まんが人物伝 津田梅子 女子高等教育にささげた生涯 (吉元ますめ/著、高橋裕子/読み手、角川まんが学習シリーズ) をご紹介します。最初の国費女子留学生としてわずか6歳でアメリカに留学し、自身の教育理念にそった現在の津田塾大学を創設しました。(文中敬称略)
津田梅子(1864年12月31日~1929年8月16日)は、日本初の国費女子留学生の一人で、女子英学塾(現:津田塾大学)の創設者であり、欧米の学術雑誌に論文が掲載された最初の日本人女性です。
今回の新札では、5000円札に登場しました。
その生涯と功績を、吉元ますめが漫画化し、高橋裕子津田塾学長が監修しています。
Copilotは、人生と功績をこうまとめています。
1. 生い立ちと留学
– 津田梅子は幕末の1864年に東京の御徒町で生まれました。
– 6歳の頃に岩倉使節団に随行してアメリカへ留学し、10年以上の留学生活を送りました。
– アメリカで語学や文化を学び、帰国後にその知識を活かしました。
2. 女子英学塾の創設
– 帰国後、梅子は男女平等を謳い、女子英学塾を創設しました。
– 「性別も身分も関係なく、皆が等しく教育を受けること」を実現するため、女性の高等教育に尽力しました。
– この塾は後の津田塾大学の前身となり、多くの女性に教育の機会を提供しました。
3. 独身のキャリア女性
– 津田梅子は生涯独身を貫きました。彼女は結婚を選ばず、女性の社会進出に専念しました。
– その情熱と努力は、明治から昭和にかけての時代に多くの女性に影響を与えました。
4. 津田塾大学
– 津田梅子が創設した女子英学塾は、後に津田塾大学と名を変えました。
– 津田塾大学は女性の育成を目指す女子大学であり、高い評価を受けています。
– 現在も多くの女性が社会で活躍しており、梅子の遺産は受け継がれています。
5. 性格と業績
– 梅子はおおらかで行動力のある性格で、笑顔が絶えない人物でした。
– 生物学の分野でも一流の研究者であり、多くの功績を残しました。
津田梅子の波乱に満ちた生涯は、日本の女性教育に大きな足跡を残し、私たちに多くの教訓を与えています。
ということで、本作からかいつまんでエピソードを見ていきます。
女性の育成を目指す女子の高等教育機関を設立
<2024.8.11>#東京都 #小平市#津田塾大学
1900年津田梅子が女子英学塾設立。22年小平に新校地購入。23年関東大震災で五番町校舎焼失。31年小平移転。48年津田塾大学設立。本館は津田塾のシンボルのハーツオン・ホール。梅子は小平移転前に亡くなりましたが墓所は遺言によりキャンパス内にあります。 pic.twitter.com/zcE1BiHTrh— スミスさん (@smith51350) August 14, 2024
津田梅(1902年に「梅子」に改名)は、日本で始めての国費留学生で、わずか6歳で渡米しました。
父親の桜井仙は武士でしたが、津田初子と結婚して津田家に婿養子となりました。
浦賀のペリー来航でカルチャーショックを受け、「もう日本にとじこもっている時代ではない」として、苦労しながら英語の勉強をして、29歳で外交使節として渡米。その自由と反映を目の当たりにしました。
アメリカから、切ったまげを初子に送り、「身分へのこだわりを捨て、自由に生きる」という決意表明。
帰国後は、6歳の梅について、10年の留学を決めてしまいました。
梅は、1874年にはキリスト教の洗礼を受けます。
仙と初子も、それを知り洗礼を受けました。
1882年に帰国しましたが、日本語も覚えておらず、日本の生活習慣にも戸惑い、国費の恩返しをしようにも、女性が活躍できる場がなく、しばらく家事手伝いでくすぶっていました。
仙は、進歩的な考えの持ち主でしたが、初子ら家族に対しては、家長として振る舞います。
初子も文句を言いません。梅は「妻は夫の所有物じゃないわ」と、それが不服でした。
しかも、一緒に留学した仲間も結婚し、寂しい思いをする梅でした。
そんな梅を、一緒にアメリカに行った伊藤博文はもったいないと思い、自分の娘の住み込み家庭教師に雇いました。
そして、伊藤博文の紹介で、桃夭女塾(今の実践女子大)の英語教師に。
翌年は官立華族女学校の教授補に就任。
これで、国費留学の恩返しの舞台に上がれたはずですが、梅はそこを休学して再留学し、今度はプリンマー大学で生物学を専攻。
帰国後の1898年には、華族女学校と兼任で女子高等師範学校教授に就任し、同年にアメリカで開かれた万国婦人クラブ大会に参加。
その際、ヘレン・ケラーや、ナイチンゲールとの面会も実現します。
そして、1900年に女学校に辞表を提出。いよいよ自分の理想とする高等教育機関を作る準備を始めます。
それが、今の津田塾大学です。
私学の女子大学は、東京女子大、日本女子大、共立女子大、昭和女子大、実践女子大、大妻女子大……東京にはいろいろありますが、「塾」の名前を残しているのは津田塾大だけですね。
といっても、創立時は「津田塾」ではなく、女子英学塾といったのです。
関東大震災でいったんは壊滅的な打撃を受けるのですが、麹町から小平に移転して出直した苦労があります。
津田梅子自身は、そのさなかに亡くなっているので、「津田」と「塾」は、原点としてどうしても校名に入れたかったんでしょう。
「女性解放」とは何か
田嶋陽子「だって今までの神様って全部男・・・」
竹田恒泰「天照大神は女神なんですが。イザナミの神も女性神です」
田嶋陽子「黙ってろよ!うるさい!」
やっぱ最高やな。 https://t.co/EOzrT4IJo1 pic.twitter.com/YlVUJdz1Mi— やぶさめり (@yabusameri) August 18, 2024
テレビで活躍している田嶋陽子さんが、津田塾大出身であることを強調していますが、津田梅子の生き方を読み、なんとなく理解できました、
といっても、田島さんは品もないし、大学人としてはあまりに軽率だし、言動を真に受けるのは禁物ですけどね。
世の中には、「男の沽券」なんかよりも、主夫やヒモとしての生き方が好きな人がいるように、女性だって様々だと思います。
結婚して夫の姓を名乗り、専業主婦したいと思う人がいたって、それは自由でしょう。
だから、一律に、「男が悪い、女の方が凄いんだから。女よ奮い立て」とがなり立てている、ああいう姿勢はどうなのかなと思います。しかも論理矛盾はいつものことだし。
それよりも、たとえば「母性の保護」とかね、もっと現実的で切実なことを確実に進めるべきだと思うのですが、田島さんは、せっかく選んでもらった国会議員の議席を放りだして、何一つできなかった上に、公認してくれた社会民主党に後ろ足で砂をかけていった人です。
田嶋さんのそうした生き様は、むしろ女性の評価を下げるもとだと思うんですけどね。
とくに女性の皆さんは、いかが思われますか。
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