『1964年のジャイアント馬場』(柳澤健著、双葉社)は、巨人軍⇒プロレスラーとして活躍した馬場正平のノンフィクション。日本プロレス入門後は、世界三大タイトル連続挑戦するなど日本人でたったひとりの「世界標準の男」だったことを証明しています。
「公」のジャイアント馬場にスポット
ジャイアント馬場については、プロレスラー以前の馬場正平の巨人症発症や、巨人軍在籍時代について書かれた『巨人軍の巨人馬場正平』(広尾晃著、イースト・プレス)をご紹介しました。
本書は、どちらかというとプロレスラー以前の、人間・馬場正平にスポットを当てた「私」の書籍です。
巨人症発症による苦悩や、巨人時代の不遇などがあっても、決して本人は絶望せず、積極的に社会と関わろうとしていた ことが一貫して述べられています。
プロレスファンだけでなく、悩み事や障碍・難病のある方も、「あのジャイアント馬場は、とてつもなく大変なものを抱えてたのに明るく生きて大成功したんだよ」ということがわかる一冊です。
一方、『1964年のジャイアント馬場』は、プロ野球選手、およびプロレスラーとしての実績や言動を中心にまとめた「公」のジャイアント馬場にスポットをあてた書籍です。
ジャイアント馬場の輝かしい功績の跡を追っています。
『週刊大衆』に連載されていた同名の読み物を、加筆修正してまとめられています。
この2冊を併せて読むことで、馬場正平とジャイアント馬場という2面を重層的に知ることができると思います。
さて、本書のタイトルですが、なぜ「1964年」かというと、その年は、ジャイアント馬場がアメリカで、3代世界タイトルに挑戦するという、レスラーとして頂点を極めた一方で、日本のマット事情から帰国を決めるという、大きな転機の年でもあったからです。
力道山が刺殺されたのが1963年。
かりに生きていても、力道山自身は引退を考えており、後継者にはジャイアント馬場をすでに決めていたようです。
ジャイアント馬場はその当時、アメリカでトップレスラーでした。
しかし、力道山が亡くなったことで事情が変わります。
日本プロレスは力道山の死後、レスラーとしてもナンバー2だった豊登道春をトップにしますが、豊登とジャイアント馬場はプロレス観が違う上に、豊登がかわいがっていた若手には猪木寛至(アントニオ猪木)がいました。
そのため他の幹部は、力道山が亡くなって日本人スターがほしいのに、豊登に遠慮してジャイアント馬場の帰国を進言できずにいました。
ジャイアント馬場は、日本の事情がわからないながらも、そのような雰囲気を察知していささかなりとも不信感もいだいていました。
それに対して、マネジメントするグレート東郷は、破格の契約金でアメリカに残ることを提示。
ジャイアント馬場は、アメリカに残るのも悪くない、と考えていました。
グレート東郷は、その前年、力道山が亡くなったときに、日本プロレスからブッカー(外国人レスラー招聘のエージェント)として切られたため、ジャイアント馬場をどうしても日本に返したくない意地もあったと思います。
引き止め策もあり、ジャイアント馬場は、当時、NWA、WWWF、WWAというアメリカの3つのテリトリーで世界選手権に立て続けにチャレンジしました。
もちろん、日本のリングよりもたくさんのお金を稼げました。
ところが、急転直下帰国することになります。
日本プロレスの興行にかかわる“そのスジ”から、「馬場を戻せ」と話があり、ジャイアント馬場本人ともその交渉が行われたことを同書は示唆しています。
当時、日本プロレス協会の副会長には、東西の大きな任侠団体のトップが就任していました。
かくしてジャイアント馬場は、日本プロレスのリングに上がります。
目先のことを考えたら、契約してアメリカで大金を稼ぐやり方もあったでしょう。
“そのスジ”の圧力もあったのかもしれませんが、最終的に決めたのはジャイアント馬場自身。
日本人として、いずれは日本マットに帰ることも視野に入れ、依頼されて帰国したほうが「損して得取れ」になると考えたのかもしれません。
アメリカマットでは、あくまでもチャレンジャーですが、日本のマットならトップに立てる、という野心もあったかもしれません。
日本のプロレス界は年功序列の「格」があり、一応、エースは豊登ということになっていましたが、プロレスラーとしての魅力はジャイアント馬場とは比べ物になりませんでした。
ジャイアント馬場でなくしても、早晩ジャイアント馬場時代が来ることは間違いないと思えました。
高度経済成長時代を象徴するダイナミックなプロレス
アメリカで売れっ子だったジャイアント馬場は、第6回ワールドリーグ戦開幕ギリギリに帰国。
