『フリー・ジャーナリストになりたい君にー一業界紙記者が新進ジャーナリストになるまで』(平賀雄二著、アドア/自由空間)をご紹介します。業界紙の会社でライターとしての経験を積んだ著者が、フリージャーナリストになるまでの話です。
フリー・ジャーナリストをめぐる時代の変化
『フリー・ジャーナリストになりたい君にー』の初版は1992年です。
今から28年前に発行されたものです。
この間、業界事情も変わりました。
もっとも顕著なのは、ネットの普及とデジタル化による媒体の多様化です。
たとえば、プロのライターであってもなくても、ブログを開設することで、意見の発表や情報の公表ができるようになりました。
それとともに、AmazonKindleなどを使った電子書籍システムを利用した出版が行われ、これもまたプロの著述家でなくても、出版社と付き合いがなくても、書籍を上梓することができるようになりました。
しかも、従来の書籍は紙媒体ですから場所のコストも掛かり、図書館に所蔵されても永遠に置いてもらえることはおそらくないと思います。
しかし、電子書籍ならゼロスペースでコピーもかんたんですから、おそらくはネット自体が消滅しない限り、いったん上梓した電子書籍はどこかに残るでしょう。
つまり、将来的には、電子書籍と紙書籍との比較価値はかわるかもしれません。
著者側からみても、原稿用紙に鉛筆で書いていた頃と、パソコンを使った入力では質が変わってきます。
デジタルは、コピペや文の加減修正がかんたんです。
紙の原稿用紙は、部分的な加筆修正以外は、書き始めたら「一発勝負」でしたが、今は定型文やコピペによるつなぎ合わせの作成を前提としています。
つまり、文章を書くプロでなくても、それらしきものはなんとなく作れてしまいます。
ただ、推敲や引用・転載などは簡単になりましたが、原稿用紙に書いていた頃の文章のリズムがなくなってしまったような気もします。
それはともかくとして、1980年頃に比べると現在は、第三者に披露する読み物の「著者になる」ことは、グーンと垣根が低くなったわけです。
では、それによって著述業はもう「なりたい」ものではなくなってしまったか。
そんなことはないと思います。
現に、今も書籍は各出版社から次々出版されているでしょう。
無料で読めるデジタルコンテンツが増えるほど、逆にプロの書いた質の高い読み物は必要とされているのです。
逆に言えば、1980年頃に比べると現在の紙媒体による著述作業は、無料で読めるデジタルコンテンツとは一味違う質の高いものが求められます。
そしてそれは、以前にもまして、著述者の職能性が高まっていることになります。
たとえば、著名人のプロフィールには、過去の著作が必ず加わります。
その人のキャリアを示したものであることが、すでに社会的に認められているのです。
紙の媒体に比べると、電子書籍は現時点では残念ながら多少の格落ち感は否めません。
ブログに至っては、まだ趣味のような扱いを受けていますから(実際に多くの人は備忘録や趣味などで行っていますから)、プロフィールで触れるのは、よほどの人気ブログであるか、著作実績がない場合などに限られるでしょう。
と、前置きが長くなりましたが、以上のように、当時にも増して、「なりたい君」がなるためのハードルが高くなったと思われる「フリージャーナリスト」への道が、本書には書かれています。
「ギョーカイ紙」ビジネルモデルに悩み行動を起こす
私は当時、東京・御茶ノ水の聖(ひじり)橋近くに今もある、書店『丸善』に入って、本書を偶然見かけて購入しました。
その日は、発熱したため明るいうちとに帰宅して寝ていたのですが、高熱のため夜中に目を覚ました時、本書のことを思い出してモソモソと起き上がり読み始めたところ、面白くて朝方までじっくり読みふけったのを覚えています。
私も、自分がライター業を始めた頃を思い出しました。
本書『フリー・ジャーナリストになりたい君にー』は、著者の平賀雄二氏が、「ギョーカイ紙」の「トリ屋」(取材記者)として就職してから、フリーのジャーナリストとして独立するまでの話です。
表紙は、無地に赤い文字でタイトルが印刷されているだけ。
