おくのほそ道(原作/松尾芭蕉著、作画/バラエティ・アートワークス、Teamバンミカス)は、紀行作品の代表的存在を漫画化したものです。作品中に、元禄文化期に活躍した俳人松尾芭蕉の紀行及び多数の俳句が詠み込まれています。
『おくのほそ道』は、元禄文化期に活躍した、元禄三文豪の一人である俳人、松尾芭蕉による日本の文学史上有名な紀行と俳諧の作品です。
バラエティ・アートワークスが漫画化し、Teamバンミカスから上梓されています。
内容は、元武士である門人の河合曾良を伴い江戸を発ち、奥州(今の岩手県)、北陸道を巡った紀行文です
紀行と俳諧の作品を漫画化するのはめずらしいとですが、まんがで読破シリーズ全56巻の、第48巻として刊行されています。
本書は2023年1月13日現在、KindleUnlimitedの読み放題リストに含まれています。
「月日は永遠の旅人。私にとって、旅は人生そのものだ」
さて、松尾芭蕉は、近松門左衛門、井原西鶴らと並んで元禄三文豪に数えられている文学史上に名を残すといわれる大俳人です。
松尾芭蕉が生涯読んだ句は約900句といわれています。
“侘び・さび・細み”の精神、“匂ひ・うつり・響き”といった嗅覚・視覚・聴覚を駆使した文章表現を通して多くの人々を魅了し、「俳聖」と呼ばれるようになったのです。
その代表作が、『おくの細道』です。
舞台は、江戸・深川。
46歳の松尾芭蕉が、旅支度をするところから始まります。
西国の旅から帰ってきたばかりなのに。
「月日は永遠の旅人。私にとって、旅は人生そのものだ」と言います。
見送りに来た、門弟たちを詠います。
行く春や
鳥啼き魚の
目は涙
この世は、夢幻のようにはかなく、別れの涙など無用だと知りながらも、これからのはめかな旅路を思うと、別れを惜しまずにはいられない、と松尾芭蕉は思います。
元伊勢長島藩の武士である門人の河合曾良を伴った松尾芭蕉は、草加から日光へ。
あらたふと
青葉若葉の
日の光
次に、那須の黒羽を目指し、そして蘆野へ。
田一枚
植ゑて立ち去る
柳かな
もう田一枚植え終わるほどの時が経っていたようだ。
そして、白河の関を超えて、みちのくへ。
早苗とる
手もとや昔
しのぶ摺り
今、稲の刈り取りをしている娘たちの手つきを見ていると、昔しのぶ摺りをしていた手つきが偲ばれるようだ。
5月には仙台に着きました。
あやめ草
足に結ばん
草鞋の尾
端午の節句の菖蒲草を思わせる、紺の染緒の草履は、邪気を払い、旅の健脚を守ってくれるだろう。
さらに、北上川にそって歩き、源義経が非業の死を遂げたと言われる高館(岩手県)に着きました。
夏草や
兵どもが
夢の跡
義経一頭や藤原一族が、功名・栄華を夢見た場所だが、今はそれも儚く消え、ただ夏草が茂っているばかりだ。
山形・尾花沢から馬で行くこと七里。立石寺に向かった。
閑かさや
岩にしみ入る
蝉の声
立石寺は、心澄むように静まり返っていた。
最上川の舟下りも経験。
五月雨を
あつめて早し
最上川
もともと急で知られる最上川が、折からの五月雨を集めて、凄まじい勢いで流れ下っている。
次に目指したのは出羽三山。
ありがたや
雪をかをらす
南谷
ありがたいことに、残雪の峰々から冷ややかな風が、私のいる南谷まで吹いてくる。神聖な羽黒山の雰囲気にぴったりだ。
鼠の関所を越え、越後国へ。
雨や猛暑が続き、松尾芭蕉は持病に苦しめられたそうです。
持病とは、裂肛(切れ痔)と疝気(せんき:腹部の疼痛)です。
伏せながらも、佐渡の見える日本海の荒海に詠いました
荒海や
佐渡に横たふ
天の河
日本海の荒海のかなたに、ルジンの島として知られる佐渡ヶ島がある。その孤島へかけて、夜空に天の川が大きく横たわっている。
石川県の山中温泉にたどり着きましたが、ここで河合曾良がギブアップ。
