『ネットで「つながる」ことの耐えられない軽さ』(藤原智美著、文藝春秋)は、ネット社会の「文体」について言及した書籍です。インターネットの普及によって、「書きことば」が急速に衰退し、「ネットことば」による社会へと推移していると述べています。
本書の内容
『ネットで「つながる」ことの耐えられない軽さ』(藤原智美著、文藝春秋)は、ネットを介したコミュニケーションについて述べています。
メール、ツイッター、Line、FACEBOOKなど、今やネットを介したコミュニケーションを避ける事は不可避です。
ましてや、今はコロナ禍で、対面ではなくネットで用を済ませる割合が増えてきました。
ところが、そのネットの言葉が問題というのが著者の指摘です。
ネットによって、言葉が「軽く」なったというのです。
それが、政治家や官僚たちの暴言、失言の数々をうみ、「出会いサイト」や「掲示板」などは、ストーカー殺人や無差別殺人の原因さえ作り出すといいます。
『ネットで「つながる」ことの耐えられない軽さ』藤原智美著
ネットは我々に幅広いつながりや情報の双方向への発信、伝達速度の飛躍的向上を与えたが、ひとりの時間、つまり孤独と向き合い、思考を高める時間を奪った。だが、この事実に気付いている人はあまりに少ない…— 夢作 (@ts_dreammaker) February 4, 2014
そこで「暴走老人!」の著者は、はたしてネットを通じて「つながる」ことは本当に必要なのか。
ネットで人間の孤独な思考は深まっていくのか。
あえて「つながらない」ことに価値を見出す選択肢はないのか。
ネット言葉に懐疑を抱く書籍です。
「つながらない」とは「ネットと縁を切る」と著者主張
『ネットで「つながる」ことの耐えられない軽さ』というタイトルを見たとき、私はてっきり、Facebookの「いいね!」の付け合いが、リアルな人のつながりよりも「軽い」から耐えられない、ということを書いているのかと思いました。
そうではなくて、「言葉」そのものだったのです。
たしかに、好んで使いたいとは思えない言葉が飛び交っていることも確かですが、やはり本質は人自身です。
ネットのヒトの「つながり」に関して深く言及していただきたかったですね。
「軽さ」とは、果たして本当に「言葉」でしか発生しないものでしょうか。
むしろ、人のつながりの「軽さ」の結果としてそうなっていくという面はないのかと思いました。
「言葉」でも「人」でも同じことだ、と思われますか。
ところが、今回の書籍でいう「つながらない」というのは、Facebookの「いいね!」競争に参加しないというだけでなく、そもそもネット自体と縁を切りたい(つまりつながらない)、という主張になっています。
確かに、ネットと縁を切ることで、ネットことばとは付き合わなくて良いかもしれません。
しかし、問題が在るからと言って全否定するというのはいかがなものでしょうか。
だからネットを離れよう、になるのか?
