ひかりの素足(原作/宮沢賢治、作画/みつる)は、『まんが宮沢賢治童話集1』(かっぱ舎)に収録された同名の童話のコミカライズです。『まんが宮沢賢治童話集1』(かっぱ舎)には、13作の宮沢賢治原作による童話のコミカライズが収録されています。
すでに原作は、青空文庫に入っているので、結末まで書きます。
ネタバレ批判厨は、この先は見ないで、青空文庫に直行してください。
年末でみなさんお忙しいでしょうから、さっそくあらすじからいきます。
にょらいじゅりょうぼん第十六
父親と、山の中にある炭焼小屋に泊まった一郎と弟の楢夫は、学校があるので父と別れて家に帰ることになります。
しかし、楢夫は、風の又三郎が、「お父さんが新しい服を自分に着せ、お母さんが自分をお風呂に入れて洗い、みんなで自分を送っていく」と言ったから怖い、帰りたくないと泣きじゃくります。
しかし、父親は夢でも見たのだろうと取り合いません。
2人は炭を引き取りに来た馬を引く人と一緒に小屋を出ますが、馬引きが途中で出会った人と長話を始めましたので2人だけで進みます。
ところが、にわかに吹雪になって道に迷い、雪山の中で動けなくなります。
もうシんでしまうのかな、一郎は思います。
気が付くと、一郎は、ぼんやりくらい藪やぶのようなところを歩いていました。
そして、明かりの方へ行くと、そこには大勢の子供達とともに、鬼がいました。
「ここは地獄か……」
「さあ歩け」と鬼は、ムチで子どもたちを追い立て、楢夫を叩きました。
「私を代りに打って下さい。楢夫は許して下さい。楢夫は許して下さい。」一郎は泣いて叫びました。
「歩け。」鞭が又鳴り、一郎は両腕であらん限り楢夫をかばいましたが、かばいながらどこからか、「にょらいじゅりょうぼん第十六」ということばがかすかな風のように聞こえてきました。
すると、一郎は何だか周囲がほっと楽になったように思い、自分も「にょらいじゅりょうぼん」と繰り返してつぶやいてみました。
やがて目の前に現れた「その人」の足は、白く光って見えました。
「お前たちの罪は、この世界を包む大きな徳の力に比べれば、太陽の光とあざみの棘のさきの小さな露のようなもんだ」
なんていいところだろう。チョコレートもある。ボール投げもできる。
「ぼくたちのお母さんはどこにいるのだろう」と楢夫は言います。
「その人」は楢夫に、「今にお前の前のお母さんを見せてあげよう」といい、一郎には、「お前はも一度あのもとの世界に帰るのだ」と言いました。
「その人」は、楢夫を連れて遠くに行ってしまいました。
「楢夫、どこに行くんだ。楢夫ー」
一郎は、にわかにまっ白なものを見ました。それは雪でした。
一郎は、楢夫を堅く抱いたまま雪に埋まっていたのです。
「息吐ついだぞ。眼開あぃだぞ。」
一郎のとなりの家のあかひげの人が、一郎を起こそさうとしていました。
まばゆい青ぞらに、村の人たちが一郎を見おろしていました。
「弟ぁわがなぃよだ。早ぐ火焚げ」
楢夫は息絶えていました。
読経による救済を唱える法華経の世界観
ということで、本作についての私ごときの解説です。
まず、風の又三郎は、楢夫に「お前シぬぞ」と予告してくれたんですね。
亡くなった人の体を洗って、装束を着せるでしょ。
その話をしたわけです。
でも父親は、それを一顧だにシなかったのです。
これはなにを意味するかと言うと、不幸には予兆や予告があるはずだ、という宮沢賢治の持論だと思います。
私もなんとなくわかります。
私は火災の1週間前、急に感じるところがあり、整理整頓をシて荷物(燃えるもの)を減らしました。
もっとも、私の直感は中途半端で、火元が別のところだったため、何もならなかったのですが……。
そして、物語に出てくる如来寿量品16(にょらいじゅりょうぼん第十六)というのは、法華経の第16章のことです。
この章では、お釈迦様が、昔から仏として悟りを開いており、この世に現れたのは衆生を救済するための方便であると宣言します。そして、信心のある者には見えるが、信心のない者には見えないと説きます。この章の主な意図は、仏の真実の姿と教えを明らかにし、衆生に仏性を覚醒させることにあります。
教義のむずかしい話は措くとして、とにかくこの章は、法華経の中心的な章であり、日蓮宗や天台宗の葬儀などでも唱えられています。
以前ご紹介した『虔十公園林』では、『法華経』常不軽菩薩品第二十に登場する常不軽菩薩がモデルに成っていました。
宮沢賢治は、法華経を自らの創作の重要なモチーフとした「法華文学の創作」を志していました。
なぜ本作を書いたのか。
たぶん、物語中、法華経二十八品の中でも最も尊重されている「如来寿量品」を唱えて「その人」が現れ、急に明るい世界が広がったことからも、読経による救済を唱える法華経の世界観を描きたかったのではないかと思います。
夏目漱石や芥川龍之介のように、仏教のモチーフを感じる作家はほかにもいますが、ここまではっきりと「お経の翻案」を描き続けた作家は、近現代ではやはり宮沢賢治をおいて他にはいないといってもいいでしょう。
法華経の信者でなくても、宮沢賢治の作品には、なにか胸を打つ読後感があります。
本書は、まだ別の作品も収録されているので、別の機会にご紹介します。
宮沢賢治作品は、どんな作品が印象に残りますか。
以上、ひかりの素足(原作/宮沢賢治、作画/みつる)は、『まんが宮沢賢治童話集1』(かっぱ舎)に収録された同名の童話のコミカライズ、でした。
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