君は山口高志を見たか(鎮勝也著、講談社)を読みました。「日本プロ野球史上最も速い球を投げた投手」(wiki)の伝説の時代と、スター選手らしくない謙虚さと真面目さで、60歳過ぎてもユニフォームを着続けたプロ野球人生が書かれています。
最近は、YouTubeで元プロ野球選手が、現役時代を述懐する動画を視聴する機会が多いのですが、伝説の剛球投手というと、江川卓さんか、山口高志さん(1950年5月15日~)を挙げる方が多いですね。
といっても、お2人とも、大学後のプロ入りということもあり、生涯成績が前人未到だったわけではありません。
ただ、そうではなかった主たる理由は微妙に違うように思います。
江川卓さんは、極限まで野球に全身全霊を賭けたというわけではない、つまり力を余らせたまま野球人生を終えてしまった。
一方、山口高志さんは、もう先発もリリーフもなく酷使されて、長年の疲労でやめた。
そんな気がします。
先発と抑え2役の酷使で短かった現役時代
『君は山口高志を見たか』という名著を読んだときに「出来るならばもっと早く生まれて見たかったよ!」と思わず言ってしまったのを思い出す。 https://t.co/a5BzDD0N33
— 横須賀ドラゴンズ(略して横ドラ) (@fW5PCPkl9KoquLV) May 10, 2023
山口高志は、関西大学時代、ヤクルトからドラフト指名され、白紙の小切手が提示されたそうですが入団はしませんでした。
安定したサラリーマンを選択して、松下電器に入社したのです。
しかし、野球人として腕を試したくなり、その2年後の1975年には、大学の先輩である上田利治監督率いる阪急ブレーブスに、阪急本社との契約(60歳までの終身雇用契約)で入団します。
当時の阪急ブレーブスは黄金時代でしたが、その時は先発と抑えの2役。
巨人が第一次長嶋政権時代の日本シリーズは、抑えの切り札として活躍しました。
日本シリーズ中継では、当時流行していた歌のタイトル(山口さんちのツトム君)から、「山口さんちのタカシ君はいつ登板するでしょうか」といわれ、巨人打線対山口高志が見どころといわれました。
その後、阪急はオリックスに身売りしましたが、阪急本社に戻るのではなく、コーチとして阪神のユニフォームを着ました。
今は、阪神は阪急阪神東宝グループの傘下にありますが、当時は経営統合以前でしたからそういう意味ではなく、野球人として阪神球団に請われたのです。
では、山口高志は無敵だったかというと、そうではないのです。
生涯成績を見ると、1年目~3年目の全盛期は、勝ちと負けの差が拮抗しています。というより負け越しています。
1年目は12勝13敗1セーブ(新人王)、2年目は12勝10敗9セープ、3年目は10勝12敗11セープ。
それが、4年目に抑えに専念すると、負けがぐんと減り13勝4敗14セーブ。
タイトル(最優秀救援投手)も取り、これからが期待されましたが、腰を痛めてその翌年からはガクッと登板機会が減り、結局8年で現役生活を終わっています。
負けが多いのは、ひとつには山口高志が真っ向勝負でストレートを投げ抜いた証ではないかと思います。
相手もブロですから、いくら速いと言っても「8割はストレート」ならミートされる確率は高くなります。
しかし、打たれるリスクが高いからこそ、抑えた時の価値があるのです。
ワンバウンドのフォークボールを投げれば相手は打てないでしょうが、山口高志はそれをしなかったのです。
山口高志の豪速球が、今こうして書籍になって改めて語られるのは、まさにその「価値」によるものです。
当時の野球選手には、そういう意固地さがありました。
あの王貞治も、いくら王シフトでセンターラインより左側がガラ空きでも、しょぼい流し打ちはせず、ホームランにこだわりました。そして、スランプになっても2本足には戻しませんでした。
ファンの側からすると、チームがピンチの時はちょっと融通きかせたらいいのに、なんて思うこともありましたが、その頑なさがまた楽しかった。
そして、やはり先発と抑えの2役を任されていたことも負担だったと思います。
今のように、先発は週1回登板で6イニング、抑えは勝ち試合に1イニング、中継ぎはワンポイントやセットアッパーなどさらに細分化されていたら、もっと選手寿命も長く、抑える確率も格段に上がっていたでしょう。
山口高志の功績は、本人の残した成績だけではありません。
山口高志が後ろを引き受けたことで、先発との両刀使いだったエースの山田久志が先発に専念できました。
山田久志が、日本プロ野球史上に残る生涯成績を残したのは、山口高志の存在があってこそ、ともいえます。
ただし、先発と抑えを兼任した酷使が、現役生活をたった8年で終わらせてしまった原因でもあります。
引退後は能力と人徳で現在も活躍
「君は山口高志を見たか」鎮勝也 講談社刊 阪急ブレーブス黄金期に、先発・リリーフと大車輪の活躍をした山口高志。関大~松下電器~阪急と投手生活を送った。小柄な体から、160KM超の剛速球を投げ込む雄姿は、今も目に焼き付いている。 pic.twitter.com/SHP3VaSY2y
— noyama masafumi (@sharkeye75) March 17, 2015
引退後は阪急、オリックスでコーチ、スカウトをつとめましたが、星野仙一監督に誘われて阪神に移籍。
藤川球児を育てるなど貢献しました。
阪急で結んだ終身雇用契約は、阪急が「六十歳までは面倒みます」(本書)というものでしたが、結局65歳までユニフォームを着ています。
いずれにしても、実力で投手コーチをつとめたわけです。
山口高志は、サラリーマンを求めたノンプロ出身。
浮ついたところはなく、給料は夫人が管理。
社会人としての常識もあります。
プロ入り後の自主トレは、スーツにネクタイで球場入りし、同僚の大橋譲をびっくりさせました。
そして、真面目で研究熱心。コーチになってからは、野手担当の大橋譲に相談を持ちかけることもあったそうです。
山口高志には、身長が低かった、私立強豪校に行けなかった、高校一年では野球を辞めかけたなど、野球人としてコンプレックスがあったそうです。
それが、真面目で控えめな態度につながったのでしょう。
周囲から信頼され、太く短かった現役生活と対照的に、引退後はコーチやスカウトとして、ずっとプロ野球に関わっているのです。
私はこの本を手にするまで、てっきり豪速球投手の太く短い現役時代をドラマチックに描いた読み物だと思っていました。
しかし、読んでみるとそうではなくて、なぜ山口高志が40年にわたってプロ野球人として必要とされているのか、地味な努力や人間性などをきちんと描いたノンフィクションであることがわかりました。
プロ野球ファンにはぜひお読みいただきたい力作です。
阪急ファンの方は、山口高志投手、覚えておられますか。
以上、君は山口高志を見たか(鎮勝也著、講談社)を読みました。「日本プロ野球史上最も速い球を投げた投手」(wiki)の伝説の時代、でした。
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