上掲のように、ネットの話し言葉は、紙媒体の言葉に比べると軽い。その軽さでコミュニケーションが荒廃し、政治家や官僚たちの暴言、失言の数々や、「出会いサイト」や「掲示板」から発生する事件などがあります。
そこで著者は、ネットとつながる(ネットを利用する)ことを否定し、あえて「つながらない」ことに価値を見出す選択肢を提案するという構成です。
同書から、著者の言葉でそれを述べているところを引用します。
本書のテーマはつぎの三点です。一つ目は、ネットの普及によって紙に記される「書きことば」が急速に衰退していること。二つ目は、それによって国や経済のあり方はもとより、ぼくたちの人間関係と思考そのものが根本から変わろうとしていること。三つ目は、だからこそ人はネットをはなれて「読むこと」「書くこと」が必要なのだということです。
結論から書くと、ネットに問題点があることはそのとおりだと思います。
しかし、だからネットを離れよう、という意見には全く賛成できません。
著者の哲学はひっきょう、新しい文化や媒体や通信手段に対して、それを「外敵」と見立てて新しい可能性に背を向け、旧来のものを守るだけになっている前向きでない結論です。
言われるまでもなく、ネット掲示板などがリアル社会に問題を持ち込んでいる事実はあります。
しかし、ネットによって、これまでなら考えられないような成果もあるじゃないですか。
ネットを利用しながら、指摘される懸念や危機感を克服する、という解決を考えようとせず、いきなりネットそのものを否定するというのは、相克から逃げているわけですから、結局何も考えていないのと同じことです。
では、ネットを利用しながら、指摘される懸念や危機感をどう克服したらいいのか。
ネットとリアルは価値観の異なる世界
という当たり前の認識をユーザーが持てば、解決する問題だと私は思っています。
たったそれだけのことです。
リアル世界の名文とネットの名ブログは違う
たとえば、ネットの言葉と、著者がいうところの「紙に記される『書きことば』」は違います。
プロブロガーやアフィリエイターならご存知と思いますが、作家の名文はそのままブログでは使えません。
既存の作家の著作を、「自炊」(←紙媒体の文字を電子データにスキャンニングすること)で電子化してそのままアップしてもダメなんです(著作権問題を抜きにしても)。
何となれば、ネット界の編集長は、検索エンジンという機械だからです。
たとえば、代名詞を使ったほうが綺麗に収まる場合でも、具体的にその指すものを書いたほうが、検索エンジンは高く評価します。
文学作品なら、婉曲に書いたり、比喩を使ったりするほうが文章として高く評価されます。
しかし、検索エンジンは現時点では文芸的な価値を判定できません。そこで、そんな技芸よりも、ズバリ書いたほうが高く評価されます。
要するに、「うまい文章」「きれいな文章」よりも「ベタでもわかりやすい文章」の方がネットの世界では評価が高いのです。
この時点では、リアルな世界のほうがネットよりも「レベルが高い」ように見えるでしょう。
しかし、検索エンジンは日々進化します。リアル世界の文芸的価値とは違う、新しい価値観の創出を将来行うかもしれないのです。
自称「暴走老人」のこの著者は、そういう発想ができないのです。
違うものなのに比較して、即ネットの言葉を否定しています。
文化の発展を見ることができないのは、厳しい言葉で表現するなら思考停止しています。
旧弊なリアルの常識にこだわらず自由にやってみればいい
では、ネットとリアルは違う、ということをはっきりさせるためにはどうしたらいいのか。
古くは「ネチケット」なんていう言い方がされましたが、リアルのふるまいや価値観の善悪を、そのままネットの道徳に持ち込むようなくだらないことは、ただちにやめることです。
ほかでもない、この著者自身が、それができていないから、ダイレクトにネットとリアルを比較して、リアルの危機だと叫んでいるのです。
ネットとリアルは別、といっても、ネットなら名誉毀損をしてもいい、犯罪に利用してもいい、ということではありませんよ。
たとえば、Facebookの友だち申請には挨拶から始めないやつは失礼だとか、ブログやそのコメントにああでもないこうでもないと作法を求めるとか、「リアルの行儀」をネットにそのまま持ち込んでも、新しい価値観の創出は期待できないといっているのです。
たとえばですよ。
優れた思考ができて、人を思う気持ちもあって、でも挨拶が苦手で、リアル社会では誤解されている、という人がいたとしましょう。
そういう人には、ネットの世界ぐらい、そんな瑣末なことに気を使わせずに自由にやらせてみることです。
その人が、リアルではチャンスがなかった能力をいかんなく発揮することで、本人だけでなくかかわる人全てにメリットがあるかもしれません。
リアル、ネット、それぞれの特性を上手に使って、能力や人間性の全面開花に道を開けばいいとおもいます。
以上、『ネットで「つながる」ことの耐えられない軽さ』(藤原智美著、文藝春秋)は、ネット社会の「文体」について言及した書籍です、でした。
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