別冊NHK100分de名著集中講義大乗仏教こうしてブッダの教えは変容した(佐々木閑著、NHK出版)は原始仏教と大乗仏教の違いを解説しています。どうして日本の住職は、結婚もするし金儲けもするしお酒も飲むのだろう、という疑問も解決します。
『別冊NHK100分de名著集中講義大乗仏教こうしてブッダの教えは変容した』は、佐々木閑さん(花園大学教授)がNHK出版から上梓した書籍です。
お釈迦様が悟りを開いたと言わる原始仏教、本書で言う「釈迦の仏教」と、現代の日本の大乗仏教は大きく異なります。
“自己鍛錬”を目的に興ったはずの原始仏教が、いつ、どこで、なぜ、どのようにして、“衆生救済”を目的とする大乗仏教へと変わっていったのか。
本書は、講師と青年のやりとりの形式で、青年が質問し、講師が答える形で構成されています。
そもそも、仏教というと、すべてお釈迦様直伝のことと思っていませんか。
そうじゃないんですよ。
私たちは、とくに信仰がないと標榜する人でも、実家に菩提寺があったり、葬儀や法事で住職にお経を読んでもらったりすることはあるはずです。
そのお経や寺院が拠って立つ仏教とはいかなるものであるのか、それを明らかにしている書籍です。
表紙には、こう書かれています。
般若経、法華経、華厳経、浄土教、密教……同じ仏教なのにどうして教えが違うのですか?
原始仏教の研究者と、彼を尋ねた一人の青年。
二人の対話から大乗仏教の本質へと迫りゆく、類を見ない仏教概説書。
私も、これまで仏教関係の書籍は何冊かご紹介しましたが、本書こそ、もっともわかりやすく、もっとも網羅的に、もっとも詳しく、お釈迦様の仏教からこんにちのわが国の仏教諸宗派までの流れと、それぞれの解説が書かれています。
本書は2022年11月25日現在、AmazonUnlimitedの読み放題リストに含まれています。
「お釈迦様の仏教」と大乗仏教
こんにちの我が国の仏教諸宗派は、大乗仏教といわれるものになります。
諸宗派。ありますよね。浄土真宗、日蓮宗、真言宗、曹洞宗、天台宗……
仏教というのは、もっとも大きなくくりとして2つにワケられます。
ひとつは、ゴータマ・シッダールタ(お釈迦様)という人が悟りを開いた(つまり仏陀になった)初期のおよそ150年~200年間のインドの仏教を指し、初期仏教、根本仏教、主流仏教などともいわれるものです。
原始仏教は、個人が出家して悟りを開く、いわば自己鍛錬システムです。
もうひとつは、その後、ユーラシア大陸の中央部から東部にかけて信仰され、中国から日本へと伝わる大乗仏教です。
こちらは、出家者に限らず在家者を含めた一切の衆生の救済を掲げています。
人類全員が出家できるわけでもなし、在家も含めて多くの人が救われるのはいいと思います。
ただし、出家でこそ悟りを開くとされる「お釈迦様の仏教」とは、どうしても矛盾する点が生じます。
それを調停し、つじつまを合わせるための新しいお経の登場や、その書き加えが、時代とともに繰り返されていきました。
そのため現在の日本の仏教には、お釈迦様の教えには出てこないものが、あたかもそうであるかのように説かれているものもあります。
たとえば、一部の新興宗教が言う「先祖供養せよ」「親孝行せよ」というのは一見良いことのように見えますが、良い悪いは別として、お釈迦様はそのようなことは説いていません。
ただ、大乗仏教で仏陀になれるとする行為のひとつである「徳を積む」ことにはつながる、と解釈はできるのかもしれません。
今の仏教はファンタジー!?
