伊藤博文夫人・伊藤梅子など『妻という地獄~あの偉人たちのスキャンダル~』は、タイトル通り偉人の生き様と功績を妻の側から見た漫画です。チンギス・ハンの妻、徳川綱吉暗殺の陰に隠された正室・信子、戦国時代に翻弄され続けた浅井三姉妹などが描かれています。
伊藤博文(いとう ひろぶみ、1841年9月2日~1909年10月26日)は、日本の近代化に大きく貢献した政治家です。生涯と主な功績を以下にまとめます。
山口県(当時の周防国)に百姓の子として生まれましたが、父親が足軽伊藤家の養子に入ったため、下級武士の身分を得ます。
またまた下級武士です。そして、改姓しています。
というか、百姓だとそもそも氏のない階級だったのかもしれません。ここは不明です。
いずれにしても、士族階級に入ったことで、これが「成り上がり」のきっかけとなります。
さっそく、松下村塾で吉田松陰に学びました。
1863年にイギリスに留学し、西洋の技術と文化に触れました。
1871年、岩倉使節団の副使としてアメリカやヨーロッパを訪問し、近代化のための知識を吸収しました。
このときに一緒に渡米したのが、先日ご紹介した津田梅子です。
1885年に初代内閣総理大臣に就任し、計4度の内閣を組閣しました。
同年、清国との間で天津条約を締結し、朝鮮半島における勢力均衡を図りました。
ドイツやオーストリアの憲法を参考にし、1889年に大日本帝国憲法を発布しました。
1905年に初代韓国統監に就任し、韓国統治に関与しました。
総理辞任後の1909年、韓国の総監として視察に行き、ハルビン駅で安重根に暗サツされました。
伊藤博文は、評価はいろいろありますが、日本の近代化の基礎を築いた重要な人物のひとりであることは確かです。
今回の主人公は、その妻・梅子です。
今回は、妻の視点で伊藤博文を見ています。
農民からのし上がった代償の苦しさに……
本作によると、梅は貧乏な家の娘で、遊郭に売られて、客を取る寸前で伊藤博文が身請けしたことになっていますが、一般に公表されているプロフィールでは芸妓の「小梅」となっています。
1864年にイギリスから帰国した伊藤博文と出会い、1866年に結婚しました。
伊藤博文には妻がいましたが、離婚して梅子と再婚。梅子は彼を支え続けました。
つまり、かなり出世してから知り合っているのですが、本作では、出世前に知り合っていることになっています。
伊藤博文は、「自分はもとは農民の出だが、今は攘夷派の勇士だ。お前も今日から倒幕の志士の妻として、梅子と名乗れ」と、結婚を機に、「梅」から「梅子」に改名したことになっています。
その後、伊藤博文は次々仕事をして偉くなっていくわけですが、女性との交際もそれに比例して派手になっていきます。
何しろ、自宅に堂々と連れてきて、梅子に茶を出させ、翌朝、梅子が小遣いをやって玄関まで見送るのです。
最初は、花街の女性でしたが、そのうち人妻に手を付け、岩倉具視公爵令嬢、鹿鳴館の華といわれた戸田極子との不倫スキャンダルが発覚。
明治天皇から注意されて、人妻だけはやめることにしました。
梅子は、博文が農民からのし上がった代償として、今までの人生でかなり無理をしてきたことを心に抱えきれず、夜眠るのが怖くて、夢を見る間もないくらい疲れ果てるために「女遊び」をしているのだろうと思いました。
梅子は、当初政府高官の夫人として、アッパークラスの生活に戸惑いがありましたが、英会話やダンスを自分から習うなどして、夫を支えることを通して自分が自覚的に変わっていくことに、逆に面白さを感じました。、
そして、博文は総理を退き、今度は韓国の総監に指名されました。
「思えば、田舎の農民だった私が、よくここまで上り詰めたものだ。今度の視察が終わったら、ふたりでのんびり旅行にでも行こうか。今まで苦労をかけたなあ」
東京で記念撮影をする韓服を着用した伊藤博文。
後列左から
朴義秉(漢城府判尹)
伊藤博文
李址鎔(大韓帝国 農商工部大臣・内部大臣)
前列左から
朴義秉夫人
伊藤博文夫人(伊藤梅子)
李址鎔夫人
末松生子(伊藤博文 次女)
明治39年12月撮影 伊藤公資料館 蔵 pic.twitter.com/YPmzYx4WeH— 六衛府 (@yukin_done) August 18, 2024
しかし、ハルビンで韓国の憲兵、安重根に暗サツされたことで、それは実現しませんでした。
国をあげた盛大な葬式で、梅子は心のなかでその返事をします。
「いいえ、あなた。たいそう面白い人生でしたよ」
わりない仲
冒頭に見たように、細かいところに脚色はありますが、女性関係が派手な伊藤博文でありながら、梅子とは生涯添い遂げているところに、2人の「わりない仲」ぶりが伺えます。
この関係って、『美味しんぼ』の海原雄山と亡妻の関係に少し似てますね。
亭主関白な雄山を、心優しい士郎は「母さんが可愛そうだ」と許せなかったし、私も「どうしてなのだろう」と思いましたが、勝手に奴隷のように見立てて同情するのは当人に誠に失礼な話です。
亡妻は亡妻としての自覚的な自己実現がそこにあったのかもしれません。雄山は厳しいけれど陰湿な男ではなかったですから、亡妻も嫌なら逃げ出していたでしょうしね。
男女の仲、夫婦の仲なんて、他人にはわからないものだ。ということです。
もっとも、それは女性が自覚的に「自分の人生は自分で責任を持つ」という覚悟で生きていればこその話であり、相手に依存して何かというと不平不満ばかり言ってるような人だったら、誰と結婚しても続かないでしょう。
あと、興味深かったのは、博文が偉くなってもなっても心が満たされないところ。
「この人の心はまるで砂漠のようだ。陽に当たれば当たるほど乾いてゆくのだ」
と、梅子は表現しています。
天下統一した豊臣秀吉も、辞世の句で、「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」と、まるで露のように儚いような我が人生であった。 大阪での栄華の日々も、儚い夢のようだった、と言っているのです。
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立身出世を果たし、戦国の世に天下統一を行い、好き勝手に暮らせたであろうに、満足な人生だった、幸せな人生だったとは言っていないのです。
要するに、人間の欲望というのは上を見れば終わりのないものであり、では人間の幸せって一体なんだろう、ということを考えさせます。
伊藤博文の夫妻のあり方を、どう思われますか。
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