死に至る病(原作/キェルケゴール、漫画/バラエティ・アートワークス、Teamバンミカス)は、自己である精神の絶望について説いた書籍です。この世界には絶望していない人間などいない。この絶望こそ死に至る病であると分析した哲学書が理解できます。
『死に至る病』は、デンマークの哲学者/思想家であるセーレン・キェルケゴールの哲学書を、バラエティ・アートワークスが漫画化し、Teamバンミカスから上梓したものです。
まんがで読破シリーズ、全55巻中の第26巻です。
この記事は、Kindle版をもとにご紹介しています。
「人間は精神である。だが、精神とはなにか。精神とは自己である」
「死に至る病とは絶望のことである」
これは、原作の冒頭から出てくる主張です。
「死に至る」というタイトルですが、「絶望」するから「死ぬ」、という意味ではありません。
本当の自分であろうとする自分から、目を逸らしていることが「絶望」のはじまりであり、自己でない状態である以上、肉体の死をも越えた苦悩が「絶望」であり、事実上の「死」だと述べているのです。
つまり、人間にとって本当の死は、肉体の死ではなく精神の死であり、それは自己に絶望することだというのです。
これは、哲学的な意味を含んでいます。
人間の生命に限らず、「あらゆるものの根源は精神である」という思想のことを観念論といいます。
哲学では、もうひとつ、「あらゆるものの根源は物質である」という思想のことを唯物論といいます。
根源が「物質」なのか、「精神」なのか、という違いが、唯物論と観念論の違いです。
唯物論は、たとえ絶望していようが、その人が生存していれば、「生きている」ことになります。
ま、当然ですな。
肉体という「物質」があるわけですから。
ところが観念論は、精神がおおもとですから、「物質として存在していても、認知されなければ、存在しているとはいえない」ということなんです。
つまり、自己に絶望したということは、自己を認知できないので、存在しているとはいえない。
観念論にとっての「死」とは、自己の絶望ということです。
では、その「絶望に至る病」とはどのようなものでしょうか。
本書では、それをストーリー漫画として構成しています。
本書は2022年12月22日現在、AmazonUnlimitedの読み放題リストに含まれています。
自分の将来が見えずに絶望している主人公
主人公は合田真理(あいだまさみち)。
真理と書いて「まさみち」と読む。
杉真理というシンガーを思い出してしまいました。
それはともかくとして、冒頭から、原作の一文が書かれています。
「この世界には絶望していない人間などいない。この絶望こそ死に至る病である」と。
真理は、クラスのみんなとうまくやっていけません。
といっても、孤独を楽しむというわけでもなく、掃除当番を押し付けられるような理不尽なことを飲み込んで迎合することしかできません。
家に帰ると、父親は「いい学校に入って、いい会社に就職して」と、発破をかけるだけです。
母親も、「なんでもお父さんの言うとおりよ」としか言いません。
真理は思います。
自分の将来に幸せなんてあるのか。
このままの自分で……
いつもと変わらない自分
何も帰ることのできない日常
僕は、こんな僕自身が嫌いなんだ。
僕は、僕であることをやめたい。
学校にいても、自分の家にいても、楽になれる場所なんてない。
きっと僕が僕である限り、ずっとそうなんだ。
そんなふうに思っています。
そんなある日、フリーライターで身を立てている叔母と会います。
いい会社を目指すことなく、マイペースでライター稼業で身過ぎ世過ぎしている叔母を、兄である真理の父は軽蔑しています。
兄妹でありながら、没交渉です。
そんな自由に生きる叔母を、真理は嫌いではありません。
真理は、叔母に愚痴ります。
「僕は、自分自身に絶望している。世界中のどこを探しても、僕ほど絶望している人間はいないよ」
叔母は、キェルケゴールの『死に至る病』を思い出したといい、キェルケゴールの話を始めます。
倫理的な生き方をすれば絶望から逃れられる
キェルケゴールは1813年、デンマーク生まれ。
父親が、伯父の事業を継いで成功し、デンマーク経済が危機的な状況になったときも、ひとりだけ災難から逃れました。
兄妹の末子だったセーレン(キェルケゴール)は、父親に才能を見出されて英才教育を受けます。
父親に徹底的に倫理学を教え込まれました。
間違いを犯す人間になるな
人前で目立とうとするな
父親から定められた行き方をこなすだけの毎日……
セーレン(キェルケゴール)は、健気にもそれに従いました。
