封印作品の謎 テレビアニメ・特撮編(安藤健二著、太田出版)は、タイトル通り封印された特撮番組やアニメ番組の真相を探る書籍

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封印作品の謎 テレビアニメ・特撮編(安藤健二著、太田出版)は、タイトル通り封印された特撮番組やアニメ番組の真相を探る書籍

封印作品の謎 テレビアニメ・特撮編(安藤健二著、太田出版)は、タイトル通り封印された特撮番組やアニメ番組の真相を探る書籍です。事実経過をまとめるだけでなく、関係者への独自取材を行い裏付けや新事実発掘を意欲的に行っています。

『封印作品の謎 テレビアニメ・特撮編』は、安藤健二さんが太田出版から上梓しています。

この記事は、そのKindle版をご紹介します。

本書は2022年10月12日現在、AmazonUnlimitedの読み放題リストに含まれています。

つまり、同サービス加入者は追加料金無しで本書をダウンロードできます。

本書は、タイトル通り封印された特撮番組やアニメ番組の真相を探る書籍です。

というと、類似のカルト書を何冊も連想されるかもしれませんが、本書がそれらと違うのは、事実経過をまとめるだけでなく、関係者への独自取材を行い裏付けや新事実発掘を意欲的に行っている点です。

したがって、類似書のように2~4ページでひとつの番組を紹介する、という駆け足ではなく、1つの章(番組)にかなりの紙数を割いています。

したがって、本書もターゲットとしている番組は5つです。

マニアにとっては、通り一遍の知識ではなく、納得の行く経緯をストンと胸に落とすことができるでしょう。

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既知の事実に加えて独自取材で真相に肉薄

本書『封印作品の謎 テレビアニメ・特撮編』は5タイトルを取り上げていると書きましたが、以下がそれです。

  • ウルトラセブン 12話
  • 怪奇大作戦 24話
  • ノストラダムスの大予言
  • サンダーマスク
  • 日テレ版 ドラえもん

すでに、ネットでは散々語り尽くされている番組かもしれません。

さすれば、話題性からニーズは高まっているはずなのに、相変わらず封印されている作品群。

著者の安藤健二さんは、すでに公然としている事実経過を明らかにしながら、それらをつないだり、また裏を取ったりすべく関係者に取材。

封印されている理由を明らかにしています。

ただし、初出ではなく、『封印作品の謎』(大和書房)『封印作品の闇』(大和書房)『封印作品の憂鬱』(洋泉社)などからエピソードを厳選した決定版が文庫化されたものです。

本書の『はじめに』から要約します。

現在、「禁断の作品」と言われるものの多くは、製作者による自主規制が原因です。

作品の内容に関して抗議を受けたり、作品の権利をめぐってトラブルが発生したりするなど、様々な理由から姿を消しました。

著者は、発表後に何らかの理由から幻になり、再び世に出すことができなくなっている作品を「封印作品」と呼んでいます。

本書で取り上げている『ウルトラセブン』第12二話、『怪奇大作戦』第24話、『サンダーマスク』『ノストラダムスの大予言』日本テレビ版『ドラ封印作品の謎 テレビアニメ・特撮編』の5作品は、再放送はおろか、DVDやブルーレイ ディスクにも収録されない状態が続いています。

著者は、「封印作品」がクローズアップされる理由を、

  • コンテンツビジネスの拡大
  • インターネットの普及だ

と、2点挙げています。

こんにち、地上波の再放送にものらない古い番組でも、衛星放送で流れたり、ビデオカセットやDVDなどの映像メディアに収録されたりするなど、コンテンツのリサイクルが進みました。

それは、「なのにどうして、あの番組は観られないのだろう」という不満というかニーズが発生する素地になっています。

さらに、ネットネットオークションやYouTubeなどの動画サイトでは、放映当時の録画や、フィルムの流出映像などが出回っており、断片的に見ることが可能です。

さらには、ネットによって共通の趣味を語るコミュニティが活発化したこともあります。

ただし、現在も作品そのものが正式には放送や商品化されていないという状況は変わっていません。

それだけに、封印作品をめぐる真相には興味がつきません。

この記事では、その中から、『ドラえもん』について簡単にご紹介します。

日本テレビ版『ドラえもん』が封印された真相は……


『日テレ版 ドラえもん』とは、1973年(昭和48年)4月1日~9月30日まで(全52話/全26回)、日本テレビ系列にて日曜夜7時から放送されたアニメ番組です。

当時の番組オープニングでは、日本テレビ動画制作とクレジットされています。

要するに、現在長寿人気番組、というか国民的番組になったテレビ朝日の『ドラえもん』の前に、日本テレビで放送していたということです。

私は、世代的に日本テレビも観ていたのですが、藤子不二雄原作のアニメ番組としては、正直あまり出来がいい印象ではなかったので、それが半年で終わったのは、やっぱりな、という気がしていました。