結論から述べると、大乗仏教は私に言わせればファンタジーです。
悟りというのは観念ですから、そもそも正しいか間違っているかという決め方は出来ませんが、少なくとも言えることは、当時はテープレコーダーも活字メディアもないし、お釈迦様が後世に正確に伝え残すことを目的として記録したものはありませんから、原始仏教自体、「本当にお釈迦様がそういったのか」という点から確認は取れません。
ましてや、大乗仏教は、そもそも「お釈迦様の仏教」とは狙っているところが違います。
つまり、個人が出家しなければ悟りはひらけない「お釈迦様の仏教」に対して、在家の普通の人々でも仏陀になれるというのが大乗仏教です。
それらをつなげるためには、どうしてもつじつま合わせの理屈(経典)が必要になります。
少なくとも、そのつじつま合わせは、お釈迦様とは無関係です。
ですから、大乗仏教は「お釈迦様の仏教」からスタートしながらも、少なくとも狙いは全く別のものということです。
「なーんだ。ファンタジーなら信仰しても仕方ないな」
と、思われますか。
ところが、そうじゃないんですね。
大事なことは、お釈迦様の仏教であれ、大乗仏教であれ、「人が生きる苦しみから救い上げる」ものであるかどうか、ということです。
神秘主義と非合理主義は似て非なるものである
大乗仏教の『般若心経』についての解説のくだりで、青年がこう尋ねている箇所があります。
ちょっと長くなりますが、大切なところなので引用します。
それに対して、本書の「講師」は、こう回答しています。
神秘と迷信は似て非なるものです。 迷信とは目の前に現れた二つの現象の間に誤った因果関係を想定することです。たとえば、カラスが庭に来て鳴いていたのを見た翌日に、母親が亡くなったとします。それを「母が死んだのは、カラスが鳴いたからではないか」と考えるのは迷信です。そこにはなんの因果関係も存在しませんから、それはただの思い込みにすぎません。
一方の神秘とは、世の中の現象の奥に、人智では説明不可能な力を感じ取ることです。たとえば重病で一週間の命と言われた人が、毎日お経をとなえていたところ、半年以上生きながらえて娘の結婚式に出席して、その翌日に亡くなったとしましょう。
お経に病を治す力があるかどうかは誰にもわかりませんが、この時、お経がその人にとって何らかの心の支えとなったのは確かです。 そこに人智を超えた不思議な力を感じ取るならば、それはその人にとって神秘な力が存在していたということになるのです。
青年 そう言われても、やはり私には納得できません。それは神秘の力などではなく、俗にいうプラシーボ効果 (*) とも考えられますよね。ただの小麦粉を固めたものであっても、薬だと思って飲み続けると、意外に病気が治ったりすることがあります。 お経もそれと同じではないのでしょうか?
講師 お経をとなえて寿命が延びたのは、プラシーボ効果にすぎないと思っていただいても一向に構いません。感じ方は人それぞれであってよいと思います。しかし、大きな力の存在を信じることで心にパワーをもらい、そのおかげで病気を克服したり、救いを感じたりする人が実際にいるのも事実です。自分の力で苦しみから逃れようと思っても、一人ではどうすることもできず、何か大きな力に頼ることでしか救われない人もいるのです。そうした人を救うという意味においては、『般若経』が「神秘性」というものをベースに置いていることは、決して悪いことではないと私には思えるのです。
人智を超えた力というと、怪しく聞こえるかもしれませんが、『般若経』は神秘の力というものを新しく加えたことで、新たな「救い」の要素が導入されたのです。人は誰でも「ありえないことだけど、こうあって欲しい」とか「実際には無理だろうけど、なんとかこうならないかな」と考えたりするものです。 何か不思議で超越的な力がこの世に存在すると思えるなら、そうした見果てぬ夢にも希望が持てるようになるのです。(中略)
「釈迦の仏教」には、業や輪廻といった、現代社会では受け入れくい概念も含まれていますが、神秘的要素はほとんど存在しません。「釈迦の仏教」は、心の苦悩を自分の力で消したいと願う人たちにとっては、論理的かつ理性的で、ほぼ完璧な宗教であることは間違いないでしょう。 しかしそこには、出家や修行という現実世界ではなかなか実行できないハードルが設定されています。
