夫が倒れた! 献身プレイが始まった(野田敦子著、主婦の友社)は、遷延性意識障害になった夫を巡る思いや家族の対応を綴っています。自宅に引き取るか施設にお願いするか。夫はもう着ることもないであろう背広は処分してもいいものか、など赤裸々に書かれています。
『夫が倒れた! 献身プレイが始まった』は、野田敦子さんが主婦の友社から上梓している書籍です。
脳内出血で倒れた夫が、遷延性意識障害の診断を受けました。
その夫への対応とともに、転院、部屋のリフォーム、娘の独り立ちなどを経験しながら、著者自身の葛藤を赤裸々に綴っています。
遷延性意識障害とはどういうものか、そして、自分や家族がそうなる可能性は誰にでもあるということを肝に銘じさせてくれる書籍です。
本書は2022年8月15日現在、AmazonUnlimitedの読み放題リストに含まれています。
突然、遷延性意識障害となった夫
2018年9月1日。夫59歳、著者56歳。
学生時代から、ともに歩んできた夫がある日突然、脳内出血で倒れました。
搬送時は、出血量が多く、脳ヘルニアを生じており、呼吸停止・心停止に至る可能性があり、手術をしても後遺症が必発であると。
現に5ヶ月後には遷延性意識障害の診断を受けてしまった。
遷延性意識障害については、すでにご紹介しました。
以下の6項目が3か月以上続いた場合を「遷延性意識障害」といいます。
自立移動ができない
自立摂食ができない
し尿失禁がある
声を出しても意味のある発語ができない
簡単な命令にはかろうじて応じることはできるが、意思疎通はほとんどできない
眼球は動いていても認識することはできない
妻である著者は、これまでのことを振り返り、急性期の病院から別の病院へ転院しなければならなかったりと、いろいろな経験や、その時時の思いを綴っています。
私も家族の「遷延性意識障害」診断経験者です
こういう内容の書籍を読むと、いつものことですが、私は自分のことを思い出してしまいます。
11年前に経験した火災です。
私の留守中に、妻と2人の息子が、煙による一酸化炭素中毒と気道熱傷にヤられました。
しかも、私の長男も、いったんは遷延性意識障害の診断を受けているので、よくわかります。
ただ、細かい点は少し違うかな。
たとえば、著者は医師に「(胃ろうなら)自宅へ帰れる」といわれたことに不満を述べていますが、私は事情と意見が少し違います。
というより、私の場合はもっとひどいドクハラのような言い方をされました。
「治療しても治らないから、自宅で家族とともに暮らしたほうがせめて心穏やかに暮らせるだろう」という感じですね。
でも、これもドクハラかどうか。
医師としては、冷徹に予後から選択肢を提示しただけでしょうしね。
著者は、夫を施設に預けたいから、家に帰れることをいいことのように言われるのは辛かったとのことですが、私はそもそも自宅に連れて帰れるのは好都合と思っていました。
自宅なら、入院ではできないリハビリー音楽療法とかーなどいろいろなことができると思ったからです。
ネットで、「遷延性意識障害からの回復例」を見て、担当の先生方に片っ端から連絡を取っていたのです。
もちろん、いろいろいなことをしたからといって、本人が回復する保証はまったくないんですよ。
でも、何か根拠のない楽観主義のようなものが当時ありました。
たぶんそれは、「回復しなかったら今後どうするか」ではなく、「どうやったら回復するか」の方にウエイトを置いた思考と活動だったからだと思います。
本書にはそれがないですね。
著者は私より1歳若い方ですが、私なんかよりも人生経験豊富で頭もいいのでしょう。
でも逆に、それで分別ができているのかもしれませんね。
医師はこう言ったけど、でも「回復例」にはこういうものあるよ、
私は医師に絶望的なことを言われても、すぐにそういう身の程知らずの反論が頭に浮かびました。
結果論かもしれませんが、そういう「望みを捨てない」……というのとも違うか、最初から回復しないことを考えない無責任さって、自分のためにもリハビリを前にした配偶者のためにも必要だったのではないでしょうか。
もう一点、著者より私のほうが悲惨だった点。
配偶者が倒れて、著者は救急車に乗り込んでいますが、私はそれができませんでした。