ですから、テレビ朝日で始まったときも、「日本テレビで1度失敗したものを、なんでまた性懲りもなく」と思いましたが、それが国民的番組になってしまったんですからね。

結論から述べますと、原作者の藤子・F・不二雄さんは、日本テレビ版は原作とかけ離れているから、再放送を望まなかったことがやはり大きな原因のようです。

うーん。

でも、いち視聴者として、日本テレビ版だけがかけ離れているとも思えなかったです。

原作はもともと毒のある話であるのを、テレ朝アニメは、いまやジャイアンまでいい人になっていますよね。

出典を失念したので、正しくは引用できませんが、藤子・F・不二雄さん自身は、それに戸惑いも感じられていたと思うのです。

アニメや映画を見ると、ママが厳しいのに、のび太はもっぱら自分の責任で怠惰なのですが、原作では、少なくとも当初は、のび太は一人っ子で過保護という設定です。

また、原作では、ジャイアンやスネ夫が、もっとえげつなく単純に悪役なのですが、映画では敵ではなく同志然として描かれており、彼らの成人後の将来も親しくしている「青春物語」になっています。

だからこそ、国民的人気番組になったわけですけどね。

では、何が藤子・F・不二雄さんの逆鱗に触れたのか。

本書によると、のび太の描き方に問題があったようです。

日テレ版に脚本家として加わり、第20話 「ねがい星ながれ星の巻」などを担当した、鈴木良武さんのコメントを引用します。

原作も今のアニメもそうですが、のび太がいつも『ドラえもん、ドラえもん』と言っ て頼っているじゃないですか。のび太の性格があまりにも、ドラえもん頼みだったものだから、僕らは『のび太の性格をもう少し自主性を持った少年にしようか』という方向で始めた番組だったんです。番組をやる前に、文芸担当者の徳丸正夫さんや脚本家らが集まってきたときに、そういう方向性でいくことに決めたはずです。だから、藤本先生としては原作の思い通りになってないと感じていたんでしょうね。ただ、あの先生はそういうこと をはっきり拒否しなかったから、僕らがそのまま勢いづいてやってしまったのだと思います(中略)
僕自身の好みをいえば、少年がいつも誰かにべったりとか、何かというとすぐ頼るっていうのは、ちょっと考えなきゃいけないかなと思う。でもそれは、どっちかというと、親の側の……大人側の論理なんだよな。原作の、のび太 は少年側の論理なんですよ。むしろ、自我に目覚めさせようとした俺達の方が、生意気だったのかもしれない。少年の気 持ちというのを十分に掛酌できず、大人の論理で作ってしまった。自我に目覚める子が出
封印作品の謎 テレビアニメ・特撮編始めるのは、小学校高学年ぐらいからだけど、『ドラえもん』の主なターゲットって、幼児から小学校低学年でしょ。心のどこかでは、まだ親や誰かに甘えていたい年頃なんです。その辺を、僕らが錯覚していたかもしれない

要するに、のび太を大人に描いてしまったということです。

テレビ番組として、そのほうが人気が出るというのはわかるのですが、私が原作者だったら、それはテレビのスタッフに任せたと思います。

ひとつ、他の番組の例を出します。

かつて、『破れ太鼓』という木下恵介さん原作の映画がありましたが、それは合計5作もテレビドラマ化されました。

そのうち、私が知っていてるのは、進藤英太郎版の『おやじ太鼓』(1968年1月16日~10月8日、松竹/TBS)と、長門勇版の『天下のおやじ』(1974年4月3日~同年9月25日、国際放映)です。

