ブッダの教え[最古の仏教聖典スッタニパータ](マーティン・ルーサー著)は、ブッダ(お釈迦様)の言葉を記した経典の訳本です。日本の仏教は、大乗仏教に日本独自の解釈が加わりますが、ブッダの直弟子たちまでの時代の教理をまとめたものです。
『ブッダの教え[最古の仏教聖典スッタニパータ]』は、マーティン・ルーサーさんがKindle版に書き下ろした、スッタニパータという経典の訳文です。
仏教というと、私たちはもちろん、その原点にブッダ(お釈迦様)をイメージするでしょう。
しかし、日本の仏教は大乗仏教であり、お釈迦様が悟った仏教そのままのものではありません。
簡単に述べれば、狙いを変えて翻案したものです。
どう変えたかというと、お釈迦様が悟りを開いた姿に、弟子たちが追随してきたのがもともとの仏教です。
つまり、個人が出家して修行して悟りを開くものです。
一方、日本の仏教諸宗派のもととなっている大乗仏教とは、出家修行者だけでなく在家の大衆も救われるものです。
個人が悟ることと、大衆が救われることの違いがあるわけです。
日本の仏教は、その大乗仏教について、さらに儒教や民間信仰などを含めた中国のフィルターをいったん通して、招き入れられた独自のものであることは、『池上彰と考える、仏教って何ですか?』(池上彰著、飛鳥新社)でご紹介したとおりです。
ですから、全く同じものでは矛盾が生じるため、大乗仏教は、お釈迦様の仏教の基本である
- 絶対的創造主(神様)を前提としない
- 諸行無常、諸法無我、因果応報、一切皆苦の世界観
という2点はそのままに、「書き足し」が行われています。
「書き足し」の具体的な内容については、『別冊NHK100分de名著集中講義大乗仏教こうしてブッダの教えは変容した』(佐々木閑著、NHK出版)で、原始仏教と大乗仏教の違いを解説しています。
今回は、お釈迦様の仏教の中でも、とくに重要な悟りが伝えられていると言われる『スッタニパータ』というお経について、マーティン・ルーサーさんが実際に日本語に訳されたKindle版をご紹介します。
本書は2022年12月24日現在、AmazonUnlimitedの読み放題リストに含まれています。
物事には原因があって結果がある
『スッタニパータ』は、『スッタ』(パーリ語で「経」の意)、『ニパータ』は(パーリ語で「集まり」の意)、すなわち、パーリ語経典に収録されたお経のことです。
パーリ語は、上座部仏教と呼ばれる、初期仏典(原始仏教)に基盤を置く仏教の古典語です。
本書は、全1149詩からなる長大な経典の『スッタニパータ』から、抜粋したお経を著者が訳したものです。
もともとの仏教というのは、いったいどんなことを悟っていたのだろう、ということがわかります。
パーリ語のままですと、興味はあっても手が出ませんが、日本語に訳されたのなら、理解できます。
何しろ、日本には、伝統仏教や新宗教など、様々な宗派がそれぞれの教えを標榜しています。
よくいわれませんでしたか。
そんなことをしたらバチが当たるとか、親孝行をしなさいとか。
お釈迦様は、親孝行をしろとは一度も伝えていません。
何度かかきましたが、お釈迦様自身が、北インド(今のネパール)の王子様で妻子もいたのに、それを全部捨てて出家しているのですから、こんなに親不孝で、父親失格者はいませんものね。
バチが当たるとも言っていません。
「諸行無常、諸法無我、因果応報、一切皆苦の世界観」と書いたように、物事には原因があって結果がある。
生きるというのは苦しいものなのだ、としているので、何か合理的に証明できない存在が、呪ったり祟ったりするという前提では物事を捉えていません。
ただし、輪廻転生を信じている当時のインドの文化から、そんなことをしていたら地獄に落ちると訳せる箇所はあります。
「親孝行をしろ」どころか「親も財産も仕事も捨てろ」という経
本書によれは、『スッタニパータ』におけるブッダの教えはとてもシンプルです。
1、所有を捨て、執着を捨てれば、 平安の境地に到達する。 五感をしっかり制御することが大事である。
2、平安の境地に到達した後は、他者を苦悩させないよう気を つける(慈しみの心を持つ)。
論より証拠で、本書で訳された詩句について、具体的にいくつか抜粋してみましょう。
●心を空にするのを妨げる無意味な思考をすべて超越した修行 者、彼はすべての執着と苦しみから脱しつつある。 脱皮してい る最中の蛇のようなものである。 《8》
無明(知恵がないということ)を原因とした苦しみのメカニズムを説明した、仏教特有の理法『十二縁起』を、『NHK「100分de名著」ブックスブッダ真理のことば』(佐々木閑著)でご紹介したことがあります。
無明のせいで、物事の本質を理解できず、老いや死への恐れ、苦しみが生じる、というプロセスです。
「恨み」や「愛」も無明の仲間とされ、それらは「執著」という煩悩だと言っています。
