日本人物史3(つぼいこう、朝日学生新聞社)は、伊能忠敬など江戸初期~幕末にかけて活躍した11人の偉人の、功績や生涯を漫画化

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日本人物史3(つぼいこう、朝日学生新聞社)は、伊能忠敬など江戸初期~幕末にかけて活躍した11人の偉人の、功績や生涯を漫画化

日本人物史3(つぼいこう、朝日学生新聞社)は、江戸初期~幕末にかけて活躍した11人の偉人の、功績やその生涯を漫画で解説しています。この記事では、その中から伊能忠敬をご紹介します。日本の地図作成に大きく貢献した人物として有名です。

『日本人物史』は、全4巻で42人の偉人を紹介しています。

昨日は、第4巻をご紹介しましたが、第3巻では、江戸初期~幕末にかけて活躍した11人の偉人の功績やその生涯を漫画で解説しています。

その11人とは、徳川家光、近松門左衛門、歌川広重、本居宣長、杉田玄白、伊能忠敬、ペリー、勝海舟、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允などです。

この記事では、その中から伊能忠敬、をご紹介します。

昨日は、第4巻をご紹介しましたが、今回は、第3巻から伊能忠敬をご紹介します。

伊能忠敬(1745年1月11日~1818年4月13日)は、江戸時代の商人、天文学者、地理学者、測量家です。

日本の地図作成に大きく貢献した人物として有名です。

Copilotに、その生き様と功績を簡単にまとめてもらいました。

伊能忠敬は江戸時代の商人であり、天文学者、地理学者、測量家でもありました。

伊能忠敬は1745年に上総国山辺郡小関村(現在の千葉県山武郡九十九里町)で生まれました。商人として成功し、50歳で測量士の元に弟子入りしました。55歳から日本各地の測量を始め、17年かけて詳細な日本地図を完成させました。当時の寿命が短かった時代に、彼の不屈の精神は見習うべきものです。

伊能忠敬は佐原村の名主として公益に尽くし、飢饉の際には米を住人に施すなどして多くの人々を救いました。その後、隠居して暦学や天文学を学び、全国の測量を指揮しました。73歳で亡くなりましたが、彼の地図は正確な日本の姿を明らかにしました。

彼の座右の銘は「野菜や薪など買わなくてすむものに金を使うな」「ためることが第一」でした。

伊能忠敬の偉業は、日本地図を作成したことだけでなく、その精神的な強さと貢献も称賛に値します。

ということで、本作のストーリーを簡単にご紹介します。

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17年かけて詳細な日本地図を完成

伊能忠敬は、農家に生まれ、商人の伊能家に養子に入りました。

「本当は商売よりも学問がしたかった」といいつつ、自分を引き取ってくれた伊能家を建て直して、名主(村長)になりました。

1783年に浅間山が噴火した時、火山灰が太陽光線をさえぎって農作物が5年も凶作になった「天明の大飢饉」の時に、「江戸で本格的な測量や天文観測の勉強をして、社会の役に立ちたい」と考えます。

測量士の元に弟子入りしたのが、息子に跡を継がせて自由の身になった、当時の平均寿命を超える50歳とかなり遅いのは、そうした事情がありました。

1800年に、幕府から蝦夷地の測量の許可がおります。

今の北海道は、この頃からロシアの船がチョロチョロしており、守りを固めなければならなかったのですが、日本に蝦夷地の詳しい地図がなかったのです。

伊能忠敬は、予算をケチる幕府をあてにせず、自腹で地図づくりに取り組むと決意しました。

歩測や、1.8メートルの間縄などを使い、距離と方角をはかる、北極星を観測して各地の緯度を調べる、などを気が遠くなるほど根気強く積み重ねて、3ヶ月で蝦夷地東部の精密な実測地図を作り上げました。


現代でも、たくさん歩くことを「伊能忠敬した」とか、「伊能忠敬界隈」などと表現するポストを目にします。

函館に戻ると、間宮林蔵が弟子入りを希望。

伊能忠敬は、東日本や西日本各地の測量を続けました。

間宮林蔵は、択捉島で役人をつとめていましたが、ロシア軍とのたたかいを経験。

1808年に樺太調査に出かけ、樺太が半島ではなく島であることを確認。大陸と島の間が「間宮海峡」といわれています。

間宮林蔵は、伊能忠敬の残した蝦夷地西部の測量を行い、伊能忠敬は九州の測量に取り組みましたが、幕府はやっとここで「正式な幕府の仕事」として認めました。つまり、やっと予算をつけました。

伊能忠敬は1818年に亡くなりましたが、間宮林蔵や弟子たちの手によって、その3年後に「第日本沿海輿地全図」すなわち日本地図を完成しました。

平均寿命を超えた50歳過ぎてからでも社会に爪痕を残せる

江戸時代には、支配階級である武士を筆頭に、農民・商人・職人などの身分によって住む場所などが決められていたとされています。また、大名・旗本、農民・漁民、僧侶・神職など様々な職業があり、それぞれの身分によって果たすべき役割が固定されていました。

その意味で、どうしても政治的な偉人は「下級」でも「士族」であることが多いのですが、政治的な参画ではなくても、伊能忠敬のように、文化的に社会に爪痕を残すことはできるということです。

ですから、身分社会、封建社会、現代の格差社会だろうが、何らかの自己実現ができるかどうかはその人自身のこころざし次第といえるでしょう。

それと、やはり人生は生きている限り自己実現の可能性がある、ということでしょうか。

先日、高橋是清が60歳で政界入りしてから、総理大臣や大蔵大臣を何度もつとめたことは書きましたが、今回も伊能忠敬は50歳から測量研究を始めたわけです。

もし、伊能忠敬が息子に家督を譲った後、「どうせ余生だからもう楽して暮らそう」と大人しく隠居したら、日本地図の完成はずっと遅れていたでしょう。

「もうトシだから」と考えるのか、「人生はチャレンジだ」と考えるのか。

高齢化社会といわれる現代で、この点も大いに教訓になるように思います。

伊能忠敬さんの仕事と生き様について、ご理解いただけましたか。

日本人物史3 徳川家光/勝海舟/西郷隆盛ほか 朝日学生新聞社 日本人物史 - つぼい こう
日本人物史3 徳川家光/勝海舟/西郷隆盛ほか 朝日学生新聞社 日本人物史 – つぼい こう

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