完全版仏教「超」入門(白取春彦著、ディスカヴァー・トゥエンティワン)は、仏教についての「入門書を超えた入門書」を標榜しています。仏教の出発点は「人生とは苦しみ」であるとし、仏陀が説いた純粋な仏教を、例え話を交えながら解説しています。
『完全版仏教「超」入門』は、白取春彦さんが、ディスカヴァー・トゥエンティワンから上梓した書籍です。
この記事は、Kindle版をもとにご紹介しています。
これまでご紹介した「入門書」というのは、というか一般的な意味での「入門書」とは、基本的な語句や概念の説明ですが、本書はどちらかというと、仏教に対する初歩的な誤解を解く、という趣旨といっていいかもしれません。
Amazon販売ページにかかれているところでは、たとえば、家には仏壇があり、お墓はお寺にあり、お盆やお彼岸にはお墓参りに行き、葬式ではお坊さんにお経をあげてもらう…こういった習慣は本来の仏教とは無関係、と書かれています。
そもそも、亡骸には意味がない、というはお釈迦様以来の仏教の基本的な教えです。
それがなぜ、お墓だの葬儀だの法事だのと言った「葬式仏教」が当たり前になってしまったのか。
これは、国策と結びついていることは、『池上彰と考える、仏教って何ですか?』(池上彰著、飛鳥新社)でご紹介しました。
仏教発祥のインドでは、人が亡くなっても、川に流してそれで終わり。
先祖供養なども、別に重視されていませんでした。
また、「よいことをすれば極楽、悪いことをすると地獄へ行く」「仏様がいつも見守っていてくれる」といった考え方も本来の仏教の教えにはなく、キリスト教の影響を受けたものだったりする、とも書かれています。
何しろ、浄土真宗のように「悪人正機説」というのがあるくらいですからね。
お釈迦様が輪廻転生を前提としていたか、自ら信じていたかどうかについては諸説ありますが、いずれにしても、仏教に「神様」は前提とされていないので、「お守りくださる」ものは仏教には存在しないということです。
本書は2023年3月1日現在、KindleUnlimitedの読み放題リストに含まれています。
仏と神の混同
本書がまず書いているのは、仏と神の混同です。
著者は、奈良時代に始まった神仏習合から、神道のカミとの混同が始まったのだろうとしています。
しかし、著者は、「仏の原義からすれば、残念ながら仏は至高の存在ではありえない」「『仏』は基本的に『悟りを得た人』を意味する言葉にすぎない」と書かれています。
当然です、
何しろ、仏教と他宗教の違いは、神様を前提とするかどうか、ですから。
つまり、他宗教は、神様という絶対的な創造主が、全てを造り差配しているとしています。
だから、「神を信仰する」、この6文字でそれらの宗教の説明は終わってしまうのです。
ところが、仏教というのは、あくまで私たち個々人の心のあり方を問うものです。
念仏とか、禅とか、密教とか、まあいろいろ手段はありますが、別にそれらは神様と対話するとかお願いするとか言ったことではありませんから。
仏教は、神様がなにかしてくれるわけではないのです。
ビミューと「微妙」の違い
若者の間では、最近「ビミョー」という言葉を流行語のように使っています。
どちらかというと、否定的な意味で、判断や回答に困る場合に使う言葉のようですが、本書では、仏教の言う「微妙」とは真理の素晴らしさを表す言葉である、と述べています。
そもそも、「妙」という使い方がネガティブですからね。
「妙な男」とかね。
でも、「妙法」とは、比べるもののないほどの美しさという意味なのです。
出世しない「出世」
本書には、「本当の「出世」とは出世しないこと」とも書かれています。
禅問答のようですが、どういう意味か。
わたしたちが使う「出世」という言い方は、会社の重役になったり、有名になってひと旗上げたり、大臣になったりすること、つまり高い地位や名誉を得ることです。
しかし、仏教がいうところの本来の「出世」とは、ブッダがこの世に生まれたこと、もしくは、ブッダが悟りを開いたこと、といいます。
俗世間での成功ではなく、人間救済のために生きるということだそうです。
著者は、「今、ふつうに使われている 「出世」という言葉は、その語源から遠く離れてあまりにもセコい意味になっている」と嘆いています。
