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六郷の渡し(神奈川県川崎市川崎区)は旧東海道における江戸六郷領の八幡塚村(現在の六郷)と川崎宿を結ぶ重要な拠点

六郷の渡し(神奈川県川崎市川崎区)は、かつて旧東海道における江戸六郷領の八幡塚村(現在の大田区仲六郷)と川崎宿の間を結ぶ重要な拠点でした。旧東海道の歴史ある船渡場だったことから、その跡地には記念碑がたち川崎市のスポットの一つになっています。

八幡塚村(現在の六郷)と川崎宿の間を結ぶ重要な渡船場

東京都と神奈川県の境になる多摩川。

東京の南端の大田区六郷と、神奈川県川崎市川崎区をつないでいるのが六郷橋といいます。

その川崎側には、江戸時代、六郷の渡しといわれ、旧東海道として文字通り人や物が渡る渡船場であったことを示す六郷の渡し跡の碑が、六郷橋の川崎側袂(たもと)に建てられています。

以下は、碑に刻まれている文言です。

六郷の渡しは、旧東海道における八幡塚村と川崎宿の間を結ぶ重要な渡船場であった。「北城記」に武田信玄の侵入を阻止するため六郷橋を焼き落としたとある事から古くから橋はあったと思われるが、慶長五年(1600)家康が架橋し慶長十八年(1613)頃にも架け替え工事の記録がある。その後貞亨五年(1688)の洪水で流出してから橋はかけなくなり、もっぱら渡船が用いられた。明治七年(1874)に地元の鈴木左内が有料の木橋をかけ、左内橋とよばれた。
大正十四年(1925)先代のコンクリート橋が完成、渡し船はこの時をもって消滅した。

1600年、多摩川の旧東海道に、徳川家康が六郷大橋(長さ120間)を架け、千住大橋、両国橋とともに江戸の三大橋とされましたが、多摩川の洪水によって度々流失したことから、渡船が用いられるようになったそうです。

「先代のコンクリート橋」というのは、昭和の後期まで使われていたので覚えています。

明治天皇行幸の碑に、船橋をかけ渡ったと絵とともに解説されています。

六郷の渡しについては、次のような説明板もたっています。


多摩川の六郷大橋は、江戸時代初期には流出の都度、架け替えされていました。
しかし、1688年の流出以降は、架橋をやめて渡船となりました。
田中休愚の活躍で、1709年からは、渡しの運営を川崎宿が請け負うようになり、宿場財政の収入源となりました。

東海道かわさき宿交流館の公式サイトによると、『六郷の渡し』はこのような説明もあります。
1729年、将軍徳川吉宗に献上するため、象を長崎から江戸まで歩かせて移動しました。
東海道を歩く象を見た人たちは、その姿と大きさにどんなにかびっくりしたことでしょう。
大変だったのは、多摩川を越える方法です。
多摩川に船を並べてその上に板を敷き、象を渡らせたという話です。

東海道かわさき宿交流館については、以前ご紹介しました。
東海道かわさき宿交流館(川崎市川崎区砂子町)は川崎宿史跡拠点として東海道川崎宿から大都市川崎市までの歴史を展示
東海道かわさき宿交流館(川崎市川崎区砂子町)は東海道五十三次と川崎宿についての様々な展示を行う川崎宿史跡の拠点です。川崎が江戸時代から現在までどう発展したか、川崎ゆかりの偉人の実績紹介など含め多くの関連展示物が揃う入館無料の施設です。

東海道かわさき宿交流館(川崎市川崎区砂子町)は、東海道五十三次と川崎宿についての様々な展示を行う川崎宿史跡の拠点です。

また、この場所には『長十郎なしのふるさと』という説明板もたっています。

どういうことか、やはり記載されている内容を引用します。

多摩川沿いにどこまでも続いていた梨畑。明治中頃、病害に強く甘い新種が大師河原村で生まれた。発見者当麻辰次郎の屋号をとり、「長十郎」と命名されたこの梨は川崎からやがて全国区へ

つまり、長十郎という梨は、川崎が発祥の地だったということですね。

工業地帯になった川崎ですが、川崎市公式サイトによると、現在も「中原区、高津区、宮前区、多摩区、麻生区の約30haで栽培されてい」るそうです。

そういえば、以前は東京の八百屋さんに、二十世紀とともに並んでいた長十郎梨ですが、今は幸水梨の方が多く流通している気がします。

ぜひ長十郎に巻き返していただきたいですね。

万年横丁・大師道

現在の六郷橋は、1984年に架け替えられたものです。

1925年の橋の横に作られたからか、旧東海道はその横を走っています。

そのまま南下する東海道と、川崎大師に向かう大師道に分岐します。

碑には、『万年横丁・大師道』と刻まれています。

万年横丁とは、万年屋という川崎宿場一の奈良茶飯の茶屋のことです。

多摩川を渡って、川崎宿に入ってすぐの江戸口(下手土居)にあったといいます。

万年屋は、今はマンションになり面影はありませんが、案内板は残っています。

六郷の渡しと旅籠街という説明板から引用します。

家康が架けた六郷大橋は洪水で流され、以後、実に二百年の間、渡し舟の時代が続きました。
舟をおりて川崎宿に入ると、街道筋は賑やかな旅籠街。幕末のはやり唄に「川崎宿で名高い家は、万年、新田屋、会津屋、藤屋、小土呂じゃ小宮……」。なかでも万年屋とその奈良茶屋は有名でした。

現在は、川崎大師へは、国道409号線と京急大師線が通っています。

東海道かわさき宿交流館が発行している『東海道川崎宿の見どころ』というまち歩きシートに書かれた航空写真の1番が『六郷の渡し』、5番が『大師道入り口』、6番が『万年屋解説板』です。

万年屋解説板の向かいには、オーケーストア川崎本町店という激安スーパーがありますが、お店の正面入口横に、「東海道川崎宿史跡めぐり」というタイトルで、旧東海道五十三次川崎宿の解説板があります。

東海道かわさき宿交流館の解説によると、万年屋にはアメリカ総領事館ハリスが宿泊し、皇女和宮も訪れたという言い伝えが残っているとか。そして、実際に万年屋があったのはその解説板のところではなく、まさにOKストアがあったところだそうです。

スーパーが、わざわざ解説板を設置しているのは、そういう理由だったのです。

旧東海道の川崎宿史跡めぐり。見どころは多そうです。

一度足を運ばれたらいかがでしょうか。

以上、六郷の渡し(神奈川県川崎市川崎区)は旧東海道における江戸六郷領の八幡塚村(現在の六郷)と川崎宿を結ぶ重要な拠点、でした。

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