その結果、学校の成績は飛びぬけいていたが、孤独な存在になってしまいました。
セーレン(キェルケゴール)は、父親やクラスメートから解放されたい。
そして、自分自身からも解放されたい、と考えるようになります。
しかし、なかなか父親の影響からは抜けきれないまま成長します。
ま、毒親だったんですな。
キェルケゴールは、大学で神学と哲学を学び、信心深い父親に従って牧師になろうとします。
そこで出会ったのが、ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルです。
ヘーゲル哲学は、「絶対精神」という観点から世界を捉えようとします。
絶対精神=神です。
絶対の精神ですから、ヘーゲルは観念論者です。
ヘーゲルといえば、ヘーゲル弁証法です。
弁証法は、
正……テーゼ
反……アンチテーゼ
合……ジンテーゼ
という3つで構成されています。
本書の説明では、
「これは三角形である」、という命題「テーゼ」があるとします。
一方、「これは円である」という反対命題「アンチテーゼ」があります。
そのふたつは矛盾しているけど、実は優劣なく結びついています。
そのふたつを本質的に統合したのが、「これは円錐である」という「ジンテーゼ」です。
物事は、矛盾があるから発展できる。
政治、宗教、科学、経済、すべては弁証法で説明できる。
世界の全ては、矛盾や対立を克服して発展していく姿だとヘーゲルはいっているといいます。
そして、真理の人生を発展させる手かがりは、「疎外」であると。
ヘーゲルの言う「疎外」とは、実際は自分の本質であるものが、自分にとってよそよそしく敵意のあるものとして現れてくること。
まさに、自分に絶望する自分のことだと真理は考えます。
うーん、そう考えちゃいますか。
私は、何のことやらですね。
だって、抽象的で、何言ってるかわかんないと思いませんか。
ま、そこは漫画だから(笑)
自分の嫌いな自分(アンチテーゼ)を自分自身であると認められたとき、人は自己の中に自由を迎え入れられるというのです。
矛盾がすべて、ひとつの調和された状態になること、そこからより高い次元に飛躍することを、止揚(アウフヘーベン)といいます。
それによって、不自由な自己は完全な自由になるのです。
ところが、キェルケゴールは、ある日からヘーゲルに疑問を持つようになります。
ヘーゲルは、歴史を必然的なものととらえていましたが、本当に必然的なものなのかと。
ヘーゲルは世界の仕組みを捉えているが、個々の人間はどうなるのだと。
人間が、絶対者になるために、超越的な歴史の力によって、最初から最後まで人間の選択が決定されているとしたら、人間の自由意志はないではないかと。
キェルケゴールは考えます。
人間の存在の真実は、そんな法則性で捉えることはできない。
存在は集合体になってこそ事故を理解できるというが、自分を理解できるのは自分自身しかいないはずだと。
そして、世界は必然的なものではなく偶然的なんだと。
キェルケゴールは、父親から、厳格で倫理的なことに厳しい理由を打ち明けられました。
「私の家族は呪われていて、お前は33歳で死ぬ」と言われました。
父親は、最初の妻が瀕死の病床にいたとき、家政婦に無理やりお手つきし、その時できた子どもがキェルケゴールというのです。
キェルケゴールは、グレて退廃的な生活をおくるようになります。
しかし、結局父親の呪縛からは逃れられず、「本当に33歳で死ぬ定めなのだ」と思い込むようになります。
しかし、それが、彼に新しい思想的な一歩を進ませます。
父親は自分の弱さから罪を犯し、息子の自分もその罪から逃れられない。
さすれば、絶望の罪という自分自身の存在と向かい合っていこうと。
まさに、疎外から新しい自分に進む弁証法的な思考です。
キェルケゴールは、人間の生き方をふたつに分けました。
- 感性的な生き方
- 倫理的な生き方
日常の表面的な部分だけが人生のすべてを占める刹那的な生き方。
トレンドに流される。
自分自身に無責任。
誰かが私を私にするのではなく、自分自身の意志で渡しになる
キェリケゴールがいう「死に至る病」とは、自己が自己である責任を放棄してしまうことです。
キェルケゴールは、絶望を3つのタイプに分けました。
- 自分の絶望を知らない絶望
- 自分の絶望を知って逃避する
- 自分の絶望を知って反抗する
感性的な生き方の中で、それが絶望であることに気がついていない絶望。低きに流れる生き方。
自己を選べる自由と責任の不安から逃れようとする。つまり現実逃避
自分の殻に引きこもる
怒りの絶望。今の自分は自分の外にあるすべてのせいだと思う
被害者意識が強い
