前世や生まれ変わりはあると思いますか。YouTube動画での、僧侶や宗教家、退行催眠施術を紹介するヨガ指導者などの見解をまとめてみました。同じ「仏教」でもなぜか見解が真っ向から異なる場合もありますが、みなさんは輪廻転生についていかがお考えになりますか。
前世や生まれ変わりはあるのか、というのは、科学が発達した現代でも答えの出ていない、人類がながく抱える謎です。
論理学的に「ない」ことは不在証明といってできませんが、「ある」といえる確たる根拠はいまだに出てきません。
しかし、科学的に理屈がたっていないだけで、否定まではできないという人もおり、引き続き調べても良いことではあると思います。
ちょっと前になりますが、『リサーチパネル』の調査では、『あなたは、輪廻転生を信じますか?』という問いに対して、『信じる』が50.9%、『信じない』が49.1%と、大変拮抗していました。
この数字が、もし選挙の出口調査の結果だったら、関係者は未明まで気が抜けないでしょうね。
……という軽口はともかくとして、前世や生まれ変わりはあるのか、今回はYouTubeの動画からまとめてみました。
といっても、言及している、すべてのチャンネルを網羅しているわけではなく、それをはっきりと主たるテーマにした動画をいくつかご紹介します。
大愚和尚(曹洞宗)は本来の定義からズレた回答
大愚和尚が解説。現代的「前世/輪廻転生」のとらえ方 https://t.co/TTZcnoqOqC @YouTubeより
— 石川良直 (@I_yoshinao) October 26, 2022
『大愚和尚の一問一答/Osho Taigu’s Heart of Buddha』という、曹洞宗の住職のチャンネルがあります。
チャンネル登録者数54.1万人というのは、宗教チャンネルでは群を抜いています。
そこで、このテーマにもどのような答えが出るか期待しました。
『大愚和尚が解説。現代的「前世/輪廻転生」のとらえ方』というタイトルの動画を拝見しましたが、結論から述べると「期待外れ」でした。
大愚和尚はまず、「前世、輪廻転生という言葉は、仏教でも使われ」ることを認めた上で、お釈迦様の前世について、過去世についての物語である『ジャータカ物語』を紹介。
「この輪廻転生、前世という考え方は、インドの古代インド人の考え方の中で出てきたものです」としながら、では実際のところどうなのか、核心に入ります。
それはどういうことか、と言うと、この輪廻転生、過去世、今世、来世、みたいなものが非常にこうスピリチュアルな考え方と結びついて、そして誰も見たことがない世界であるが故に、そういう概念を利用して人々の弱き心、弱った心につけ込むということが起きやすい。
私が、じゃあ過去世、輪廻転生というものについてどのように捉えているのかと言うと、どうでしょう、これをご覧になっているあなたのその鼻、その耳、それは、今世あなたが生まれて、1から作り上げているものでしょうかね?違いますよね?その鼻の形、その顔付き、体付き、骨格、それ、あなたのお父さん、あなたのお母さんから受け継いだもののはずです。
じゃあ、あなたのお父さん、お母さんのその鼻の高さ、耳の形、唇の厚さ、それはあなたのお父さん、お母さんから始まったのかって言うと、違いますよね?もっと前の世代の人、おじいちゃん、おばあちゃん、そのまたおじいちゃん、おばあちゃん、そのまたおじいちゃん、おばあちゃん、そこから、お会いしたこともないような御先祖様から、そのDNAを受け継いできたわけですよね。だから、皆さんの記憶の中にはないけれども、皆さんの体には、過去の記憶として、皆さんのお父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃんたちからのずーっとこの遺伝子としてそれが刻み込まれているわけです、受け継がれているわけです。(中略)
自分では全く知らない、若き時の祖父の姿。その一枚の写真の中に私がいるんです。過去世っていうのはこういうことだな、って。私たちが過去世って呼んでいるものは、この私自身の過去ではなくて、この私に命を受け継いだ者それを過去と捉えて欲しいんです。
内容を簡単にまとめると、自分はお祖父さんに似ていたことに気づいた。
お祖父さんの写真なのに、まるで「私」がいるようだ。
つまり、子孫は先祖の生まれ変わりといえる、という話です。
私は、それを聞いた瞬間、椅子から転げ落ちました。
オイオイ、なんだそりゃって感じですよ。
「それを、輪廻転生というような言葉で定義するっていうのは、私は避けたいと思っている」って、そりゃそーでしょう。最初から定義の前提がズレてますもの。
散々引っ張っといて、「遺伝」と「生まれ変わり」を混同して、お茶を濁されただけですから。
「前世」や「うまれかわり」の主体というのは、たしかに曖昧です。
が、それはいずれにしても、その「宿る」肉体がいったん没した後、別の肉体でまた営みが再開するものなのか、という話です。
「前世」や「生まれ変わり」というのは、そういう話ですよね。
つまり、「輪廻転生、生まれ変わり」というのは、哲学で言えば、唯物論では説明の付かない観念論の話なんです。
物質的根拠のないものでも、生命を保ち続けられるのか、という話ですよ。
ところが、先祖から耳だの目だのが似ているという話は、遺伝子という客観的実在の引き継ぎを根拠としたれっきとした唯物論で、つまり合理的に説明のつくことなんです。
先祖のもの(遺伝子)を受け継いで子孫が存在する。
