『ネットのバカ』(中川淳一郎著、新潮社)は、ネットのやりとりに時間とエネルギーを割く近頃の風潮に警鐘を乱打しています。いつぞやのペニオク事件などネット上に起きた出来事や、Facebookなどの新しいツールなどを遡上にあげて解説しています。
ネットに熱中する風潮に警鐘
『ネットのバカ』(中川淳一郎著、新潮社)を読みました。
本書は、ネットの「友達」や「一攫千金」「愛国」などの幻想を戒めるとともに、一般の利用者はネットで利益を得ようとする人たちに、時間も金銭も搾り取られる仕組みにあることを、いつぞやのペニオク事件などネット上に起きた出来事や、Facebookなどの新しいツールなどを遡上にあげて解説しています。
中川淳一郎さんは、かねてからネットに熱中する風潮に警鐘を鳴らす主張をしてきましたし、炎上に熱中するネット右翼などに対して批判的です。
目次をご紹介します。
第1章 ネットの言論は不自由なものである
第2章 99.9%はクリックし続ける奴隷
第3章 一般人の勝者は1人だけ
第4章 バカ、エロ、バッシングがウケる
第5章 ネットでウケる新12ヶ条、叩かれる新12ヶ条
第6章 見栄としがらみの課金ゲーム
第7章 企業が知っておくべき「ネットの論理」
第8章 困った人たちはどこにいる
終章 本当にそのコミュニケーション、必要なのか?
これだけでも、本書が今のネットの問題をズバリ指摘していることがわかります。
ちなみに、中川淳一郎さんの著書については、『節約する人に貧しい人はいない。』(幻冬舎)をご紹介しました。
貧しくなるのは貧乏だからではなく、世間体を気にして無駄な金を使うからと唱えた書籍です。
ネットほど発言に不自由な場所はない
一見、ネットは自由に何でも表現できるイメージがありませんか。
でもそうではないというのが著者の指摘です。
たとえば、雑誌など特定の媒体ならターゲットが決まっています。
だから、その読者の関心から外れたことについてはあまり配慮しなくてもいい。
けれども、サイトは誰でもアクセスできるから、多様な価値観に配慮した書き方をしなければならない、だから不自由だ、ということです。
まあ、そこを押し切って特定のターゲットだけを向いた発信はできますが、後ろ向きな炎上対策は覚悟しなければなりません。
言い方を変えると、ネットの発信者の心得として「嫌なら見るな」は通用しないということです。
どうしてもそれに耐えられないならメンバー制のクロウズドな環境にこもるか、ブログやSNSを諦めるか、といったところでしょうか。
エゴサーチはするな
自分を検索して、自分について誰がどんな取り上げ方をしているか調べないほうがいいという話も書かれています。
誹謗中傷が書かれているのがわかっても不愉快なだけだし、文句を言ったところで、相手ははいそうですかと削除するどころか、そのやりとりをネタにまた勝手なことを中傷されるかもしれませんからね。
もちろん、法律に触れるものなら訴えることはできますが、それはそれで手こずります。
私も、火災で妻子が揃って意識不明の重体のときに、子供がキラキラネームだの、歳取ってからできた子だのと、いろいろ書かれました。
エゴ・サーチするといまだにそれらが出てくるのですが、一般人の不幸に複数のスレッドをたて、火事と関係ないコメントに熱中する粘着性や陰湿さには、改めて閉口させられます。
ネットで成り上がる可能性はゼロではないがきわめて低い
ネットビジネスのセミナーでは、どんな底辺の人間だろうが失敗者だろうが、ネットなら大化けできるような“お花畑な話”をしている人がいますが、冷静に考えると疑問ですよね。
だって、弁護士になりたいなら司法試験に合格する、出世するためにはまずその会社に入るなど、リアル社会では厳しくても自己実現の道筋は客観的に存在します。
でもネットの一攫千金なるものには、そういう道筋なんかないでしょう。つまり、ネットよりも実生活のほうがオーソドックスに成功しやすいということです。
ただし、中川淳一郎さんは、ネットで成り上がる可能性は「ゼロ」とは書いていません。
そうなるには、切り口を斬新にしたオンリーワン(誰も手を付けていない分野の第一人者)になることだそうです。
具体的な名前は出しませんが、「コンビニアイス評論家」でネットの有名人になった人いますよね。
会議にPCは持ち込まない
最近良くいますよね。でも中川淳一郎さんはそれを評価していません。
会議とはヒトが面と向かって話し合い、問題を抽出して解決する場であり、タイピングの場ではないからです。
どうしても記録したいというなら、手を使ってメモしたらいいんじゃないでしょうか。
手書きなら、その場の展開いかんで、きっちり箇条書きでもマインドマップのようなイレギュラーな形でも変幻自在に表現方法を変えられますから、よりリアルに記録を残せるでしょう?