それどころか、その日のうちに病院に駆けつけることすらできませんでした。
もとい、そもそもどこの病院に収容されたかすらも、私は知らされませんでした。
ひとつは、火災によって意識不明の重体に陥ったのが、妻(心肺停止)と息子2人(JCS300⇒無反応深昏睡)の3人であり、すべて別々の病院に収容されたこと。
もうひとつは、ネット民や近所の野次馬の無責任なデマゴギーのため、警察に止められてしまい、身動きが取れなくなったことなどの理由によります。
それにしても、収容された病院すらわからないでは話になりません。
まずは警察で私に話を聞いた刑事さんに、次男の収容された病院に連れて行ってもらい、警察まで帰ってきたら、火災現場に来ていた警官がいたので、妻と長男の病院を聞き出し、やっと3人全員の収容先がわかった次第です。
しかし、そのときはもう夜中。
私自身、疲れ切っていて車を運転する気力もありませんでした。
が、まあ運転だけならタクシーでも良かったのですが、実家に戻って(今にして思えば)認知機能が怪しくなりつつあった母親にも事情を話さなければならなかったので、いったん実家に戻ることを決め、明けてから一番電車ででも行こうと、すぐに駆けつけることを諦めていました。
いったん実家に帰ると、母の妹一家が車で訪ねてきてくれたので、妻の収容先に連れて行ってもらったのですが、その日はそのまま一睡もせず夕方まで火災現場の検証に立ち会ったため、火災翌日の夜まで長男の収容先に駆けつけることはできませんでした。
3人もヤられてしまうと、火災という事件性を疑える事態だと、そして、ネット民や近所の人々がふざけると、そんな混乱が起こるのです。
ま、全員一命はとりとめましたけどね。
でもその時のショックは、比較しても仕方ないけど、本書の著者に勝るとも劣らないものだったと思いますよ。
宗教(仏教)は救いにならず自分で悟った
まあ、これだけのおおごとですから、いろいろ考えました。
ずいぶん自分を責めもしました。
それだけ精神的に行き詰まると、普段信仰もないくせに、宗教に救いを求めたくなるんですね。
そこで、祖父母の墓のある菩提寺(浄土真宗)の会報を呼んでいたら、不幸・不運は他責してはいけない。自分が「因」を作った、と書かれていて、ふざけんなよ、と思いました。
火災なんて、その家系5代ぐらいに1度の大事故、そして私以外の3人がいっぺんに意識不明の重体になるなんて、確率的には1億2000万人の日本でも100人もいないと思います。
そんな「自業自得」の因なんて、よほど人並み外れた悪業を証明できなければ説明がつかないでしょう。
で、説明がつかないと、仏教は「三世」に逃げるのです。
つまり、過去世のツケだと。
そこでまた、ふざけんなよ、という話になるわけです。
まあ、仏教は、仏陀の教えですが、仏陀が仏陀であること自体、人間が認定しているだけです。
私は、人は間違いうるものと思っていますから、どんなに質のいい思想家だろうが科学者だろうが仏陀だろうが、それで完全ということはないだろうと思っています。
完全ではない人が完全と認定することなんて、あてにならないですよ。
信仰のある方は、ハラワタが煮えくり返っているでしょうが、あくまでも個人の気持ちですよ。
ですから私は、宗教(仏教)には救いを求められないと思い、自分自身で答えを出しました。
それはどんなことか。
今後、自分の人生が幸福のV字回復できたら自分のおかげ
不幸なままだったら先祖のせい。2度と法事もヤらない
そう考えたら、気持ちが凄く楽になりました。
そう考えなかったら、浄土真宗がいうところの「因」の責任を自分を求めて、自殺してたかも。
それとも、先祖を悪者にしたら、いけませんか、罰当たり?
いやいや、仏教に罰という概念はありません。
浄土真宗によると、そもそも墓や法事は、亡くなった人が積極的に求めるものではないそうですし、それで私の気が済むのなら、たちの悪い先祖でなければ、つまり子孫の幸せを思ってくれる先祖なら、自分が悪役になることも潔く受け入れるのではないでしょうかね。
ということで、本書は、遷延性意識障害のご家族をお持ちの方には、とくにおすすめします。
以上、夫が倒れた! 献身プレイが始まった(野田敦子著、主婦の友社)は、遷延性意識障害になった夫を巡る思いや家族の対応を綴る、でした。
コメント