あの頃世界のすべてだった学校と自分への呪いにさよならするまで(もつお著、KADOKAWA)は、いじめを受けた人間の葛藤と「解脱」を漫画化したセミフィクションのコミックエッセイです。学校時代、あなたはグループが苦痛ではなかったですか。
『あの頃世界のすべてだった学校と自分への呪いにさよならするまで』は、もつおさんがKADOKAWAから上梓したコミックエッセイです。
この記事は、Kindle晩をもとにご紹介しています。
本作は、セミフィクションを標榜しています。
作者のあとがきなどから察するに、自分の体験を、(男⇒女とか)設定を変えて漫画化しているようです。
主人公は、会社ではいつもなめられて、それに対して我慢と諦めの日々でした。
どうしてそうなったのだろう。
いじめを受けた人間は、一生その過去を背負って生きていかなければいけないのか。
主人公の高校生女子時代に話は遡ります。
女子グループのなかで行われる、陰湿で過酷ないじめの恐怖に、主人公が怯え続ける毎日が描かれます。
ところが、いじめる側のリーダーも、昔はいじめられっ子でした。
しかも、いじめているうちにいじめられる側から反逆をくらい、あっという間にいじめられる側に回り、そこから最悪の結末へ……
小さな学校、小さなグループ、小さな人間関係、それが世界のすべてだった、あの頃。
かつて苦しんだ、今苦しむすべての人へ贈る物語。……と、Amazon販売ページには標榜されています。
いじめは、いじめる側といじめられる側がいますが、いじめる側は、いついじめられる側に回るかわかりません。
また、いじめる側には、いじめる人間の上に、さらにそこに圧を加えていじめる人間がいるものです。
つまり、誰もが「いじめられる側」になり得るのが、いじめの世界の構造なのです。
でも、その「コミュニティ」自体は、ほんの小さなグループ。
そんなことを、改めて考えさせられます。
本作は2023年2月3日現在、KindleUnlimitedの読み放題リストに含まれています。
人になめられる人生からは「解脱」しよう
福野ユイは、大学の商学部を出ていて、本来なら総合職的立場のはずなのに、会社では失敗の責任をとらされたり、残業を押し付けられたりしています。
「いつもそう。私は人になめられる」
いきなり、私の心をつかむ一言ですね。
私も、これまで関わってきた、そして今も関わる周囲の人々には、なめられています。
なめられてなんぼです。
なめられるのを拒否すると、向こうは逃げていきます。
世間の皆様は私に対して、舐められる存在だから、付き合ってやってんだという態度です。
選択肢としては、なめられるか、それがいやなら絶交か、しかないんですね。
私は、人間なんてしょせん1人だからと思い、絶交をいとわない生き方になりました。
しかし、福野ユイはなめられる方を選択しました。
「上司も同期も後輩も、きっと私にはなにをしてもいいと思っている」
「でもこうなったのは、いつも笑って受け入れている自分のせいだ」
「人に拒否されて、孤立するくらいなら、少しぐらい我慢して諦めるほうがマシだ」
悲しき敗北主義です。
これは、高校時代、シカトといういじめにあったことによるトラウマでした。
そんな福野ユイに、よりによって高校の同窓会(クラス会)の知らせが来ました。
高校生活に、いい思い出がなかった福野ユイは、もちろん行くつもりはなかったのですが、幹事から電話がかかってきて念を押されると、またしても断れずに出席を約束してしまいました。
1度は自殺を考えるほど辛かったのに、そして、もはや就職していて、その連中とは接点もないのに、きちっと断れないんですね。
私も、断れないというのはわからないでもありませんが、面倒になったら途中で電話を切っちゃうな(笑)
クラス会では、当時の写真をスライド撮影。
しかし、福野ユイはほとんどうつっておらず。
「……私、その頃、無視されていたから」
いじめる側だった幹事の中野エリは、「ん、そんなことあったっけ。全然覚えてないや」
福野ユイは心のなかで激怒します。
「なにそれ。覚えてないの?」
都合が悪いからとぼけているのかもしれませんが、本当におぼえていないのかもしれません。
おぼえていないというより、あまり重要なことだと思ってないのだと思います。
よく言いますよね。いじめた側はおぼえていないけれど、いじめられた側は覚えていると。
ここから、福野ユイは辛かった高校生活を思い出します。
上田ミレイと隣同士になり、福野ユイはミレイをリーダーとするグループに入ります。
しかし、そのグループは、ミレイの機嫌にいつもビクビクして、ミレイの言いなりになって誰かをいじめるグループでした。
いじめの「あるある」エピソードが満載なので、それらは本作を実際にご覧いただくとして、まあ要するに、いじめのリーダー(上田ミレイ)とその仲間の数人(中野エリら)が、誰かターゲットを作って、シカトしたり、ときにはゴミや汚物のような扱いをして、SNSに罵詈雑言を描き放つ。
別のターゲットが見つかると、それまでのターゲットは解放され、従順なグループの仲間になる。
福野ユイは、あることから2人目のターゲットにされてしまうのです。
1人目のターゲットは、もともと仲が良かったのですが、福野ユイは自分がそうなりたくなかったから、助けませんでした。
こういうとき、学校というのは無力で、クラス替えをしても、福野ユイといじめっこたちを、また同じクラスにします。
そんなとき、「いやならそもそも、そのグループと関わらなきゃいいのに」という田中アオイと同じクラスに。
田中アオイは、そのグループと仲良くする気がないので、グループの連中に対する物言いも遠慮しません。
もともと関わらないようにしているので、グループにシカトされて寂しい思いをする心配もないし。