伊勢国長島の親類のもとにいったん身を寄せ、体を治すことにしました。
とうとう、松尾芭蕉は、みちのく一人旅です。
敦賀で宿を取りましたが、北国の天気は変わりやすいと嘆きます。
やっと秋晴れになり、種の浜に船を出したものの、夕暮れの寂寥感に胸を突かれます。
寂しさや
須磨に勝ちたる
浜の秋
この夕暮れの寂しさは、『源氏物語』以来、よくいわれる須磨の浦の秋の寂しさに勝るようです。
そして、みちのくの旅の終着地、大垣に着き、元気になった河合曾良と再会します。
しかし、江戸の自宅はもう処分してしまいました。
松尾芭蕉は、次の旅に出ることを考えています。
「今度は、伊勢神宮の遷宮式を拝観しようと思ってね」
蛤の
ふたみに別れ
行く秋ぞ
離れがたい、蛤のふたと身が別れるように、名残を惜しみながら人々と別れ、松尾芭蕉は伊勢の二見ヶ浦へ旅立っていきました。
東海道と松尾芭蕉
『おくのほそ道』は奥州、北海道の紀行でしたが、松尾芭蕉は東海道も詠っています。
川崎南部の川崎区にある、京急線八丁畷駅近くに、松尾芭蕉の句碑と、川崎市の説明板があります。
松尾芭蕉の句碑は、元禄三文豪の一人である松尾芭蕉の句が書き刻まれた碑です。
東海道は、品川の宿を超えると、六郷の渡し(東京都と神奈川県堺の多摩川を渡す六郷橋)を超えて、川崎宿に入ります。
東海道の川崎宿は、全部で26あるとされます。
その東海道川崎宿の史跡の中で25番目は、旅籠が集中するエリアからは外れていますが、松尾芭蕉と門弟たちはそこで惜別の句を詠み合ったといわれています。
俳聖松尾芭蕉は、元禄七年 (一六九四) 五月、江戸深川の庵を たち、郷里、伊賀(現在の三重県) への帰途、川崎宿に立ち寄り、 門弟たちとの惜別の思いをこの句碑にある
麦の穂をたよりにつかむ
別れかな
の句にたくしました。
芭蕉は、「さび」「しおり」「ほそみ」「かろみ」の句風、すなわち「蕉風」を確立し、同じ年の十月、大阪で、
旅に病んで夢は枯野をかけめぐる
という辞世の句をのこし、五十一歳の生涯をとじました。
それから百三十余年後の文政十三年(一八三〇)八月、 俳人一種は、俳聖の道跡をしのび、天保の三大俳人のひとりに数えられた師の桜井梅室に筆を染めてもらい、こ の句碑を建てました。
昭和五十九年十月
川崎市教育委員会
松尾芭蕉が江戸深川を出発して郷里に向け東海道を旅する途中、江戸から送ってきてくれた門弟たちといよいよお別れをすることになりましたが、門弟たちは名残惜しくてなかなかわかれることができません。
そこで、八丁畷の茶屋でだんごを食べながら詠み合った惜別の句なのです。
門弟たちは、松尾芭蕉に対してこのような句を読んでいます。
刈り込みし 麦の匂いや 宿の内 利牛
麦畑や 出ぬけても 猶麦の中 野坡
浦風や むらがる蝿の はなれぎは 岱水
松尾芭蕉はその半年後に亡くなったので、門弟たちとは結果的に“今生の別れ”になってしまいました。
句には「刈り込みし麦の匂い」や「麦畑」「麦の穂」という言葉が出てきます。
当時の八丁畷は、民家や商店も少なくなった田畑と街道だったということがうかがえます。
時代劇によく出てくる腰掛け茶屋のシーンがそんな感じです。
何もない野っ原に、ぽつんと茶店が建っているという光景が思い浮かびます。
先日の泉麻人さんの『気になる物件』(泉麻人著、扶桑社)も、いわゆる“由緒ある名所・史蹟”の記録などには残っていない、散歩の途中で見かけて気になったものを綴っています。
逆に、賑やかでないところのほうが、書き綴っておこうという気持ちになるのかもしれませんね。
以上、おくのほそ道(原作/松尾芭蕉著、作画/バラエティ・アートワークス、Teamバンミカス)は、紀行作品の代表的存在を漫画化した、でした。
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