カリプス・ハリケーンと、時間切れ引き分けの好試合を繰り広げました。
力道山、豊登らの「西洋相撲」的プロレスとは全く異なる、長身を利用したダイナミックなプロレスは、ファンの心を鷲掴みにしました。
『東京スポーツ』(2015年1月30日付)には、ジャイアント馬場が32文ドロップキックを初めて日本で炸裂させた日の写真を掲載しています。
1965年3月26日。場所は当時渋谷にあったリキパレス。相手はドン・ダフィ。
2メートルを超える大男が跳んだことで、観客はさぞ驚いたことでしょう。
記事ではこう絶賛されています。
跳躍力や手足のバランスなどすべてにおいて満点の一撃。209センチ、145キロの巨体が宙を舞う姿は、もはや芸術品と言ってもいい。新日本プロレスの元IWGP王者オカダ・カズチカが打点の高いドロップキックを使っているが、やはり209センチの馬場の一撃には及ばない。『金が取れる』ドロップキックの元祖である。
元新日本プロレス・レフェリーのミスター高橋氏の書籍によると、アントニオ猪木はドロップキックが苦手だったそうですが、瞬発力はあっても尻餅をつくように落ちるところにコンプレックスがあったのかもしれません。
当時日本テレビで実況を担当していた清水一郎アナは、ジャイアント馬場の32文ドロップキックを「大型ロケット弾道弾」「アポロキック」と名づけていました。
大男が、誰よりも鮮やかに自らの身体を“飛び道具”に使うダイナミックなプロレス。
その明るく楽しく激しいファイトスタイルは、右肩上がりの高度経済成長時代にマッチしたものだったと思います。
昔は「巨人、大鵬、玉子焼き」なんていいましたが、なぜ「玉子焼き」なのか。
なぜ「ジャイアント馬場」ではないのか、と私は子供心に思ってしました、
苦手だったプロモーションも全面開花
本書は、その時代のジャイアント馬場の輝かしい活躍を描いています。
アメリカでオーバーした(トップレスラーになった)日本人レスラーは何人か数えられるが、ジャイアント馬場ほど稼いだレスラーはいない。
一方で、日本プロレス界の父といわれている力道山は、ロサンゼルスでしか通用しない田舎レスラーだったことも、当時の2人のサーキットを示しながら説明しています。
ただし、いいことばかりではありません。
美談ばかりではなく、経営者・プロモーターとしての蹉跌も、これでもかというほど書き連ねています。
日本プロレスを退団後、全日本プロレスを作りましたが、日本テレビやアメリカプロモーターたちのバックアップを得て順風満帆なスタートだったにもかかわらず、ないないづくしのスタートだったアントニオ猪木率いる新日本プロレスのプロモーションに遅れを取ります。
いにしえの大物たちを呼んで、自分を含めたオールスターカードを組むしかノウのない興行は、タイガー・ジェット・シンやスタン・ハンセンら、無名レスラーと名勝負を創り出してで会場を満員にする能力で劣っていたと思います。
その原因のひとつは、アメリカ遠征が、なまじ武者修行ではなくトップレスラーとしてのサーキットだったために、プロモーションの勉強を行う機会がなかったのでしょう。
もうひとつは、アントニオ猪木には新間寿という参謀がいい仕事をしましたが、ジャイアント馬場は功労者との齟齬で適切な参謀がいませんでした。
アメリカのプロレス市場は様変わりしており、ジャイアント馬場と同年代の大物レスラーも引退や物故。
そこで、ジャイアント馬場は、当時週刊プロレスの編集長だったターザン山本氏や、編集部員の市瀬英俊氏からマッチメイクなどの提案を受けることにしました。
そこから生まれた、日本人レスラー同士が極限まで技を出し合う『(カウント)2.9プロレス』路線が全面開花。
全日本プロレスは、年間8シリーズ中、7シリーズの最終戦に日本武道館の興行をうち、カードが決まる前にチケットが売れてしまうなど、全盛期の新日本プロレスにもなかったようなブームを築きました。
本書では、マスコミなど関係者の声に耳を傾ける頭の良さがあってこそと書いています。
そして亡くなる直前の件は、今月末はもう23回忌だというのに、読んでいて思わず目頭が熱くなる箇所もあります。
おそらくジャイアント馬場ファンなら読まれているとは思いますが、晩年しか知らず、「ジャイアント馬場の何がすごかったの?」という方々にも読んでいただきたい力作です。
以上、『1964年のジャイアント馬場』(柳澤健著、双葉社)は巨人軍⇒プロレスラーとして活躍した馬場正平のノンフィクション、でした。
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