中は、写真もイラストもなく、本文が組まれているだけなので、低予算で抑えた自費出版かもしれません。
しかし、図書館にはずいぶん配布されているようです。
みなさんがお住まいの地域の図書館にも1冊ぐらいはあるかもしれません。
著者名の「平賀雄二」は、ペンネームか本名かはわかりません。
ネットで調べても、最近の仕事はしていないのか、検索してもかかりません。
さて、構成ですが、平賀雄二氏は、まず「ギョーカイ紙」を発行する会社に入社します。
出版業界では、たとえば講談社とか、文藝春秋社とか、普通の出版社と、「ギョーカイ紙」の発行会社は区別されています。
本書が、「業界紙」ではなく、「ギョーカイ紙」とカタカナで書いているのは、特別な理由があります。
額面通り、ある業界をジャーナリズム精神で批評したり情報を伝えたりする出版社ではなく、特定の業界を扱うからこそ成立するビジネスモデルがあり、著者はそこに嫌悪感を抱いて「フリージャーナリスト」になったのです。
本書に沿って、具体的にその内容を書きます。
映画やテレビドラマなどで、品の悪い「ギョーカイ紙」の記者が、その業界の社長などとツーカーで、情報と引き換えにお小遣いをもらいシーンが出てくることがありますが、それは現実にある話なのです。
たとえば、『週刊文春』が、清原和博容疑者について報じても、それで誰かが金をくれるわけではありません。
不特定多数の読者の購読や、一般企業の広告出稿で経営は成り立っています。
しかし、「ギョーカイ紙」の場合、その業界でのみ成立するメディアですから、読者の購読だけではなかなか経営を安定させることはむずかしい。
いきおい、A製紙の情報を、B製紙に流して、お金をいただくことはあり得ることなのです。
また、B製紙から金をもらって、自分の媒体でA製紙の叩き記事を書く、なんてこともあるわけです。
「お金」として直接受け取るのではなく、媒体に広告を出稿してもらう、媒体を買い取る、といった合法なやり方で集金することもあるでしょう。
逆に、「悪いようには書かないでお手柔らかにお願いしますね」と、B製紙から「自主的」に広告を出稿することもありえます。
平賀雄二氏は、そういう会社に就職したことによる相克を描いているわけです。
ただし、たんなる「ギョーカイ紙」の暴露ものではありません。
どんなビジネスモデルだろうが、印刷物を発行するメディアではあるので、取材の仕方とか、記事の書き方とか、職務上必要なノウハウはあります。
職場の先輩から、それを教わって、平賀雄二氏は、「書き屋」としての力をつけていきます。
そのうちに、「トリ屋」ではなく、ジャーナリストとして身を立てたいと、平賀雄二氏は考えるようになります。
依頼されたわけでもなく、食品の市場調査について書いた原稿を、『潮』という、創価学会系の雑誌社に送ります。
平賀雄二氏は創価学会員ではないようですが、日頃から、いろいろな雑誌に目を通して、自分が書いた原稿にもっと適した媒体が、『潮』だったと考えたそうです。
編集部に電話をして、掲載を直訴すると、編集部は具体的に加筆修正を指示しました。
つまり、そこがクリアになれば、使いますよ、ということです。
そのやり方で、第2弾、第3弾と書き進め、いろいろな雑誌社の編集部に実績を作り、平賀雄二氏は「ギョーカイ紙」を退社します。
「トリ屋」のままでも「ものを書く」仕事であることは間違いありませんし、給料も出ます。
しかし、平賀雄二氏はあえて頑張ってフリージャーナリストへの道を進み、「人生の明暗は決断できるかどうかだ」と結んでいます。
人生、やるかならないか
よく言われることですが、結局「人生、やるかやらないか」なんですね。
これは、フリージャーナリストに限らず、人生のあらゆる局面の選択肢です。
やるかやらないかは、もちろんその人の自由ですが、やらない人は、そんな自分を正当化しなければならないので、往々にしてやる人を中傷することがあります。
そういうのを自己愛(性パーソナリティ障害)というのですが、そんな人間にはなりたくないですね。
以上、『フリー・ジャーナリストになりたい君にー』は業界紙記者が経験を積んでフリージャーナリストに。人生で大事なのは決断、でした。
コメント