こうした絶望からは、どうすれば逃れられるのか。
キェルケゴールは、精神のレベルの高い生活を送るしかない、と言っています。
ということで、まだ本書は続くのですが、詳細はぜひ本書をご覧ください。
人生(自己)は「偶然」だけでなく「必然」もある
読後感想としては、まあ、やはり観念論の限界は感じましたね。
つまり、キェルケゴールは、「精神のレベルの高い生活」を結論としていますが、人間は心がけだけで自分の生き方を決められるわけではないですよね。
一例をあげます。
たとえば、あなたが、「現代の消費文化はものを大切にしていない。パソコンやスマホを、使えるのに買い替えるのはけしからん」と思っていたとします。
それは流行を追う、本書で言うところの「感性的な生き方」にあらがっていると見ることもできます。
倫理的にも、ものを大切にするご立派な考えです。
でも、メーカー側が製造を打ち切り、修理などサポートのための部品を廃棄したり、OSがバージョンアップして使えなくなったりしたら、嫌でも新しい機械に替えないと使えなくなってしまいますよね。
もし、そうなったら、
「いや、そういうことだったら、もうパソコンもスマホも使わない」
と、意地を張りますか。
それは、結局自分が損をしますよね。機会の損失。
飲食店のクーポン券も、購入時のポイントも、スマホで処理するようになっていますよね、今は。
スマホを捨てたら、その機会を捨てることになります。
LINEなら、電話代をかけずに相手と通話ができますよね。
それも捨てることになります。
ネットを使った在宅ワークや、通信制の大学・高校も増えてきました。
それらの選択肢ももちろんなくなります。
今は、企業はネットのコンテンツとして、自社の宣伝や資料の公開などしますよね。
それも、獲得することができなくなります。
社会が、そういうものを使うことを前提として「発展」しているので、自分だけがそっぽをむくわけにいかないのです。
つまり、人間が社会の一員である以上、残念ながら自分の意志・心がけだけで何かを決めることはできないし、できたとして、それを正解とはいえないということです。
倫理的ならいいわけてではないのです。
キェルケゴールによると、絶望のパターンとしては、何でも他人のせいにすることがあると述べています。
もちろん、たんなる責任転嫁は不毛ですが、世の中、自己責任だけで物事が進んでいるわけではないですよね。
たとえば、マイケル・サンデルさんの『実力も運のうち』では、そもそもどんな親に生まれたかが、その人の人生に大きな影響を与えると述べています。
人生は「ほしのもと」の影響を否定できないのに、学歴や能力主義って正しいのか。
努力や能力や学歴による勝負というのは、一見公平に見えます。
だからといって、人生は「生まれ」ではなく「努力」だといえるでしょうか。
その人の本来持っている能力、地道に努力しようという気持ち、価値観、前提となる文化水準などは、結局親の遺伝子や経済力や環境や人脈に大きく依存しています。
つまり、社会はもともと格差があり、親はその格差のいずれかに生きているのに、生まれた子どもは、すべてが同じところからのよーいどん、になっていないだろうということです。
もし、毒親だったら、それだけで人生は大きなハンデです。
社会情勢とともに生き、ほしのもとの影響を受けなければならないのが人生であるのに、「他人のせいにしてはいけない」では、真実にアプローチすることはできなくなってしまいます。
「他人のせい」というより、そもそも「他人あっての自分」というのがリアルな自己です。
その点で、心のあり方だけにフォーカスできるのかな、という素朴な疑問があります。
それはやはり、「精神」をおおもととし、人生をもっぱら「偶然」とする観念論であることによる矛盾だと思います。
別に哲学なんか勉強しなくても、人生は「偶然」と「必然」のどちらの要素もあることぐらい、わかりますよね。
「必然」だけでもなく、「偶然」だけでもありません。
しかも、その必然と偶然は、糾える縄のように絡み合っていて、関連しあっているので、どちらかを改善するというわけには行きません。
ま、改善できたら、その人は理想通りの人生を送れるでしょうけどね。
とにかく、「精神」だけでは人生(自己)は語れない、と私は考えます。
みなさんは、いかがお考えですか。
以上、死に至る病(原作/キェルケゴール、漫画/バラエティ・アートワークス、Teamバンミカス)は、自己である精神の絶望について説く、でした。
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