そんなことはすでに「わかっていること」で、そうではなくて、遺伝子のような「物質」ではなく、人格とか精神とか、もう少し神秘的に言えば霊魂などという「観念」はまた新しい肉体で営みを再開できるのか、という話でしょう。
唯物論と観念論は根本的に違う。
哲学的にはイロハのイです。
私は、昭和のはじめ頃に、幼くしてチフスで亡くなった、私の伯父にあたる人に似ていると、祖母に言われたことはあります。
そういう場合に、「まるで伯父の生まれ変わりのようだ」と言われることはあります。
たしかに、伯父が没して、私に転生したかもしれません。絶対にないとは言いません。
ただ、それは合理的に見れば、遺伝子を受け継いで外見が似ているだけで、ただちに生まれ変わりということにはならないし、もしそうだとしても、少なくともそれだけを「生まれ変わり」と定義するものではなく、あくまでもアカの他人を含めた別の肉体で、遺伝子のような客観的実在ではなく観念としての生命が転生するかどうかが問われているのです。
高科修僧侶(浄土真宗大谷派)心理学の「動機づけられた推論」
法話「輪廻転生はあるの?」真宗大谷派僧侶 高科 修 師 https://t.co/BA6n4HxNDf @YouTubeより
— 石川良直 (@I_yoshinao) October 26, 2022
『お坊さんの小話(法話)~浄土真宗~』というチャンネルを開設しているのは、浄土真宗大谷派僧侶の高科修さん(法名:釋完修)。
『法話「輪廻転生はあるの?」真宗大谷派僧侶 高科 修 師』というタイトルの動画を公開しています。
が、この方も率直に申し上げて、論旨に疑問ありです。
前述の大愚和尚の場合には、本来の話題や議論になる「輪廻転生」とは違うものを語っていましたが、高科修僧侶の場合には、結果的に回答自体を回避しています。
しかも、正面から「わからない」とか「答えない」というのではなく、「そんなことどうでもいい」という回答です。
「だったら、はじめからそのタイトルで動画作るなよー」と、突っ込みたくありませんか。
それに、回避の根拠が、心理学でいう「動機づけられた推論」の憾みがあると思いました。
動画によると、話のマクラとして、お経を上げに行った家での、高校生の男の子の話を取り上げます。
「生まれ変わりはあると思うけ、ないと思うけ。なんか最近、学校でいやーなことあって、自分で自分のことも性格も嫌になって、生まれ変わりがあるなら、生まれ変われれたらいいかな」と、言われたとか。
そこで、輪廻転生について言及します。
高科修僧侶は、「仏教には、輪廻転生というものの考えはございません。お釈迦様は輪廻転生を否定いたしました」と、まず断言します。
これは、大愚和尚と見解が真っ向から対立しますね。
高科修僧侶は、『ジャータカ物語』を、仏教とは切り離して考えろということなのかな。
いずれにしても、その後が合点がいきません。
生まれ変わった人は、つまり生まれる前の記憶を持っている人には、生まれ変わりはあるでしょう。でも、私には、生まれ変わる前の記憶はございません。
そうなってくると、私には生まれ変わりはないということになります
ある・ない、というのはそういうことです。
そして、この生まれ変わる輪廻転生があるかないか、このことに固執していくと、実はとんでもないことになってまいります。
浄土真宗は、輪廻転生、生まれ変わり、そういうものはないとしております。なぜないとしておるのか。乱暴な言葉で言うと、そんなことはどうでもいいという言葉になります。
じゃあなぜ、どうでもいいというのか。実はこういうことです。
生まれ変わりがあるとしましょう。ならば、そうあれば、今この男の子がいうたように、今は嫌なことがある。今は苦しいことがある。だから、次生まれた変わった時にちゃんとすればいい。生まれ変わったらなんか素敵なものが待ってるかもしれん。結局、今はおろそかになります。
次に、生まれ変わりはないとします。ならばどうせ、いっぺんしか人間に生まれてこれない、生まれ変わりはないないがや。なんなら、それなら、おもしろおかしく楽しく、今を生きればいいと。これもまた、今を生きるということがいい加減になってまいります。
生まれ変わり、輪廻転生がある・ないに固執しますと、結局は今を生きるということが、どうでもいい。おろそかになる。それから、いいかげんになってしまいます。生まれ変わりがあってもなくても、私たちは現実に今を今を生きとるがです。
今を生きて行かなければ、どうにもならんのです。亡くなった後どやとか、そして亡くなった後あるとかないとか、生まれ変わりがあると考えとか、そんなことを考えて生きていく必要などこれっぽっちもありません。
最初に、「お釈迦様」が輪廻転生を認めていないとしているのですから、それで今回の結論は出ているはずです。
しかも、「「浄土真宗」も輪廻転生はない」としているといいます。
それだけ旗幟鮮明に「否定」の結論を出しておきながら、なぜかそこから、わざわざ話を「ある・ない、というのはそういうことです」と、不可知な方向に引き戻しているのです。
そして、植木等の歌に出てくるように、「そんなこたぁどーでも、いーじゃねーか」という結論でまとめているのです。
もちろん、「そんなことを考えて生きていく必要などこれっぽっちもありません。」という意見自体を否定しているのではありません。
だったら、最初からそういうタイトルにすれば良い、と思うのです。
「輪廻転生の有無議論に意味はあるのか。浄土真宗は『今』を生きることがすべて。余計なことは考えるな」とかね。
違いますか?