さらに、「世」という漢字は流転する、移り変わっていく、という意味であり、世間も世界も恒久的ではなく、絶えず変化して、とどまらないものと述べています。
入滅の意味
一般に、入滅というと、「亡くなる」ことをイメージするのではないでしょうか。
昨年10月、こういう事がありました。
日蓮宗の大本山である池上本門寺は、日蓮上人の「入滅の日」に、「お会式」を行います。
これまでコロナ禍で、大々的には行わなかったのですが、昨年は3年ぶりに露店も登場しました。
それについて、「お祭り」と表現した投稿者に対して、「入滅を『お祭り』と表現するなんて不謹慎だ」という人がいました。
要するに、法事だから厳かに、ということらしい。
しかし、そもそも露店までて出ているし、日蓮宗という一宗派を超えて、まちぐるみで開催する行事ですから、「お祭り」で何ら問題ありません。
何より、入滅とは本来、「煩悩が消滅すること」を指すので、悪い意味でもありませんから、「お祭り」という表現が不謹慎という道理はありません。
本書にも、その解説が出ています。
したがって「入滅」も、その原語であるサンスクリット語の「ニルバーナ」も、本来は死とはまったく関係のない意味をもった言葉だということだ。
ところが、生きている限り煩悩はなくならない、だから死んだときにようやく煩悩がなくなる、だから「入滅」はすなわち「死」を意味するのだ、と考えてしまった人が多かったようなのである。
でも、本来の意味はそうではないんだということです。
「空」の解釈に留保
ということで、Amazon販売ページに戻ると、本書はこう書かれています。
ただ、仏教学的には疑問符のつくところもあります。
それは、「空」についての説明です。
「空」というのは、「「般若心経」の中で、もっとも有名な部分にあ」り、「他との関係があってこそ成り立っている状態を示す言葉」といいます。
たしかに、「すべてのものが関係しあって、互いの存在を抱えている」諸法無我はもっともなのですが、『般若心経』は、お釈迦様が直接関与していない大乗仏教のお経です。
お釈迦様の仏教に対する大乗仏教の変容として、「空」の概念の違いがあるということは、『別冊NHK100分de名著集中講義大乗仏教こうしてブッダの教えは変容した』(佐々木閑著、NHK出版)でも触れていました。
同書では、お釈迦様の「空」と、『般若経』の「空」の違いを説明しています。
しかし『般若経』では、お釈迦様が実在すると考えた「五蘊」などの、世界を構成している基本要素すらも「実在しない」ととらえたのです。
また、お釈迦様はこの世の本質を「諸行無常」、つまり「すべてのものはうつりゆく」と見抜いていましたが、『般若経』では「すべての基本的存在要素には、 そもそも実体がないのだから、それが生まれたり消えたり、汚れたり、きれいになったり、増えたり、減ったりしている(ように見える)のもすべて錯覚である」と考えて、「諸行無常」さえも否定しました。
青年 すごい話になってきましたね。私たちが今、感じているいろやかたち、音、匂いなどの要素すらも、すべて実在しないとなると、この世はすべて「まぼろし」ということになってしまいますね。そう考えると、ここにいる先生や私はおろか、過去や現在や未来まで、何もかも説明がつかなくなってしまうのではないでしょうか?
講師 おっしゃるとおりです。 この世を構成している基本要素が実在せず、ただの虚構だということになると、要素と要素の間を結んでいた因果則も存在しないことになります。そうなると「釈迦の仏教」の根本にある、行為と結果の関係、つまり「業の因果則」すらも存在しないということになってしまうのです。
しかし、そのままではこの世の有り様が説明できないので、『般若経』では人智を超えた神秘的な力があり、その法則こそが「空」であるとしています。
ですから、本書で言う「空」が、「お釈迦様の仏教」の「空」であるのなら、あたかも『般若経』の「空」であるかのように説明するのは、学問的には誤りということになります。
この点については、著者のご意見を伺ってみたいものです。
以上、完全版仏教「超」入門(白取春彦著、ディスカヴァー・トゥエンティワン)は、仏教についての「入門書を超えた入門書」を標榜、でした。
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