ブッダをめぐる人びと(里中満智子、佼成出版社)をご紹介します。お釈迦様の時代に登場する人物のエピソードを漫画化した

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ブッダをめぐる人びと(里中満智子、佼成出版社)をご紹介します。お釈迦様の時代に登場する人物のエピソードを漫画化した

ブッダをめぐる人びと(里中満智子、佼成出版社)をご紹介します。お釈迦様の時代に登場する人物のエピソードを漫画化したものです。仏教に詳しい人にはおなじみの話です。お釈迦様に出会って深く感化された人々や、「諸行無常」という仏教の真髄を、お釈迦様と登場人物との出会いを通して描いています。

『ブッダをめぐる人びと』というタイトルですが、ブッダ(仏陀)とは、「悟った人」という意味で、ゴータマ・シッダールタ=お釈迦様のことを指します。

本書は、人生の一切皆苦に悩む人々が、お釈迦様と出会い、仏教の真髄を理解して煩悩を消し去り悟るという説話を漫画化したものです。

「煩悩」は、毎話違うのですが、愛する人とシ別するとか、過去のつらい経験から心に深い闇を持つとか、尽きない人生の悲哀を、ブッダがひとりの人間として救いの手を差しのべます。

ただし、お釈迦様は「こうしなさい」「こうあるべきだ」と、特定の答えを押し付けるのではなく、ヒントを与えて、あとは本人に考えさせます。

そこが仏教の真髄です。

他の宗教は、神様を信じ、その教えを胸に落とし込むのですが、仏教は神様がいませんから、自分で考えるのです。

作者は里中満智子さん。少女漫画、少年漫画、歴史ロマン、ギリシア神話、オペラのコミカライズ、神道漫画など幅広く描かれていますから、仏教漫画もお手のものというわけです。

漫画26作と、巻末には仏教学者の菅沼晃さんと里中さんの対談という形で、作品を振り返り解説しています。

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どんな罪人でも救われる可能性がある

26作の中で、お釈迦様の時代の、サツ人鬼であるアングリマーラ(鴦掘魔=おうくつま=指を首飾りにする人)の話をご紹介しましょう。

アングリマーラは、本名をアヒンサカといい、コーサラ国の500人の弟子を持つ有名なバラモン教(ヒンドゥー教)の師のもとでまじめに修行に励む美男子僧でした。

アングリマーラは師の夫人の誘惑を断ったために、顔を潰された夫人は、師に誘惑されたと嘘の告げ口をします。

カッとした師は、「100人コロして指を切って集めると、お前のステージが上がる」などとデタラメを命じると、真面目なアングリマーラは本当に99人ヤッてしまいました。

そして、100人目のターゲットがお釈迦様でした。(アングリマーラの母親という説もある)

「止まれ」とアングリマーラ。

「私は止まってるよ」とブッタ。

「おかしい、いくら走っても追いつけない。どうしてだ」

「私が動いていないというのは、セッ生や憎しみなどの煩悩から解放されているからであり、あなたが動いているのは、煩悩に縛られているからだ。しかし、煩悩のあるものは煩悩から解放されている者に追いつくことはできない。あなたも、煩悩を捨てて悟りの道を歩んでみないか」

お釈迦様は、彼に慈悲の心を説いて、仏弟子として出家させました。

「あんなサツ人鬼を仲間に入れるなんて」と、僧たちは案じます。

「誰にでも立ち直るチャンスを与えるべきだよ」とお釈迦様は、アングリマーラに托鉢を命じます。

しかし、アングリマーラは、何しろサツ人鬼でしたから、出家後も人々からの迫害を受けます。

アングリマーラは、それをじっと耐え、石を投げられ血まみれになりながら何日も托鉢を続けます。

すると、一人の老婆が現れ、食べ物を与え、こう言います。

「あんたが真人間になるなら息子も浮かばれる。コロされるための人生だったとは思いたくないから。息子を含めて99人の命は、誰かを救うためにあったと思わせておくれ」

アングリマーラは、長い苦悩と反省を経て、最終的には悟りを開いたという話です。

この話は、仏教の教えによって、どんな罪人でも救われる可能性があることを示しています。

誰もが成仏できるという、浄土真宗の教えが記されている『歎異抄』にも出てくる話です。

巻末では、菅沼晃さんと里中満智子さんの対談という形で、作品を振り返り解説しています。

里中 たとえば、修行という目的のもと九十九人もの人を殺してしまったアングリマーラ(II章第一話)と関わるにも、ブッダは相手に気づかせるという姿勢を貫かれますね。相手は連続サツ人鬼ですから、彼以上に強い力で捕らえてナき者にしてしまえばそれで一件落着のようですが、それでは犯罪の芽は絶たれず、アングリマーラの心の闇も晴れることはない。ブッダは暴力を力で制するということはされず、アングリマーラ自身に己の愚かさを気づかせ、人間として立ち直された。ここまで到達しなければならいのではないかと思います。
菅沼 たしかにそうですね。善と悪をきっぱり分けて、悪いものは排除してしまえばいいという考え方はとても危険だと思います。だれの心にも煩悩がある、それを自らの中に認めなくなるということですから。ブッダは、煩悩アルミだからこそさとりを得られるのだとおっしゃった。

要するに、現代のネットでは、なにか事件が起こるとターゲットを叩く。そして叩いているものは正義づらする。

しかし、それでは根本的な解決にはならないし、叩かれているものも自分の愚かさに気づかない。

何より、ここが一番大事ですが、それは事と次第によっては、実は自分がそうだったかもしれないではないかということを考えてみよ、ということです。

人間は誰でも過ちを犯し得る

私は以前から、「毒親」の記事をこのブログで書きますが、子供を虐待する事件があると、その時点で虐待をしていなくても、世の親は誰でもその犯人と紙一重ではないかと、運命のイタズラと言いますが、事と次第によっては自分がそうだったかもしれないなどと考え、ゾッとすることがあります。

ところが、一部には、そういう親を鬼畜扱いして徹底的に非難して、自分はそんな鬼畜とは違うかのようにすましている人がいます。

そのくせ、その人は、我が子には手を上げている。

いや、自分の場合は良かれと思っているからいいんだって言って。

どこが違うんだ、いい加減しろよって話です。

子への虐待は、最初から暴力を振るうケースもありますが、大抵の場合、むしろ最初は子に対して熱心で友好的なんです。

でも、誠実すぎるからこそ、「どうして自分の気持ちをわかってくれないんだ」となって、思わず手が出て、そこからエスカレートして虐待に繋がっていくのです。

少なくとも、子に手をあげる親が、虐待事件を、他人事のように受け止めるなんて、おかしいですよ。

ブッダの説話には、そんな現代にも通じる教訓を読み取ることができる、という話です。

マンガですから読みやすいですよ。

イソップ童話などと同じで、別に仏教の信仰者でなくても「気づき」を得られるのではないでしょうか。

おすすめの一冊です。

以上、ブッダをめぐる人びと(里中満智子、佼成出版社)をご紹介します。お釈迦様の時代に登場する人物のエピソードを漫画化した、でした。

ブッダをめぐる人びと - 里中 満智子
ブッダをめぐる人びと – 里中 満智子

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