日本人物史1(つぼいこう、朝日学生新聞社)は弥生~平安時代にかけて活躍した聖徳太子や小野妹子など11人の偉人を漫画で解説

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日本人物史1(つぼいこう、朝日学生新聞社)は弥生~平安時代にかけて活躍した聖徳太子や小野妹子など11人の偉人を漫画で解説

日本人物史1(つぼいこう、朝日学生新聞社)は、弥生~平安時代にかけて活躍した11人の偉人の、功績やその生涯を漫画で解説しています。この記事では、その中から聖徳太子・小野妹子をご紹介します。聖徳太子は、政治改革と文化振興に尽力しました。

『日本人物史』は、全4巻で42人の偉人を紹介しています。

これまで、第3巻から伊能忠敬、第4巻から小村寿太郎をご紹介しました。

第1巻では、弥生~平安時代にかけて活躍した11人の偉人の功績やその生涯を漫画で解説しています。

その11人とは、卑弥呼、聖徳太子、小野妹子、中大兄皇子、中臣鎌足、聖武天皇、行基、鑑真、藤原道長、紫式部、清少納言などです。

いずれも、小学生の学習指導要領で取り上げられている人物なので、中学生以上から、知っているはずなのですが、出来事や年号の暗記主義では、生き様や時代的な功績までは細かく理解できないですよね。

そこで、この記事では、その中から聖徳太子・小野妹子の生き様と功績、をご紹介します。

聖徳太子は、日本古代史における最も輝かしい政治家・思想家の一人でした。

彼の生涯は、飛鳥時代の日本を形作る上で中心的な役割を果たしました。

聖徳太子は、日本のお札に使われた人物として、40代以上の人には馴染みのある偉人だと思います。


千円札(1950年1月7日~1965年1月4日)に聖徳太子の肖像が使用されていました。
五千円札(1958年12月1日~1986年1月4日)でも聖徳太子の肖像が採用されていました。
一万円札(1958年12月1日~1986年1月4日)でも聖徳太子の肖像が使用されていました。

Copilotに、聖徳太子について簡単にまとめてもらいました。

1. 生まれと名前の由来:
– 547年に第三十一代用明天皇と第29代欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女の第二皇子として生まれました。
– 本名は「厩戸皇子」で、その名前は厩(うまや)で生まれたことに由来するとされています。

2. 政治改革と仏教普及:
– 20歳で摂政皇太子に抜擢され、政治の実権を与えられました。
– 蘇我馬子と協力して、十七条憲法や冠位十二階などを定め、天皇を中心とする国家体制を整えました。
– 仏教や神道の振興にも努めました。

3. 伝説と偉業:
– 伝説的なエピソードが多く残されており、聖徳太子は往時より特別な存在として崇敬されていました。
– 「十七条憲法」は、役人たちに向けた道徳的な規範で、平和を訴える内容から始まっています。

4. 聖徳太子の名言:
– 「和をもって貴しとなす」(十七条憲法の第一条)は、彼の理念を象徴しています。

聖徳太子は、政治改革と文化振興に尽力し、日本社会に大きな影響を与えました。

具体的には、「憲法」を作り、「仏教」を日本に導入した人です。

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「仏教」を日本に導入し「憲法」を作る

聖徳太子の本名は、厩戸王(うまやとのおう)。

十人の話を同時に聞いて、すべて的確な答えをしたという伝説もあります。

超能力ということではなく、人の話をよく聞いて理解したという意味でしょう。

聖徳太子は、「皇太子」だったことであとから付けられた称号で、飛鳥時代にはそうは呼ばれていませんでした。

お札の肖像も、100年ほどあとの衣装だそうです。

飛鳥時代の朝廷は、豪族が天皇を支えていましたが、物部氏は軍事や裁判、蘇我氏は外交や経済を担当していました。

用明天皇(聖徳太子の父親)が亡くなったことで、自分たちに都合の良い天皇を担ぐべく、有力豪族同士で覇権争いがありました。

そんな頃なので、中国の仏教が、朝鮮半島を経て日本に伝わろうとかという時、賛成派と反対派に分かれました。

賛成派は蘇我氏一族。反対派は物部氏一族。

壮絶ないくさになりましたが、蘇我氏と血縁のあり、仏教に傾倒する厩戸王が加勢した蘇我氏が勝利を収めました。

しかし、いくさにまきこまれ、多数の部民(庶民)が命を失ったことで、厩戸王はますます仏教へ傾倒しました。

仏教は、インドの封建社会を否定して始まった宗教ですから、家柄や身分ではなく、本人の能力や功績を重んじます。

初めての女性天皇である推古天皇の摂政(天皇の公務の代行)に就いた厩戸王は、「すべてのものが平和に暮らせる社会」として「天寿国」を目指し、「冠位12階」を制定。

家柄に代わって、個人の能力や功績に応じて位を与えようという決まりです。

そして、「17条の憲法」を制定。

国全体のあり方を決めた近代憲法とは違いますが、政治をするうえでの心構えにあたる、今で言う道徳のような決まりを定めました。

たとえば、「和を大切にして争いを起こさないこと」とか、「自分だけが正しいと思わないで他者の意見を聞きなさい」とか。

仏教でいうと、在家信者が守る、「戒律」の「戒」にあたるものです。

外国との交流には、武力を送るべきという武闘派の意見もありましたが、聖徳太子は隋(中国)とのつながりを深めるべく、使者に小野妹子を送りました。

隋は、朝鮮半島を牽制する意味もあって、倭国(日本)の申し入れを受け、多くの留学生や留学僧を受け入れることにしました。

さらに、聖徳太子は斑鳩寺(法隆寺)を建立し、歴史書の作成も企画しました。

それが、後にできる『古事記』と『日本書紀』です。

和をもって貴しとなす


しかし、なかなか社会の発展というのは、まっすぐな坂を登るようにはいかず、その後、我が国の歴史は、階級社会である貴族文化や士農工商の封建社会ができあがったり、長く戦国時代が続いたりしました。

「和をもって貴しとなす」は、日本社会の特徴として、よくも悪くも根付いているでしょうね。

なあなあの弊害もありますが、アメリカのような訴訟社会も疲れそうですからね(汗)

ただ、この教えは、人々が協力し調和を保つことで、国家や社会が繁栄することを示しています。

たとえば、今の政治論争を見ていると、自称「右」と自称「左」が、互いにマウントを取り合うポジショントークに終始していて、建設的ではないですよね。

何を評価し、何を否定するのか、「右」「左」ありきではなく、「人々が協力し調和を保つこと」で政治を前に進めてもらわないと、バブル崩壊以来、GNPが2位から4位まで下がり、技術も国家機密もダダ漏れ、30年労働者の賃金が上がらず、人口も減り、土地も外国人に爆買いされている日本は、早晩取り返しのつかないことになるんじゃないかと私は心配しています。

聖徳太子のお札、覚えていますか。

以上、日本人物史1(つぼいこう、朝日学生新聞社)は弥生~平安時代にかけて活躍した聖徳太子や小野妹子など11人の偉人を漫画で解説、でした。

日本人物史1 卑弥呼/聖武天皇/紫式部ほか 朝日学生新聞社 日本人物史 - つぼい こう
日本人物史1 卑弥呼/聖武天皇/紫式部ほか 朝日学生新聞社 日本人物史 – つぼい こう

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