「ない」という教えも、「ある」という説も挙げながら、ではそれらをどう見るかという点では「ある・ない、というのはそういうことです。」などと真偽に決着をつけず不可知論にとどまり、あげくに「どっちでもいい」とするのは、結局、その問題について答えを出していないじゃないか、ということになります。
つまり、読みようによっては、どう転んでも良いように、「ある」「ない」「どっちでもいい」と、競馬で言う「三点買い」をしているようなものではないでしょうか。
このへんの曖昧さが、宗教の宗教たる由縁なのかな。
さらに、心理学でいう「動機づけられた推論」と思えるロジックもあります。
つまり、自分に都合が良い仮定だけを挙げて、結論との道筋を作ってしまうことです。
具体的には、「生まれ変わりがある」ならば、「結局、今はおろそかにな」ると決めつけているところです。
「生まれ変わりはない」ならば、「これもまた、今を生きるということがいい加減になってまいります」と決めつけています。
「輪廻転生」なんぞを考えるようでは、どっちにしても今を疎かにするに決まっている、と唾棄しているのです。
そういう人もいるかもしれません。
しかし、そういう人だけとは限りません。
つまり、輪廻転生を考えることイコール「今」を考えなくさせる、ということではありません。
たとえば、『ヨガ・シャラ細江たかゆき』チャンネルの細江たかゆきさんは、「輪廻転生」を考えることは良いことだと言っています。
学会でも発表された「輪廻転生」 【驚愕】霊の世界からのメッセージとは? https://t.co/xPAJLuFUQn @YouTubeより
— 石川良直 (@I_yoshinao) October 26, 2022
「生まれ変わりがある」と思えたメリットとして、次の点を枚挙しています。
- 人生に対する幸福度が高まる
現在の苦労や立場は、次に繋がる「意味のあるもの」という思いが生じる - 死への恐怖が減少
次の人生がある - 自己や自分の人生への価値増大
生きる価値を儚む自殺・無差別殺人等が減る - 苦難を乗り越える力が高まる
ここで人生が終わるわけではないから、投げやりになるのはやめようと思う - 他人に優しくなれる
色んな人に生まれ変われることがわかることで、他人を理解し寛容になれる - 地球に優しくなれる
自分がまた生まれ変わる場所を大切にしようという気持ちになる
もちろん、これは細江たかゆきさんの意見で、高科修僧侶の考え方とは違うかもしれません。
しかし、言論は自由、意見の価値は五分五分です。
とにかく、高科修僧侶の考え方がすべてではない、ということです。
少なくとも、私は細江たかゆきさんの意見はもっともだと思いました。
もし、「実は輪廻転生があるという話は真実だったんだよ。科学的に立証されたよ」ということになったら、私は細江たかゆきさんが枚挙したすべてに当てはまる「心の変化」をすると思います。
ちなみに今回は触れませんが、上掲のOGPで細江たかゆきさんは、論議を呼んだ「退行催眠によるネパール人の前世を呼び覚ました」とする動画を紹介しています。
さらに、私から付け加えると、もし『「生まれ変わりはない」ならば、おもしろおかしく楽しく、今を生きればいいと。』僧侶が書かれている点についても、真逆の見方もできると指摘しておきます。
つまり、1度しかない人生だから、道徳もルールも守り、きちんと真面目に生きようという考え方をする人だっているだろう、ということです。
さすれば、高科修僧侶のロジックの前提としたものは根本から崩れます。
僧侶は、動画の中で再三、「そんなこと(輪廻転生)を考える必要は(指でつまむ仕草で)これっぽっちもありません。『今』を生きていかなければならならないのです」と繰り返しているのですが、私たちが「今」をどう生きるかという価値的命題と、輪廻転生があるかないかの客観的命題は別です。
私たちが、生きる上において必要であるかないかにかかわらず、輪廻転生があるかないかという命題自体は成立する、というよりだからこそ動画のタイトルにしたのでしょう。
もっとわかりやすく書くと、冒頭の「高校生の男の子」の悩み解決と、輪廻転生の有無は別問題です。
