めぐまれない「ほしのもと」の人も、生きづらい人も、仏教を学んでみませんか。といっても新宗教の勧誘ではありませんよ。本来のお釈迦様の仏教は、宗教と言っても神様や霊魂などを前提とせず、人生は一切皆苦(苦しいことばかり)と悟るための世界観なのです。
私ごとですが、今春から35年ぶりに学業に復帰しました。
大学院修士課程の仏教学専攻です。
といっても、学部時代に仏教を学んだわけではありません。
なにか新宗教にかぶれたわけでもありません。
40代ならMBA(経営学修士)を狙ったかも知れませんが……
決意したのは昨年秋です。
1週間後には願書を出して、今年1月に受験しました。
22歳で学部卒業、25歳のとき、別の大学に学士入学しましたが、結核になってしまったために、なし崩しに挫折。
30歳のときに、あることに興味を持ち、大学院を2校受けたものの失敗。
それ以来ですから、もう35年ぶりの「学生」復帰となります。
「どんだけ学校好きなんだよ」と思われるかな。
逆です。
当時は嫌いで、まともな学生生活を送らなかったから、不完全燃焼のまま歳を取ってしまい、このままでは生涯このモヤモヤを残したままになると思い、今回「学生」復帰を決意したわけです。
学部時代は、仏教の「ぶ」も学んでいません。
そもそも私は、ジャパンスケプティクス副会長(どんな団体かはググって)をつとめたこともあり、現在も東京唯物論研究会に入れていただいている唯物論者なので、宗教に近づくのはさすがに対外的にわかりにくいかな、ぐらいに思っていました。
しかし、対外的にわかりにくかろうが、自分が進みたけば進めばいいわけで、ここでは詳しく書きませんが、内心の哲学と、仏門や宗教をどう見るかは別の問題ですから、そのへんは割り切って今回進学いたしました。
東京唯物論研究会も、身分は「学生会員」ですから(笑)
毒親が仏教にアプローチするきっかけ
きっかけは、59歳の春でした。
Facebookの「友達」である、学生時代のゼミの同級生(年齢は1つ上)が、還暦を迎えるにあたって、こう投稿しました。
「振り返ると、自分には出来すぎた人生だった」
これは、自慢と謙遜が含まれた絶妙な表現です。
翻って自分は、どんなに見栄を張ろうとしても、同じことは言えませんでした。
いや、自分の人生が悲惨すぎてね。
火災のような不幸もありましたし、妻は私と結婚してから4回も手術しているし(それまでは0回)、毒親、毒妹、毒先祖、毒親戚……足を引っ張られまくった人生を振り返ると、疑念と憤りと悔しさしか出てきません。
えっ?なんでも親のせいにするなって?
そんなことを言う苦労知らずのあなたには、マイケル・サンデルさんの指摘する「親ガチャ」や、「毒親」とはなにか、について勉強してほしいです。
誰のどんな人生であれ、その原点には「親ガチャ」は間違いなく影響を与えているという話です。
たとえば、貧乏だけど猛烈に努力して東大を出たとかいって、「親ガチャ」を否定するおばかさんがいるのですが、東大に価値を感じて勉強する「環境」や、それで結果が出る「知能」自体が「親ガチャ」なんですよ。わかってないね。
マブチモーター社長宅殺人放火事件実行犯のように、万引きしないと生きていけない極貧だったり、
川口祖父母殺害事件のように、親から祖父母を殺せなんて命じられたり
少数かもしれませんが、そういう「ほしのもと」だってあるんですよ。
そういう人にとって、東大もへったくれもないでしょ。
良くも悪くも、子の人生における原点に、親の育て方や環境などといった影響は否定出来ないのです。
「毒親」という言葉が嫌いなあなた。
「毒親」という概念と、真正面から向き合えないのは、あなた自身が毒親だからでしょう。
それはさておき、不幸な人生と毒親に泣かされた私がまず行ったのは、先祖調べでした。
どんな腐りきった家系かを見てやりたかったのです。
その結果、全員がダメなのではなく、立派な人もいるものの、
一部のふざけた親類によって、その子孫一族が荒んでいることもわかりました。
では、その荒む原因を作った親戚は、どうしてそんなことをしたのだろう。
また、毒親というのは毒親から作られるので、私にとっては父方も母方も、祖父母は毒まみれの存在でした。
さらにいえば、そういう毒の環境で育てられた私の人間性は、対外的にも生きづらい日々でした。
友人のつもりや知人にも、騙されたり、傷つけられたりしました。
あ、心をね。体を傷つけたら傷害事件になっちゃうから。
もちろん、傷害事件は困りますよね。
でも、別の見方として、そんなひどい人たちではあるけれども、刑事罰として罰せる訳では無いことは、逆に悩ましかった。
ひどい人たちなので、断罪できる根拠が無いと、すっきりしない。
だって、腹は立つけど、その根拠が無いと、私が感情的なだけということになってしまうでしょう。
法的にはむずかしいけれども、道義的、常識的にアレな人たちを、どう断罪したらいいのか。
「〇〇だから、こいつらはひどい奴らなのだ」という〇〇の理屈が欲しかった。
そこで、腑に落ちたのが「仏教」でした。
たとえば八正道とか、六波羅蜜とか、仏教的な目指す志ってありますよね。
そこから外れることを確認することで、「ああ、こいつは八正道の『正語』に反しているな」とか、「腹が立つ」根拠がはっきりすることで、少しずつ過去の疑念や憤りや悔しさについて、気持ちを納めることが出来たのです。
仏教的にダメな奴だったんだ、ということを確認したわけです。
えっ、仏教ってそういう「利用」をするものではないだろうって?
いや、別に相手に対して、それを言うわけではないですからね。
あくまで自分の心の中で、「人はどうあるべきか」と考えるとき、親類の某についての怒りがふつふつと湧いてきたら、「ああ、あいつは仏教の〇〇に反しているだめなやつだからああなんだ」と思うことで、ハラも立たなくなります。
いや、そこまではいかないかな。
腹はたたなくはないけれど、以前よりは落ち着いていられるということです。
親も兄弟も、先祖も親類も友人も、仏教的にはろくでもないやつだった。
でも、自分はそうならないようにしよう。
そう思うことで、自分の気持ちを、以前よりは落ち着けることができるようになりました。
還暦過ぎたときが本当に学びたいものを学べるとき
今は、生涯学習と言って、いったん学業を離れた人が、大学や大学院に戻るケースが少なくありません。
大学も、学生を集めたいし、1990年から学位の規制緩和が行われ、学位の分野が大幅に増えました。
今からなら、秋入学の大学もありますよ。
定年後の生活設計に、組み込まれてはいかがですか。
まあ、40代ならね、MBA(経営学修士)を……なんて考えますが、還暦過ぎたら、大学のブランドだとか就職率とか、そういう余計な価値は一切関係なく、本当に自分が学修したいものに取り組めるので、おすすめしますよ。
以上、35年ぶりに学業に復帰。大学院修士課程の仏教学専攻です。といっても、学部時代に仏教を学んだわけではありません。どうして?でした。
大学院・通信制大学 2023 (AERAムック) – 朝日新聞出版