進藤英太郎版『おやじ太鼓』は、ワンマンなカミナリオヤジ鶴亀次郎を、妻・愛子(風見章子)が上手にコントロールしながら一家が繁栄する展開でした。

一方、長門勇版の『天下のおやじ』は、一代で建設会社を大きくした雷オヤジという設定は変わらないのですが、子供達はそんな雷ぶりにはツイてこずに、少しずつ離れていくというところに力点が置かれた描き方です。

これは、時代背景があると思います。

高度経済成長といわれ、特定の名前のついた一定期間の不況以外は、GDPの二桁成長を続けていた時代が進藤英太郎主演の『おやじ太鼓』の時代でした。

それに対して、長門勇版の『天下のおやじ』は、1973年のオイルショックのあとで、すでに右肩上がり幻想がくずれ、「地震、雷、火事、親父」が怖いものの代名詞ではなくなりつつあった時期です。

戦後、オヤジが家長として振る舞う家制度から家族制度に民法が変わり、その時点で家父長という言葉は否定されることとなりました。

しかし、その教育を受けてきた世代が社会の中心を担ううちは、なかなか人々の“常識”としてその考えが浸透しなかったのですが、家族制度ができてから以降の世代の人々が婚姻して家庭をもつようになったのが、ちょうど長門勇版『天下のおやじ』が放送される頃だったのです。

そうした点からも、カミナリオヤジ終焉という社会背景を反映したドラマづくりになり、それは東映の悪役出身の進藤英太郎よりは、愛嬌と哀愁ある長門勇の方が適役だったということでしょう。

で、何を言いたいかというと、のび太が、親依存の原作と、自主性をまとった1973年日本テレビ版が違ってもいいじゃないか、という話です。

それは時代背景の違いも考えられるだろう、ということです。

原作が始まったのは1969年。

一方、テレビドラマ版は1973年。

この間の1970年には、教育界にとってエポックとなる「杉本判決」がありました。

杉本判決というのは、教科書検定制度自体は合憲としたものの、家永裁判は検閲にあたり違憲であるとする戦後史上(教育史上)非常に重要な判決です。

つまり、賛否両論ありますが、戦後民主教育というのがお墨付きを得たのが1970年ということなんです。

ガリ版先生だの、水道方式だのは、この頃のトレンドでした。

日本テレビ版は、そうした時代背景を微妙に反映した結果かもしれません。

何しろ、当時の日本テレビは、『巨人の星』や『タイガーマスク』で、原作にない反戦をテーマにした話もありましたからね。

かりに、そこまで深く考えてなかったとしても、赤塚不二夫さんのように大きな心を持っても良かったのではないでしょうか。

1970年版の『天才バカボン』には、大いなる不満を抱いていた赤塚不二夫さんでしたが、同じ制作会社と日本テレビ系列で『元祖天才バカボン』の放送を認めています。

『加山雄三のブラックジャック』や、中村雅俊さん主演の『ゆうひがおかの総理大臣』などもそうですが、原作とテレビ番組が別物ということはめずらしくありません。

『加山雄三のブラック・ジャック』に賛否両論、あなたはどちら派?
『加山雄三のブラック・ジャック』(1981年、松竹/テレビ朝日)を覚えているだろうか。テレビ朝日の夜10時枠が帯化される前のドラマである。以前DVD化されたり、CSで放送されたりした際、多くの個人ブログでは賛否両論のレビュー記事が書かれた。
『ゆうひが丘の総理大臣』(望月あきら、オフィス漫)は陰翳に富む人柄を描くドラマ化もされたヒューマンタッチの学園漫画
『ゆうひが丘の総理大臣』(望月あきら、オフィス漫)をマンガ図書館Zで読みました。かつての学園ドラマの原作全17巻をすべて読めるのは大変ありがたい。1978年には中村雅俊を主演に、モデルに室生犀星を連想する同名のドラマも制作されました。

でも、それは翻案作品ということで、原作者には割り切ってほしいと私は考えます。

なぜなら、翻案による「基本設定が同じでも別の描き方」にも、制作者の意図や独創性はあると思うからです。

ま、今のはあくまでも私の意見ですから。

みなさんは、いかが思われますか。

以上、封印作品の謎 テレビアニメ・特撮編(安藤健二著、太田出版)は、タイトル通り封印された特撮番組やアニメ番組の真相を探る書籍、でした。

封印作品の謎 テレビアニメ・特撮編 - 安藤 健二
封印作品の謎 テレビアニメ・特撮編 – 安藤 健二

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