「高校生の男の子」には、輪廻転生の有無に関わらず、今どう生きるのかを考えさせればそれでいいのだと私は思います。
「輪廻転生があろうがなかろうが、今の人生は1度きりだ。後悔のないよう、今を大事に生きよう」と言えばいいじゃないでしょうか。
菊谷隆太(浄土真宗親鸞会)輪廻転生とは「車輪の始終なきが如し」
輪廻転生の意味とは?ブッダの教えなのか https://t.co/LsgAxM1HY1 @YouTubeより
— 石川良直 (@I_yoshinao) October 26, 2022
長くなりましたが、シンガリです。
『仏教に学ぶ幸福論 by 菊谷隆太』チャンネルです。
チャンネル登録者数21.9万人。もしかしたら、もっとも注目されている宗教系チャンネルと言えるかもしれません。
理由は、以前書いたように、浄土真宗親鸞会が何かと物議を醸していること、僧侶の格好をしていないのに仏教に通暁していること、などです。
私は、以前書いたように、コンテンツとしての完成度が高いこと、動画の限りではいずれにしても違法伝導とはいえないことなどから、菊谷隆太さんの動画をご紹介したことがあります。
菊谷隆太さんは、『輪廻転生の意味とは?ブッダの教えなのか』というタイトルの動画を上げています。
菊谷隆太さんによれば、「輪廻転生は仏陀の教えなのか」と時々聞かれるが、「当然、輪廻転生は仏教で説かれていますよ」と述べています。
同じ浄土真宗でも、先の高科修僧侶(大谷派)とは、ここで見解が真っ向から対立します。
菊谷隆太さんは不思議がっていますが、そりゃ、同じ浄土真宗を標榜する僧侶が、やはりYouTubeで「ない」と言っているのですから、視聴する人は迷うのではないでしょうか。
ましてや、冒頭のアンケートにあるように、国民を二分する話なのです。
それはともかくとして、菊谷隆太さんは、唯物論としての「意識」、つまり、脳という客観的実在があるからこそ「心」がある、という考え方を説明したうえで、今日の哲学でも脳科学でも、それでは脳をどれだけ解明しても説明がつかないことがあるとして、たとえば、青空が気持ち良いという心は、脳の電気信号がどうしてそう思わせるのか、など現在わかっていない例をあげます。
そして、心が何なのか、どこからきてどこへ行くのかなど、科学的には引き続き調べるべき未解明の問題だといいます。
では、仏教では、輪廻転生はどこに出てくるのでしょうか。
有情、輪廻して六道に生きること、なお車輪の始終なきが如し
『心地観経』というお経にあるといいます。
「有情」とは心ある者ということで、要するに人間、私たちのことです。
「始終ない」というのは、私たちの心は無始無終であるということです。
私たちの生命は、悠久の過去から永遠の未来に流れている。
大河に一つの泡ができてパッと消えるのが肉体であるが、生命はずっと続くと。
生まれる前は前世と言い、生まれてから死ぬまでを現世、死んだ後を来世という、それが始めも終わりもなく続くと。
私たちは、すぐはじめと終わりをはっきりさせたがりますが、まあそんなこといったら、宇宙だってどこが果てで、いつ始まったのか、その前は何だったのかと言えば、人間の概念では説明がつかないですよね。
生命は永遠であるとお釈迦様は説かれている、と菊谷隆太さんは言います。
始めも終わりもないから、図で表すとすれば、線ではなく円である、
だから、「車輪の始終なきが如し」というわけです。
しかし、菊谷隆太さん。
このお経は大乗経典ですので、お釈迦様の直説とは言い難いといわれていますよ。
ということで、この命題、結局完璧に合点のいく見解には、今のところ出会っておりません。
みなさんはいかがお考えになりますか。
まだ、他にも輪廻転生について語っている動画はありますので、このテーマはまた別の機会に続きができればと思います。
以上、前世や生まれ変わりはあると思いますか。YouTube動画での、僧侶や宗教家、退行催眠施術を紹介するヨガ指導者などの見解を紹介、でした。
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