Facebookは情報を得るだけで自分からは一切発信しないし交流もしない
本書の最大の眼目は、はたから見ると何とも痛々しいSNS中毒、とりわけFacebookに対する批判にあります。
著者はズバリ、「フェイスブックは気持ち悪い」と唾棄しています。私もそう思っているので、個人的には「よくぞ言ってくれた」と快哉を叫びたい気持ちです。
なぜなら、Facebookは実名を晒すやりとりであるためか、「イケてる自分」「いい人な自分」を見せようと、必死になって「友達」増やしと相互「いいね!」と無難な投稿に熱中しているからです。
そんなの、楽しいの? と思いませんか。
そんな時間があったら、自分の趣味や、リアルな友達との付き合いに時間をさいたほうがいい、というのが中川淳一郎さんの意見です。
もちろん、「客観的に不毛だろうが、私が何をしようと勝手だろう」という意見は「あり」です。
ただし、中川淳一郎さんは同書で、Facebookにかぎらず、ネットでのクリックや書き込みは、何らかの形であなたではない誰かの利益につながっているんだよ、と指摘しています。
ネットとはそういうものだ、そこに気が付かないとネットに時間もお金も奪われるだけだといいます。
どういう構造かをいちいち書きませんが、ネットのツールやサービスは慈善事業ではありませんからね。それどころか、膨大に利益が見込めるからこそ行われているわけで、それを支えているのが一般利用者なのです。
必死にクリックや書き込みをしている人々は、そこまで考えたことはありますか。
自分の能力を磨き本当に信頼できる知り合いをたくさん作れ
中川淳一郎さんは言います。ネットの「友達」が自分の葬式に来てくれるのか、と。
だからネットよりもリアルの時間を大事にしろと。
ネットで共通の趣味や目的の関係にある人ならば、実際に会えばメリットもあると言っています。
それはなるほどと思います。
ただ、中川淳一郎さんは、宿敵であるプロブロガーのイケダハヤト氏とも飲み、意見は違っても理解し合えた成果を語っていますが、私はそれについてはどうなんだろうねえと思います。
かつての吉田茂と三木武吉ではありませんが、酒を飲んだら戦う意識が削がれてしまうので、“現役”である間はあえて関わらない関係であるほうがいいんじゃないかと私は思います。
私も、中川淳一郎さんの言うように、信頼性という点で、リアル>ネットとは思います。
でも、私は中川淳一郎さんほど「リアル」にも幻想を抱いていません。その点が中川淳一郎さんと考えの異なるところです。
だって、ネットだって現実の人間がやっているわけです。根本的にひとつの人格の中での行為なのです。
ネットのふるまいはひどいが、実際に会ってみたら素晴らしい人間だった、ということはあるのでしょうか。私はそんなものはないと思いますよ。それは幻想でしょう。
もちろん、ネットの場合、私もそういう狙いは持っていますが、様々な目的のため、あえて本来の自分と異なる考え方や態度を表明することがあります。
でも、その端々に、本来の人格というのは見えてくるものではないでしょうか。
それを見抜けないような人は、きっとリアルでもきちんとした人間関係は構築できないだろうと思います。
要するに、リアルだろうがネットだろうが、ちゃんとした人間はちゃんとして、ダメな奴はダメな奴なんだと思うのです。
自分に本当に必要か改めて考えよう
一般の人が、普段の生活にどれだけスマホが必要なのか、私は甚だ懐疑的です。
もちろん、業務用端末として所持とデータ送信が義務付けられている場合もあると思いますし、購買時のポイントなどもスマホアプリで処理する場合もあるし、いわゆるメカ好きが趣味として持つことも否定しません。
私も、パソコンが一般的でないMS-DOS以前、本体だけで何十万も出して所持していましたが、そうやってコアな層がお金を落としてきたから、生産がこなれ、技術が進歩した今のパソコン市場があると思っています。
ただ、SNSの使い方は、少し意味が違うように思うのです。
味噌もクソも……、いや、例によって日本人の悪い癖で、付和雷同で自覚的欲求もないままスマホを持ち、必要もないくせに歩行中に閲覧に熱中して事故を起こすような、迷惑でマヌケなことは誰のためにもならないと思うのです。
ネット。何のために使うのか。私たちは改めて考えてみる必要があると思いました。
いずれにしても、ネットを知るという意味で、本書はおすすめの一冊です。
以上、『ネットのバカ』(中川淳一郎著、新潮社)は、ネットのやりとりに時間とエネルギーを割く近頃の風潮に警鐘を乱打しています、でした。
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