しかし、福野ユイは、グループから離れて一本独鈷になる「孤立」が怖くて、田中アオイのように自主独立の精神は持てませんでした。
そして、遂に、上田ミレイに対する中野エリらのクーデターが起こります。
要するに、今度は上田ミレイがいじめられるターゲットになったのです。
リーダーとしての反動もあり、もっとも壮絶ないじめになりました。
しかし、福野ユイは、ここぞとばかりに、自分もいじめる側にまわる気にはなれませんでした。
上田ミレイは、実は中学時代、いじめられっ子だったので、「ヤられる前にヤる」という考えから、高校では先手を打っていじめる側になったのです。
結局、上田ミレイは学校を退学。
すでに精神的にヤられていたので、結局自殺してしまいます。
大学進学後の福野ユイは、そういう暗い過去も忘れて、キャンパスライフをエンジョイしました。
そして、舞台は再び同窓会(クラス会)に。
上田ミレイが亡くなったことが話題になり、相変わらず無反省な上田エリに対して、堪忍袋の緒が切れた福野ユイは、コップの水を上田エリのドレスにぶっかけて、途中退場します。
もう、なめられてナンボの人生はやめよう。
福野ユイは、高校生活のトラウマとおさらばしました。
翌日から、会社では、毅然とした態度をとる福野ユイでした。
自主独立の精神で生きること
「つらいのは今だけ、卒業したら楽になるんだから大丈夫」
という件が「あとがき」にあります。
という言葉をよく耳にしました。
あの頃より少し大人になったいま、 確かにそうだと思います。
当時は想像もできなかった楽しいこと、嬉しいこともいっぱいあったし、なんであんな
ことで悩んでいたんだろう? と不思議に思うこともあります。
でも、渦中の時は私自身、 本当に学校が世界のすべてだと思っていたし、目の前のこと
だけでいっぱいいっぱいで… そんな大人や周囲の言葉は全然心に届かなかったです。
そして、一度受けた心の傷は、見えなくても、自身も周りの人も気づかないような深い
ところで、 何年も何十年も影響を与え続けるかもしれません。
場合によっては、取り返しがつかなくなることもあるでしょう。
そう思うと、簡単に 「大丈夫」 とは言えないと思うのです。
全くそのとおりだと思います。
ただ、作中の通り、卒業しても、その時代の振る舞いが習性になって、同じ展開が後の違う環境でも続いてしまうことがあるのです。
主人公は、高校を出た後、大学4年間は静かに楽しく過ごせたのに、就職したらまた人間関係が「高校時代」に戻ってしまっていますよね。
そういうことかあるので、「卒業までの辛抱」では済まないし、「後になれば昔のこととして笑い飛ばせる」ことにもならないことがあるのです。
あと、これも作中の「クラス会」で出てきましたが、自分が気をつけても、何年も何十年もたってからまで、当時のマウンティングを継続するやつがいることもあるんですね。
そもそも、そのマウンティング自体が失礼で不当であったし、根拠も意味不明なのに、ずーっと時間が経って元同級生と言っても「名前を知っている事実上の初対面」になってからまで、それを持ち出すやつね。
みんながみんなそうだ、というわけではありませんが、そういうものを持ち出すグループの集まりには、私は出席しないことにしています。
いずれにしても、グループに属していないと存在価値がない、一人は惨め、という考え方はやめたほうがいいですよ。
じゃあ逆に、そのグループとやらは、社会的価値がどのくらいあるのかってことですよ。
作中のような、だれかシカトする対象を作らないと成立しないグループなんて、そこに入っているだけで人格疑われますよ。
先日は、『「一人で生きる」が当たり前になる社会』(荒川和久/中野信子、ディスカヴァー・トゥエンティワン)という書籍をご紹介しました。
“ソロ”の生き方を深掘りする興味深い内容です、
一人でいることが怖い方は、ぜひお読みいただきたいですね。
話は戻ると、作中の、田中アオイのような立場、いいですよね。
大衆なんて、温泉の出るところに人が集まるというでしょ。
自分にとってメリットがあると思われれば、いささか失礼な態度をとっても人はついてきます。
そうでなかったら、逆にどんなに下手に出ても、いやそうすればそうするほど舐められて使い捨てにされます。
大衆なんて、その程度です。
「人脈」って、名刺交換したら成立するわけではなく、お互いに価値を感じられるかどうかなんですよね。
上昇志向は、私が望むものではありませんが、まともな人とまともに付き合うには、まず自分がそれ相応の人になることです。
それが面倒だったら、田中アオイのように自主独立の精神で、他者におもねず生きることです。
私はもう、田中アオイ派ですよ。
孤立厭わず。
これから歳取るのに、周囲に人がいないと寂しくないのかって?
別に(笑)
直系の息子や孫だって、カネがある年寄りなら面倒見るけど、そうじゃなければ邪魔にされるでしょ。
要するに、年寄の周りにいるもの好きたちは、年寄に何らかの価値があるから年寄りを囲んでいるわけです。
ま、私は何もないし、そういうことなら、別に一人でもいいよと。
もしかしたら孤独死で迷惑かけるかもしれないけど、だからといって、別に人に囲まれるのが幸せとは限らないしね。
みなさんは、いかがお考えですか。
以上、あの頃世界のすべてだった学校と自分への呪いにさよならするまで(もつお著、KADOKAWA)は、いじめを受けた人間の葛藤と「解脱」、でした。
あの頃世界のすべてだった学校と自分への呪いにさよならするまで (コミックエッセイ) – もつお
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