「釈迦の仏教」だけでは救われない人がどうしても出てきてしまうのです。 そういう人のために『般若経』が作られたのだと考えれば、「釈迦の仏教」を否定しているからこそ、そこに存在意義があると考えることもできるのです。
人が感動したり、勇気を得たりすることは、否定する必要はないと思います。
もちろん、科学が発展することによって、そのファンタジーはだんだん侵食されてくるとは思いますが、それでも科学的な命題だけでこの世の中は成り立っているわけではないし、それだけで人の心の安寧は得られないでしょう。
たとえば、がんのステージ4、余命1ヶ月と言われた人が宗教にすがり、信じる力でQOLを上げて結果的に余命を大幅に上回ったとして、それを「疑似科学だ、けしからん」と批判することに意味はありますか。
もちろん、疫学的なエビデンスのないことを、あたかも再現性のあるように言ってはなりません。
ただし、個人的に「これに賭けてみよう」と考え、そこから最後の力が発揮されるのは、むしろ暖かく見守るべきではないでしょうか。
信じる自由、信じることによる幸福感、さらにいえば信じることによる成果、これらは、今の科学にも解明できないことです。
ですから、神秘主義(信仰)と非合理主義(迷信)は、やはり区別すべきところはあるのではないでしょうか。
ともすれば、科学者の側が、この点をきちんと認識せず、それが現代人の科学嫌悪⇒怪しげな、すなわち非合理主義のカルト宗教へ進めてしまう原因にもなっているように思います。
瀬戸内寂聴さんのような「らしからぬ」僧はなぜ誕生したのか
「瀬戸内寂聴さんのような「らしからぬ」僧はなぜ誕生したのか」と、見出しに書きましたが、本書は瀬戸内寂聴さんを名指ししている箇所は1箇所もありません。
あくまでも、私個人の問題提起と、その理解を助けてくれる解説が本書にあったということです。
それは、誤解のないように。
仏教は、「仏・法・僧」の3つで成り立っていると言われています。
これは、仏陀と法と僧を指し、「三宝」ともいわれています。
この三宝に帰依し、その上で授戒することで正式に仏教徒とされるのです。
「仏」は仏陀、「法」は仏陀が説いた教え、「僧」は仏陀の教えを学ぶ総集団、サンガを意味します。
どれが欠けても仏教とは呼べないので、サンガを維持していくためのルールである「律」は、お釈迦様の仏教であれ、大乗仏教であれ、不可欠なものとされました。
たとえば、お金でお布施をもらう、結婚して子供を作る、お酒を飲む、拝観料を取る……
実はこれらは、「律」によって禁じられた行為だそうです。
ところが、日本の寺院や住職/僧侶は、当たり前のようにこれらを行っている。
そもそも、日本の仏教は、三宝のうちの「仏・法」の2つしかないといいます。
もともとの理由は、中国から日本に仏教が伝わった際、「律」が導入されなかったことに原因があるといいます。
それでも、ある程度は縛りがあったものの、明治期の「廃仏毀釈運動」で、国家神道を国の宗教にしようとして神仏分離など仏教を弾圧した混乱の中で、国家によって「僧侶はこうでなければならない」という縛りがなくなり、「僧」のあり方が変容してしまったと書かれています。
現在では、出家といいますと、食い詰めたり、悪行がたたって社会からドロップ・アウトしたりシた中高年者が行うことがあり、まさに「駆け込み寺」化しているとのそしりも免れませんが、問題は、授戒してから残りの人生においてきちんと「僧」としての生き方を貫けるのかどうかということです。
まあ、上記の「律」が守られていないのは、瀬戸内寂聴さんに限ったことではないわけですが、瀬戸内寂聴さんの場合はそれだけでなく、たとえば都知事選の際に、小池百合子候補の顔のあざを隠す化粧を「厚化粧」と悪しざまに罵ったり、「バカども」といった汚い言葉を使ったりしており、徳を積むという生き方とは真逆のひんしゅくを買っていましたから、その点にも問題があると私は感じておりました。
「個性的な人生相談回答者・タレント」としてならそれでもいいのですが、仏門に入って輪袈裟をかぶってそんなこと言ったらダメだろう、と私は思います。
みなさんは、いかがお考えになりますか。
以上、別冊NHK100分de名著集中講義大乗仏教こうしてブッダの教えは変容した(佐々木閑著、NHK出版)は原始仏教と大乗仏教の違いを解説、でした。
別冊NHK100分de名著 集中講義 大乗仏教 こうしてブッダの教えは変容した – 佐々木 閑
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