薫
- 三波伸介
- 島倉千代子
- 大鵬
- 円谷幸吉
- 稲尾和久
- 金田正一
- 森光子
- 坂上二郎
- フランキー堺
- 田宮二郎
- 石原裕次郎
つまり、坂本九さんがトップで取り上げられていたのです。
ご紹介した記事の締めは、坂本九さんがヨットに乗っている写真とともに、
僕は思うのです。
坂本九は楽しみを、幸せを
売る男になりたい
とキャプションが書かれています。
坂本九さんの歌は、アメリカで大ヒットしたことで知られていますが、記事では前出の佐藤剛さんがこう答えています。
「メロディがすばらしいのはもちろん、歌詞が『エレジー』、つまり『哀歌』になっていて、それが裏声まじりの歌唱法で九さんが見事に表現したからだと思います。」
そういえば、『見上げてごらん夜の星を』は、定時制高校生たちのさまざまな青春像がテーマでした。
なんか、胸熱になりますね。
ぜひ、みなさんもご覧いただければと思います。
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以上、坂本九さんなど1960年代の懐かしいスターを特集しているのは、『週刊現代別冊週刊現代プレミアム2021Vol.2ビジュアル版昭和の怪物』、でした。
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