それらを、修行によって、まるで蛇が脱皮するように脱するということを伝えているのです。
●妻子も、父母も、財産も、穀物も、 あらゆる欲望もすべて捨てて、サイの角のようにただ独り歩め。 《60》
ね、親孝行しなさい、どころか、「すべて捨てて」ですよね。
「財産も、穀物も」ということは、事業をするな、田畑を耕すな、ということです。
そういうことをしていると、「もっと稼ぎたい」「豊作になりたい」という欲望が出てしまうからです。
欲望は煩悩なのです。
でも、これは社会発展との間で矛盾が生じますよね。
食料を生産したり、経済活動を行ったりしないと、人々は飢えるし、社会も発展しないじゃないですか。
そもそも、お釈迦様を含む修行者は、そういう人たちから托鉢で食わせてもらっていたわけです。
ということは、もし人類が皆、お釈迦様のマネをして出家修行したら、人類は滅びてしまいます。
それ以前に、お釈迦様たちも、修行を続けられないでしょう。
ここに、原始仏教の最大の矛盾と限界があると私は思うわけです。
要するに、お釈迦様の仏教というのは、ハナから全人類を救うものではないくせに、全人類をあてにしている仏教だったのです。
オレは悟るから、在家の下々の者は食わせてくれたまえ、という了見だったのです。
ですから、その後、在家大衆を救う大乗仏教が登場し、原始仏教は自分たちのことしか考えていない「小乗仏教」だとコバカにされたのです。
ただ、大乗仏教とて、そのコアの部分は、お釈迦様の仏教なしには成立し得ないわけですから、どっちがどうと優劣をつけられるものでもありません。
それと、言うまでもありませんが、なんとか真理教や、旧なんとか協会が言う、「親も財産も捨てろ」とは全く意味が違いますからね。
なんとか真理教や、旧なんとか協会は、自分たちの管理下に信者を置くのに家族が邪魔なのと、捨てさせた財産をいただきたいから、方便でその箇所を盗用しているだけです。
他者と比べないことの意味
この箇所も興味深いですね。
ここも興味深い件ですね。
「他者と比べるな」と言っているわけですが、その中には「自分も他者も大した違いはないんだ、同じようなものなんだ」と思うことも含まれています。
つまり、「同じだ」とか「似たようなもんだ」とか「違いはない」という表現自体、実は「他者と比べ」ているわけです。
「僕は他者のことなんか気にしていない、気にならないんだ」と言いながら、「だって、みんな似たようなもんでしょ」なんて続ける人がいますけど、それは本音で嘘をついている、ということになるのかもしれませんね。
これは現代の世相にそのまま教訓としたいことですね。
占いが合理的かどうか、ということを問題にしているというより、占いの判定で一喜一憂してしまうから、それが煩悩である。そもそも占ってほしいものがある事自体、執著のあらわれである、ということではないかと思います。
ブッダは輪廻転生をどう見ていたか
さて、私としては一番興味のあることは、お釈迦様は輪廻転生の世界観であったのかどうか、ということです。
解脱して涅槃に、というのは、輪廻転生からの解脱という意味でしょう。
何度か書いてますが、輪廻転生と聞くと、私たちは「何だ、生まれ変われるのか。いいなあ」と思うかもしれませんが、必ずしも人間に生まれ変われるわけではないし、ましてや前世の財産や名声を引き継げるわけでもありません。
その上、人生は一切皆苦なのですから、「やっとそれを終わらせたのに、また新たな一切皆苦かよ」というのが輪廻に対する思いだったわけです。
つまり、輪廻は、喜ばしいことではなかったわけです。
すなわち、そこから解脱できるというのは、喜びであったわけです。
この件をもって、お釈迦様は輪廻転生の世界観をもっていた、ということがいえるとされているわけですが、訳者(著者)は少し違う解釈をしています。
つまり、自分は必ずしもそう思っていなかったとしても、輪廻転生の世界観をもつ他の修行者に対する方便として、「ちゃんと修行できたら、輪廻転生から抜け出せるよ」とおだてて透かしていたのかもしれない、という見方もできるわけです。
本書では、こう表現されています。
「ブッダにとって輪廻はただの便利な道具だったということになります。」
ただ、そうだとしても、道具として使えるということは、ブッダの悟りとして輪廻が辻褄にあうものであるということですから、少なくとも否定はしていなかったということでしょう。
他にも興味深い詩句はいくつもあります。
抜粋したものはそうたくさんではない(全43ページ)ので、読むのにそう時間はかかりません。
興味のある方は、ぜひ読まれることをおすすめします。
以上、ブッダの教え[最古の仏教聖典スッタニパータ](マーティン・ルーサー著)は、ブッダ(お釈迦様)の言葉を記した経典の訳本、でした。
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